第一章 【裏話】
裏で皆がどんなことをしていたのか?
こんなことをしていました。
魔の集まりし王都『モンペルガ』。
亞人、獣人が主な住民であり、少数の人間が住む区域もある。
この世界で最大の二都市の内のひとつだ。巨大な壁に覆われた王都内で異彩を放つのは、都市の北側に聳え立つ巨大な魔城である。
その最上階にある王の寝室で、頭を抱える男がいた。
手入れの行き届いた上等な身なりをしている男の名は、『シフ・ドトルセン』。何を隠そう、魔王国の大臣――その人である。
しかし、指先の爪が鋭く伸び、太く長い爬虫類の尾を持つ彼を『人』と表現するのは、いささかの無理があるかもしれない。
「……こうしていても仕方がない」
シフは自分に言い聞かせるように呟き、長い間抱えていた頭から手を離すと、その大きく太った身体を動かし部屋から出た。
彼が向かったのは謁見の間。
朝は賑やかだったその場所も、昼になった現在では静寂に包まれている。
哀愁を帯びた目で玉座を見つめるシフの下に、金髪の女性が凛々しく歩み寄った。
「大臣殿。心中お察しする」
「ああ、貴女でしたか……。いかがですかな? 姫のご様子は?」
「見た目は普段通りです」
「見た目は……ですか……」
女性の含みのある言い方に、シフはもう一度ため息を漏らした。
心中を察するのは、自分の方である。
「いま姫は?」
「部屋で帰り支度を済ませています」
「それはまた随分と早い」
これからのことを考えれば、仕方がないことなのかも知れない。
姫の心情を考えたシフは、居た堪れない気持ちで顔を伏せた。
そんな彼を見て、金髪の女性は心を引き締める。
「それでは大臣殿、失礼いたします。有事の際は声をかけてください」
「はは、今から頭が痛いですな。これからはお互い大変になるでしょう。言う必要もないかもしれませんが、姫をよろしくお願いいたします」
金髪の女性は一礼し、謁見の間をあとにする。
ひとり部屋に残った大臣は再び玉座を見つめ、もう一度ため息を吐いた後で、
「本当に困ったお方だ」
そんな愚痴をこぼした。
:::::::::::::::::::::::::::
「くっ! このような時に何をお考えになっているのだ!!」
失礼します――と姫の部屋を訪れたのが一刻ほど前。
もぬけの殻となった室内を見て飛び出した金髪犬耳の女は、忙しない様子で城下町を走り回っていた。
大勢の住人がいるこの場所で、少女ひとりを見つけ出すのは至難。
しかし、女はその大きな耳とよく利く鼻を使い、その範囲を的確に絞り込んでいった。
「見つけたッ!」
市場の一角で、見知った匂いを放つ黒ローブの影を捉える。
風の如く走る金髪の女から身を隠すように、その影は裏路地へと消えた。
さらに速度を上げる金色の風。
人ひとりがようやく通ることのできる、道とも呼べない暗い道を駆けるその前に、突如として現れる別の影。
全力で止まろうとするも、時既に遅く、風のような速度そのままに激突してしまう。
「ひでぶ!?」
別の影は、紙切れのように宙を舞った。
:::::::::::::::::::::::::::
「――――なんじゃこれは? よい香りがするのぅ」
裏路地で拾った、見たことも無い食べ物。
香ばしいということ以外が未知の食べ物は、これまた変な容器に入っている。
白髪の少女は街外れにある小川の土手で、自信作壱号こと『そぼろ味噌大根』を不思議そうに眺めていた。
「ほっ? …………開いた」
珍妙な音を立てて蓋を開く変わった容器。
その中から開放された芳香は、少女の鼻腔をくすぐり、周囲へと溶け込んでいく。
「ふむ」
少女は「辛抱堪らん」と、魔法で氷のフォークを精製し、冷たくないよう手拭いで指先を保護した。そして躊躇せず鶏そぼろのかかった大根に齧り付き、小さな口がいっぱいになるまで頬張る。
「――――おお!」
少女の口から、驚嘆の声が溢れた。
甘辛く歯触りの良い鶏肉。
“しゃく”と音の聞こえそうなほどに瑞々しい大根が、味が濃い目の肉と相まって見事な調和を生んでいる。出汁を存分に吸った大根は、噛めば噛むほど甘みが広がっていった。
ひと口、もうひと口。
そして気が付いたときには、ほとんどが少女の胃袋の中に消えてしまっていた。
「むぅ……もうこれだけか」
容器は少女の両手ほどもない小さめのサイズ。
あとひと口となった大根を名残惜しそうに見つめる少女は、寂しさと同時にこの料理を作った料理人の存在が気になっていた。
料理人を手に入れてしまえば、毎日でもこの料理を味わうことができる。
「姫! もう逃しませんよ!」
いつの間にか追いついた金髪の女が、少女との距離をジリジリと詰める。
「うむ。もう逃げん」
はっきりと言い放った白髪の少女は、きょとんとする女の手にタッパーを渡し、「食え」とひとこと告げた。
言葉に従い、中身を口にする金髪の女。
その姿を見た少女は小悪魔的な笑みを浮かべてから、女に言った。
「戻るのは延期とする。匂いを覚えたな? これを作った者を捜すぞ」
:::::::::::::::::::::::::::
場面は進み、非人街にて稲豊が白髪と金髪の女性に連れ去られたあと。
中央の広場では、あるオークの命の灯火が消えようとしていた。
「ハッ……ハッ……!」
荒い呼吸を繰り返すだけで、瞳はどこか中空を泳いでいる。
遠巻きに見ていた住民たちは、そのオークの存在を持て余していた。
「自業自得というやつだな」
「まぁ、あきらめてくれ」
非難にも似た声がターブの耳に届くが、それに反応するだけの気力はもうない。
だらりと口から飛び出した舌から、土の味が伝わる。
ターブは「このままじゃダメだ」とぼんやり思った。
誇り高い戦士が、人間よりも屈強な自分が、土に顔を擦りつけ頭を下げながら無様に死ぬなど、到底許されることではない。
「ぐ……ふ……ぅ」
せめて――と最後の力を振り絞り、ターブは身体を仰向けにした。
青く広大な空が瞳に映る。
流れる雲の高さを見て、先ほどの黒ローブが頭をよぎった。
歯が立たないなんて問題ではない、次元が違う。
はるか高みの存在はアリでも潰すような気軽さで、ターブの太っ腹に穴を空けた。
黒ローブにとってのターブは、その程度でしかない。
会話の片手間に殺せるほどの、絶望的な力の差があった。
『人間から見たら……オレ様もそう映っているのだろうか?』
ターブは思う。
無力な人間からすれば、魔物だって強い生物だ。
容赦なく生命を蹂躙できる存在は恐ろしく……そしてずるい。
自分と黒ローブは何が違うのだろう?
自分と人間はどこが違うのだろう?
それはきっと――――そう生まれたから。
「オークに生まれたのが……悪いってんなら……次はもっと…………」
もっと強く生まれ変わりたい。
ターブの視界が歪み、血液ではない液体が目の端を流れる。
歪んだ視界も、侵食する黒が覆い隠し――やがて何も見えなくなった。
暴力的な睡魔が押し寄せ、ターブは重くなった瞼に押されるように瞳を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、強力で絶対的な来世の自分。
しかしそれも少しずつ消え、意識はゆっくりと闇に溶けていった。
――――――そのときだった。
なぜかターブの身体に、力が戻ってくる。
強烈な睡魔は一瞬にして消え去り、意識が覚醒していくと共に五感も蘇る。
そこでターブは初めて気付く。
己の喉が、必死になって何かを飲み下していることに。
「…………あ?」
薄っすらと開いた目に飛び込んできたのは、どこにでもある木のスプーン。
そしてスプーンから滴るのは、茶色の液体である。ターブが見たこともない液体が、開けっ放しになった口に流し込まれていた。
視線をスプーンの持ち手へ逸らすと、人間の少女の姿。
少女は木製の器から茶の液体をたどたどしく掬っては、何度もターブの口内へと流し込む。痩せ細った少女の足は、ターブの血溜まりで酷く汚れてしまっていた。
液体を嚥下する度に、ターブの肉体に活力が戻ってくる。
さらに視線を反対へ向けると、今度は大人の女性がターブの傷口を止血しているのが見えた。女性の顔は、少女と良く似ている。
「…………なんで……だ?」
ようやく喉から絞り出したのは、純粋な疑問。
ターブには、二人の行動がどうしても理解できなかった。
迷惑をかけた。
恐怖を与えた。
なのになぜ、人間が魔物を救おうとするのか?
首を捻るターブの疑問に、黒髪の女性はこう答えた。
「この子はさっきまで死にかけてて、九死に一生を得たの。私はそれが何よりも嬉しかった。だからその気持ちをお裾分けしたいの。人だって魔物だって、生命が助かるなら――それは嬉しいことだもの」
オークに生まれた弱い自分が、生きていても良いのだろうか?
母娘を手伝おうと駆け寄る住民たちの姿が見える。
ターブの視界は再び歪み、何も見えなくなった。