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にくゑ-禁断の因習村百合ホラー-  作者: カクナノゾム
第十二章 封じの井戸
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過去―千鶴と宋次

 それは、千鶴がこの村に来て三年目の冬のことだった。

 千鶴がこの村に嫁いだのは、偶然だった。

 いや、宋次に言わせれば「運命」だったのかもしれない。

 あれは五年前。千鶴が旅行で近隣の町を訪れた時、道に迷った彼女を助けたのが宋次だった。


 無骨で寡黙な男。方言の強い喋り方。日に焼けた肌。

 都会育ちの千鶴とは何もかもが違う人だった。

 けれど、彼の不器用な優しさに、千鶴は惹かれた。


「……東京は、息が詰まるんです」


 別れ際、千鶴はそう呟いた。

 親の期待、周囲の視線、息苦しい日常。

 そこから逃げ出したくて、一人旅に出たのだと。

 宋次は何も言わなかった。

 ただ、名刺の裏に住所を書いて渡してくれた。


「……もし、逃げる場所が要るなら、うちに来るとええ」


 その言葉が、千鶴の人生を変えた。

 半年後、千鶴は本当にこの村を訪れた。

 東京での生活に限界を感じ、宋次の言葉を思い出したのだ。

 村人たちは、外から来た若い女を見て、揃って笑顔で迎えた。

 ――あまりにも揃いすぎた、同じような笑顔。


「ようこそ」

「待っとったよ」

「ここで暮らすんかね?」


 その親切さに、千鶴は戸惑いながらも安堵した。

 けれど、宋次の表情は硬かった。


「……千鶴さん、この村は、普通じゃねぇ」


 夜、二人きりになった時、宋次は真剣な顔で言った。


「ここには掟がある。笑顔を強いられる。夜道の真ん中を歩かにゃいけん。そして……外から来た者は、村に"捧げられる"ことがあるんじゃ」

「捧げられる?」

「詳しくは言えん。でも、危険なんじゃ。もし、本気でここに残るなら……わしと結婚してくれんか」


 千鶴は息を呑んだ。


「結婚すれば、村の一員として認められる。わしの妻なら、誰も手ぇ出せん」


 それは、プロポーズというより、命を守るための契約だった。

 千鶴は、少し笑った。


「……それって、私を守るためですか?」

「……ああ」

「だったら、喜んで」


 二人は、村の小さな社で結婚式を挙げた。

 村人たちは笑顔で祝福してくれたが、その目の奥には、何か冷たいものがあった。


 ――宋次が、村で最も浮いた存在だと知ったのは、結婚してからだった。

 彼は掟を守らなかった。

 夜道を端に寄って歩き、笑顔を作らず、村の集まりにも出なかった。


「何で掟を守らないんですか?」

 ある日、千鶴が尋ねると、宋次は低く答えた。

「……榊の血筋はな、村長の虚木家の分家なんじゃ」

「分家?」

「昔、この村を治めとった神官の家系。虚木が本家で、榊はその分かれ。じゃけぇ、わしらには……"あれ"への耐性があるんじゃ」

「あれ?」


 宋次は、どこか遠くに目をやる。


「にくゑ、って呼ばれとる。この村の地下に棲む、何か。

 村人はみんな、あれと繋がっとる。笑顔も、掟も、全部あれを鎮めるためのもんじゃ」


 千鶴は息を呑んだ。幾ら何でも荒唐無稽だ。しかし夫となった人の表情は真剣だった。


「でも、榊の血筋は違う。耐性があるけぇ、あれの影響を受けにくい。じゃけぇ、村の"群れ"には馴染めん。みんなと同じように笑えん。同じように感じられん」


 宋次の目には、孤独が滲んでいた。


「……わしは、ずっと一人じゃった。この村におっても、どこか違う。村人はわしを避けるし、わしも村が怖い」

「でも、私は……」

「お前は違う。お前は、まだ"外"の人間じゃ。じゃけぇ、守らにゃいけん」


 宋次は、少し寂しそうに笑った。


「……でも、こんなことを言うても、お前もいずれ忘れてしまうんじゃろうな。村におれば、みんなそうなる。外から来た者も、だんだんと村に馴染んで……そして、忘れる。わしが何を言うたかも、何を恐れとったかも」


 千鶴は、宋次の手を握った。


「私は忘れません。あなたが教えてくれたことを」

「……そう言うてくれるんは、嬉しいわ。でも、村の力は強い。

 それでも、わしはお前を守る。お前が忘れても、わしが覚えとく」


 千鶴は、宋次の手を強く握り返した。


「私も、あなたと一緒にいたいです。一人じゃ、寂しいでしょう?」


 宋次は、初めて穏やかに笑った。

 村人たちは、宋次を避けた。

 千鶴にも、時折冷たい視線が向けられた。

 それでも、二人は支え合って生きた。

 小さな商店を営み、静かに暮らした。


 ――そして、あの冬が来た。

 雪解けを待つ前の、冷え込みの厳しい朝。


「榊の旦那が、木に押し潰されたんじゃ!」


 血相を変えた村人が、商店に飛び込んできた。

 伐採中の事故。

 大木が倒れ、宋次の胸を押し潰していた。

 千鶴は、何も考えずに駆け出した。

 雪の中を、息を切らして走った。

 森の奥で、夫が倒れていた。

 胸は歪に陥没し、呼吸は浅い。


「宋次さん!」


 千鶴は夫の体を覆う木を、素手で押しのけようとした。

 指が裂け、血が滲む。

 それでも、止まらなかった。


「千鶴……」


 掠れた声が聞こえた。


「……わしは……もう、あかんか……」

「そんなこと言わないで! お願い、死なないで!」


 千鶴の腕にも、脚にも、深い裂傷ができていた。

 けれど、痛みなど感じなかった。


 ――その時、吉川が駆けつけた。

 村に赴任して間もない、若い医師。

 彼は冷静に状況を判断し、応急処置を始めた。


「落ち着いてください。まだ助かります」


 吉川の言葉に、千鶴は縋るように頷いた。

 村人たちが木を持ち上げ、宋次を診療所へ運んだ。

 千鶴も、吉川に腕と脚の傷を縫合してもらった。


「奥さんも、無事です」


 吉川の言葉に、千鶴は涙を流した。

 夜を徹しての治療。

 夜明け前、宋次が目を覚ました。


「……千鶴は?」

「ここにいます。大丈夫です」


 二人の目が合い、涙が溢れた。


「……ほんまに、ありがとぅございます……」


 宋次の声は、感謝で震えていた。

 吉川は、その横顔を見て思った。

 ――本当に、二人を助けられて良かった。


 けれど。

 宋次の回復は、異常だった。

 半年はかかるはずの重傷が、一ヶ月で治った。

 村人たちが、何かを飲ませていた。

 赤黒い液体。


「村に伝わる薬ですけぇ。榊の血でも、これだけは効きますわ」

 村長はそう言ったが、吉川には不安があった。

 そして――宋次は、変わり始めた。

 食欲が異常に増し、夜中に一人で外を歩くようになった。

 目の焦点が合わず、時折、何かに怯えるように震えた。


「千鶴……」


 ある夜、宋次は妻にこう言った。


「……わし、もう人間じゃねぇかもしれん」

「何を言ってるんですか」

「榊の血があるけぇ、今まで耐えられた。でも、あの薬を飲んだ後から……体の中に、何かおる。夜になると、"呼ばれる"んじゃ。井戸の方から、声が聞こえる」


 千鶴は夫を抱きしめた。


「大丈夫です。私が、ずっと一緒にいます」


 けれど、宋次の異変は止まらなかった。


「……耐性があっても、直接体に入れられたら、もう無理なんかもしれん。わし、もう……」

 宋次の目に、涙が浮かんでいた。

「殺してくれ、千鶴。わしが完全に変わる前に」

「そんなこと、できません!」

「……わかっとる。じゃけぇ、わしが消える」


 ――そして、ある朝。

 宋次は、消えた。

 商店にも、家にもいない。

 荷物はそのまま。

 ただ、作業着だけが畳んで置いてあった。

 村人たちに聞いても、誰も知らないと言った。


「山に入ったんかもしれんのぅ」

「そのうち帰ってくるじゃろ」


 千鶴は、夫を探して村中を歩いた。

 けれど、見つからなかった。


 ――それから、千鶴は待ち続けた。

 毎朝、夫の作業着にアイロンをかけた。

 朝食を二人分用意した。

 夫の席に、箸を置いた。

「おかえりなさい」と言える日を、信じて。


 吉川は、そんな千鶴を見守った。

 彼女が弁当を持ってきてくれるたび、何も言えなかった。

 ――宋次は、もう戻らない。

 それは、吉川にはわかっていた。

 けれど、千鶴には言えなかった。

 彼女の笑顔が、あまりにも儚かったから。

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