表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
にくゑ-禁断の因習村百合ホラー-  作者: カクナノゾム
第十二章 封じの井戸
94/110

その声を……

 店に戻り、千鶴は商品の整理をはじめた。何か頭に霧がかかったようにぼぅっとして仕事が覚束ない。


 夕暮れが山に沈むころ、千鶴は店の前に出る。

 西の空はまだ茜色を残しているが、風は冷たい。

 隣に目をやると、診療所の明かりは、煌々と輝いている。


 ――先生にお夕飯、と思いはしたが、気怠さが勝り、何もする気になれなかった。

 胸の奥に、重たい鼓動がある。

 右腕の包帯が湿って、内側に熱がこもる。

 触れると、脈に合わせてわずかに震えた。


「どうしたのかしら?」


 そう呟いてみるが、痛みよりも——懐かしさのようなものが胸を満たしていく。

 宵闇が迫る中、千鶴は部屋に戻った。

 部屋の中はもう薄暗い。

 障子を閉め、囲炉裏に火を入れる。

 燃え残った薪が湿っていて、ぱちぱちと音を立てた。

 その音に混じって、微かな囁きがした。


 ……千鶴。


 火が鳴ったのかと思った。

 けれど、違う。

 もっと低く、柔らかい声。

 耳の奥で溶けるように響く。


 「宋次……さん?」


 声に出した瞬間、右腕の包帯が熱を帯びた。

 中で何かがうごめくように、皮膚がざわめく。

 千鶴は息を呑み、袖口を押さえた。


 ――会いたい……だが、いけん。

 ――村を出ろ……逃げるんじゃ。


 音ではない。

 心の奥に染みこむような響きだった。

 涙が頬を伝う。


 「あなた……生きていたんですね……」


 それだけで、胸の痛みが消えていく。

 風が吹き込み、吊り下げた風鈴が鳴った。

 その音が止むと同時に、湯飲みがかすかに揺れる。

 お茶の表面に、波紋がひとつ。

 部屋の中には、自分以外の呼吸があった。

 右腕の包帯の隙間から、じわりと赤い滲みが広がる。

 掌に温かい感触。

 それは血のはずなのに、冷たくはなかった。


「どこに……どこにいるんですか、あなた!」


 その言葉を口にした瞬間、外で何かが軋んだ。

 井戸の方角から、金属が鳴るような音。

 それがまるで返事のように響いた。


 千鶴は障子を開けた。

 夜の空気が一気に流れ込む。

 山の上に、赤黒い月が出ていた。

 冷たいはずの風が、どこか甘い匂いを運んでくる。


 ――千鶴、来ちゃいけん。

 「ええ、宋次さん……そっち、ですか?」


 箪笥の上の写真立てに手を伸ばす。

 夏祭りの夜、並んで笑っているふたり。

 夫の手が、自分の肩を抱いている。

 写真の中のその感触を確かめるように、右腕を抱いた。


「もう、待つのは終わりにしないと」


 彼女は微笑み、ゆっくり障子を閉めた。

 その背に、見えない何かの影が寄り添っていた。



 深夜になった。

 家の中の火はすべて落ち、闇の中に囲炉裏の灰だけがほのかに光っている。


 千鶴は座布団の上で身を起こし、右腕をそっと押さえた。

 包帯の下がぬるりと湿っている。

 指先に触れると、温かい液が滲んでいた。


 ――千鶴。

 ――ひとめ会いたい……だが来ちゃいけん。


 あの声が、今夜はすぐ耳のそばで聞こえる。

 遠くからではない。家の外、戸口の向こうに立っているような気配。


 千鶴は深く息を吸い、寝間着のまま立ち上がった。

 写真立てを手に取り、夫の笑顔を見つめる。


「宋次さん、もう……今、行きますね。あなたと一緒にいたいんです」


 障子を開けると、霧が流れ込んだ。

 外の空気は、どこか生ぬるい。

 月が赤黒く霞んで、雲の間に沈みかけている。

 裸足のまま戸口を出る。

 土の冷たさが、足裏から心臓までゆっくりと登ってくる。

 庭の風鈴がひとつ鳴った。


 それが合図のように、包帯の端がふわりと解けた。

 腕から赤い滴がひとつ、地面に落ちる。

 霧の向こうに、懐かしい影が揺れている。

 木立の向こう、井戸へ続く細い道。


 水音が微かに聞こえる。

 その音は不思議と優しく、まるで胎内の鼓動のようだった。


 千鶴は歩き出す。

 右腕から滴る血の跡が、薄い月明かりに光る。

 一歩ごとに、世界が柔らかく遠のいていく。

 耳の奥で、水と呼吸が重なり、声になる。


 ――千鶴。もう、いい。

「ええ、宋次さん。ずっと、ずっと待ってたんですよ」


 霧が濃くなる。

 前方に、黒い影がひとつ立っていた。

 見慣れた背丈。見間違えようのない姿。


 千鶴は足を止めない。

 右腕を差し伸べ、闇へ向かって歩く。

 やがて彼女の姿は、霧に溶けるように消えた。

 夜の村に、静寂だけが残る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ