過去―千鶴と宋次
それは、千鶴がこの村に来て三年目の冬のことだった。
千鶴がこの村に嫁いだのは、偶然だった。
いや、宋次に言わせれば「運命」だったのかもしれない。
あれは五年前。千鶴が旅行で近隣の町を訪れた時、道に迷った彼女を助けたのが宋次だった。
無骨で寡黙な男。方言の強い喋り方。日に焼けた肌。
都会育ちの千鶴とは何もかもが違う人だった。
けれど、彼の不器用な優しさに、千鶴は惹かれた。
「……東京は、息が詰まるんです」
別れ際、千鶴はそう呟いた。
親の期待、周囲の視線、息苦しい日常。
そこから逃げ出したくて、一人旅に出たのだと。
宋次は何も言わなかった。
ただ、名刺の裏に住所を書いて渡してくれた。
「……もし、逃げる場所が要るなら、うちに来るとええ」
その言葉が、千鶴の人生を変えた。
半年後、千鶴は本当にこの村を訪れた。
東京での生活に限界を感じ、宋次の言葉を思い出したのだ。
村人たちは、外から来た若い女を見て、揃って笑顔で迎えた。
――あまりにも揃いすぎた、同じような笑顔。
「ようこそ」
「待っとったよ」
「ここで暮らすんかね?」
その親切さに、千鶴は戸惑いながらも安堵した。
けれど、宋次の表情は硬かった。
「……千鶴さん、この村は、普通じゃねぇ」
夜、二人きりになった時、宋次は真剣な顔で言った。
「ここには掟がある。笑顔を強いられる。夜道の真ん中を歩かにゃいけん。そして……外から来た者は、村に"捧げられる"ことがあるんじゃ」
「捧げられる?」
「詳しくは言えん。でも、危険なんじゃ。もし、本気でここに残るなら……わしと結婚してくれんか」
千鶴は息を呑んだ。
「結婚すれば、村の一員として認められる。わしの妻なら、誰も手ぇ出せん」
それは、プロポーズというより、命を守るための契約だった。
千鶴は、少し笑った。
「……それって、私を守るためですか?」
「……ああ」
「だったら、喜んで」
二人は、村の小さな社で結婚式を挙げた。
村人たちは笑顔で祝福してくれたが、その目の奥には、何か冷たいものがあった。
――宋次が、村で最も浮いた存在だと知ったのは、結婚してからだった。
彼は掟を守らなかった。
夜道を端に寄って歩き、笑顔を作らず、村の集まりにも出なかった。
「何で掟を守らないんですか?」
ある日、千鶴が尋ねると、宋次は低く答えた。
「……榊の血筋はな、村長の虚木家の分家なんじゃ」
「分家?」
「昔、この村を治めとった神官の家系。虚木が本家で、榊はその分かれ。じゃけぇ、わしらには……"あれ"への耐性があるんじゃ」
「あれ?」
宋次は、どこか遠くに目をやる。
「にくゑ、って呼ばれとる。この村の地下に棲む、何か。
村人はみんな、あれと繋がっとる。笑顔も、掟も、全部あれを鎮めるためのもんじゃ」
千鶴は息を呑んだ。幾ら何でも荒唐無稽だ。しかし夫となった人の表情は真剣だった。
「でも、榊の血筋は違う。耐性があるけぇ、あれの影響を受けにくい。じゃけぇ、村の"群れ"には馴染めん。みんなと同じように笑えん。同じように感じられん」
宋次の目には、孤独が滲んでいた。
「……わしは、ずっと一人じゃった。この村におっても、どこか違う。村人はわしを避けるし、わしも村が怖い」
「でも、私は……」
「お前は違う。お前は、まだ"外"の人間じゃ。じゃけぇ、守らにゃいけん」
宋次は、少し寂しそうに笑った。
「……でも、こんなことを言うても、お前もいずれ忘れてしまうんじゃろうな。村におれば、みんなそうなる。外から来た者も、だんだんと村に馴染んで……そして、忘れる。わしが何を言うたかも、何を恐れとったかも」
千鶴は、宋次の手を握った。
「私は忘れません。あなたが教えてくれたことを」
「……そう言うてくれるんは、嬉しいわ。でも、村の力は強い。
それでも、わしはお前を守る。お前が忘れても、わしが覚えとく」
千鶴は、宋次の手を強く握り返した。
「私も、あなたと一緒にいたいです。一人じゃ、寂しいでしょう?」
宋次は、初めて穏やかに笑った。
村人たちは、宋次を避けた。
千鶴にも、時折冷たい視線が向けられた。
それでも、二人は支え合って生きた。
小さな商店を営み、静かに暮らした。
――そして、あの冬が来た。
雪解けを待つ前の、冷え込みの厳しい朝。
「榊の旦那が、木に押し潰されたんじゃ!」
血相を変えた村人が、商店に飛び込んできた。
伐採中の事故。
大木が倒れ、宋次の胸を押し潰していた。
千鶴は、何も考えずに駆け出した。
雪の中を、息を切らして走った。
森の奥で、夫が倒れていた。
胸は歪に陥没し、呼吸は浅い。
「宋次さん!」
千鶴は夫の体を覆う木を、素手で押しのけようとした。
指が裂け、血が滲む。
それでも、止まらなかった。
「千鶴……」
掠れた声が聞こえた。
「……わしは……もう、あかんか……」
「そんなこと言わないで! お願い、死なないで!」
千鶴の腕にも、脚にも、深い裂傷ができていた。
けれど、痛みなど感じなかった。
――その時、吉川が駆けつけた。
村に赴任して間もない、若い医師。
彼は冷静に状況を判断し、応急処置を始めた。
「落ち着いてください。まだ助かります」
吉川の言葉に、千鶴は縋るように頷いた。
村人たちが木を持ち上げ、宋次を診療所へ運んだ。
千鶴も、吉川に腕と脚の傷を縫合してもらった。
「奥さんも、無事です」
吉川の言葉に、千鶴は涙を流した。
夜を徹しての治療。
夜明け前、宋次が目を覚ました。
「……千鶴は?」
「ここにいます。大丈夫です」
二人の目が合い、涙が溢れた。
「……ほんまに、ありがとぅございます……」
宋次の声は、感謝で震えていた。
吉川は、その横顔を見て思った。
――本当に、二人を助けられて良かった。
けれど。
宋次の回復は、異常だった。
半年はかかるはずの重傷が、一ヶ月で治った。
村人たちが、何かを飲ませていた。
赤黒い液体。
「村に伝わる薬ですけぇ。榊の血でも、これだけは効きますわ」
村長はそう言ったが、吉川には不安があった。
そして――宋次は、変わり始めた。
食欲が異常に増し、夜中に一人で外を歩くようになった。
目の焦点が合わず、時折、何かに怯えるように震えた。
「千鶴……」
ある夜、宋次は妻にこう言った。
「……わし、もう人間じゃねぇかもしれん」
「何を言ってるんですか」
「榊の血があるけぇ、今まで耐えられた。でも、あの薬を飲んだ後から……体の中に、何かおる。夜になると、"呼ばれる"んじゃ。井戸の方から、声が聞こえる」
千鶴は夫を抱きしめた。
「大丈夫です。私が、ずっと一緒にいます」
けれど、宋次の異変は止まらなかった。
「……耐性があっても、直接体に入れられたら、もう無理なんかもしれん。わし、もう……」
宋次の目に、涙が浮かんでいた。
「殺してくれ、千鶴。わしが完全に変わる前に」
「そんなこと、できません!」
「……わかっとる。じゃけぇ、わしが消える」
――そして、ある朝。
宋次は、消えた。
商店にも、家にもいない。
荷物はそのまま。
ただ、作業着だけが畳んで置いてあった。
村人たちに聞いても、誰も知らないと言った。
「山に入ったんかもしれんのぅ」
「そのうち帰ってくるじゃろ」
千鶴は、夫を探して村中を歩いた。
けれど、見つからなかった。
――それから、千鶴は待ち続けた。
毎朝、夫の作業着にアイロンをかけた。
朝食を二人分用意した。
夫の席に、箸を置いた。
「おかえりなさい」と言える日を、信じて。
吉川は、そんな千鶴を見守った。
彼女が弁当を持ってきてくれるたび、何も言えなかった。
――宋次は、もう戻らない。
それは、吉川にはわかっていた。
けれど、千鶴には言えなかった。
彼女の笑顔が、あまりにも儚かったから。




