その声を……
店に戻り、千鶴は商品の整理をはじめた。何か頭に霧がかかったようにぼぅっとして仕事が覚束ない。
夕暮れが山に沈むころ、千鶴は店の前に出る。
西の空はまだ茜色を残しているが、風は冷たい。
隣に目をやると、診療所の明かりは、煌々と輝いている。
――先生にお夕飯、と思いはしたが、気怠さが勝り、何もする気になれなかった。
胸の奥に、重たい鼓動がある。
右腕の包帯が湿って、内側に熱がこもる。
触れると、脈に合わせてわずかに震えた。
「どうしたのかしら?」
そう呟いてみるが、痛みよりも——懐かしさのようなものが胸を満たしていく。
宵闇が迫る中、千鶴は部屋に戻った。
部屋の中はもう薄暗い。
障子を閉め、囲炉裏に火を入れる。
燃え残った薪が湿っていて、ぱちぱちと音を立てた。
その音に混じって、微かな囁きがした。
……千鶴。
火が鳴ったのかと思った。
けれど、違う。
もっと低く、柔らかい声。
耳の奥で溶けるように響く。
「宋次……さん?」
声に出した瞬間、右腕の包帯が熱を帯びた。
中で何かがうごめくように、皮膚がざわめく。
千鶴は息を呑み、袖口を押さえた。
――会いたい……だが、いけん。
――村を出ろ……逃げるんじゃ。
音ではない。
心の奥に染みこむような響きだった。
涙が頬を伝う。
「あなた……生きていたんですね……」
それだけで、胸の痛みが消えていく。
風が吹き込み、吊り下げた風鈴が鳴った。
その音が止むと同時に、湯飲みがかすかに揺れる。
お茶の表面に、波紋がひとつ。
部屋の中には、自分以外の呼吸があった。
右腕の包帯の隙間から、じわりと赤い滲みが広がる。
掌に温かい感触。
それは血のはずなのに、冷たくはなかった。
「どこに……どこにいるんですか、あなた!」
その言葉を口にした瞬間、外で何かが軋んだ。
井戸の方角から、金属が鳴るような音。
それがまるで返事のように響いた。
千鶴は障子を開けた。
夜の空気が一気に流れ込む。
山の上に、赤黒い月が出ていた。
冷たいはずの風が、どこか甘い匂いを運んでくる。
――千鶴、来ちゃいけん。
「ええ、宋次さん……そっち、ですか?」
箪笥の上の写真立てに手を伸ばす。
夏祭りの夜、並んで笑っているふたり。
夫の手が、自分の肩を抱いている。
写真の中のその感触を確かめるように、右腕を抱いた。
「もう、待つのは終わりにしないと」
彼女は微笑み、ゆっくり障子を閉めた。
その背に、見えない何かの影が寄り添っていた。
◆
深夜になった。
家の中の火はすべて落ち、闇の中に囲炉裏の灰だけがほのかに光っている。
千鶴は座布団の上で身を起こし、右腕をそっと押さえた。
包帯の下がぬるりと湿っている。
指先に触れると、温かい液が滲んでいた。
――千鶴。
――ひとめ会いたい……だが来ちゃいけん。
あの声が、今夜はすぐ耳のそばで聞こえる。
遠くからではない。家の外、戸口の向こうに立っているような気配。
千鶴は深く息を吸い、寝間着のまま立ち上がった。
写真立てを手に取り、夫の笑顔を見つめる。
「宋次さん、もう……今、行きますね。あなたと一緒にいたいんです」
障子を開けると、霧が流れ込んだ。
外の空気は、どこか生ぬるい。
月が赤黒く霞んで、雲の間に沈みかけている。
裸足のまま戸口を出る。
土の冷たさが、足裏から心臓までゆっくりと登ってくる。
庭の風鈴がひとつ鳴った。
それが合図のように、包帯の端がふわりと解けた。
腕から赤い滴がひとつ、地面に落ちる。
霧の向こうに、懐かしい影が揺れている。
木立の向こう、井戸へ続く細い道。
水音が微かに聞こえる。
その音は不思議と優しく、まるで胎内の鼓動のようだった。
千鶴は歩き出す。
右腕から滴る血の跡が、薄い月明かりに光る。
一歩ごとに、世界が柔らかく遠のいていく。
耳の奥で、水と呼吸が重なり、声になる。
――千鶴。もう、いい。
「ええ、宋次さん。ずっと、ずっと待ってたんですよ」
霧が濃くなる。
前方に、黒い影がひとつ立っていた。
見慣れた背丈。見間違えようのない姿。
千鶴は足を止めない。
右腕を差し伸べ、闇へ向かって歩く。
やがて彼女の姿は、霧に溶けるように消えた。
夜の村に、静寂だけが残る。




