祝祭/祝災 弐
太鼓が乱れ、笛が悲鳴を上げる。
村人たちの歌が、祈りが、叫びに変わった。
地面のあちらこちらから、炎の柱が立ち上った。その炎はあっという間に広がり、木造の村の家々に、その赤い色を移してゆく。
梓はとっさに胸元からメモを取出し、今見えている光景を書き出していた。
記録を。せめて記録を。
私がいなくなっても、記録があれば。
――村全体が、その全てが朱色の炎に包まれてゆく。
炎が村を包みはじめていた。
地の底で何かが呻くような音がする。
にくゑが――燃えながら、目を覚ましている。
村人たちは笑顔のまま、手を合わせていた。
頬を焼くような熱さの中で、誰も逃げようとしない。
火が、赤くない。
──肉の色だ。
脂が焼ける匂い、皮膚が破れる音。
煙に混じって、甘い花の香りが鼻に突き刺さる。吐き気と酩酊が同時に押し寄せる。
屋根が崩れる。柱が折れる。
だが耳に届くのは轟音ではなく、笑い声だ。
ひゅうひゅうと肺の奥で燃える空気が、声になって、炎に混じって爆ぜる。
人が立ったまま燃えている。
髪が燃える匂い、皮膚が縮む音。
眼窩から黒い液が垂れて、笑いながら口の端からこぼれ落ちていく。
笑っている。歯が炭になっても、笑い声だけは消えない。
熱い。
なのに冷たい。
炎が頬に触れるたび、皮膚の下を氷の爪でえぐられるみたいに痺れる。
焼け爛れた指で私はノートを握っている。紙が焦げても手を離せない。
清音がいた。
炎の向こうで、唇を開かずに、笑っていた。
白い歯が炎の色を反射する。
笑みは人のものではなく、神が人を真似している仮面のようだった。
地面が脈動する。
村人たちの足元からも、同じように赤いものが滲み出していた。
もう無理だ。梓はメモを胸元に戻す。
笑い声が増え、拍手が響く。
人々は互いの手を取り合い、抱き合い、溶け合っていく。
「にくゑ様……われらをお救いくだされ……」
見る見るうちに、男も、女も、老人も、子供も、全ての村人が衣服だけを残し、うねうねとうごめく巨大な肉塊へと一つになってゆく。
かつて村人であった肉塊が、無数の口で歓声を上げた。
「ああ……こんでいける!」
「もう、お役目はおしまいっちゅうことか!?」
「ようやく、わしらも神の中へ還れるんじゃ! 父さまに会える、母さまに会えるんじゃ!」
その声は歓喜に満ちていた。
誰も恐怖していない。
赤い光が地を這い、炎の中に花が咲くように村全体が脈打つ。
それは地獄でもあり、極楽でもあった。
紅い曼珠沙華に覆われた極楽。
あゆみは大きな杯を両手で抱え、うっすらと笑っている。
杯に残っていた赤い液体が全身に降りかかり、あゆみをぬらしていった。
その液は血のようで、炎の光を受けて鈍く光った。
「あゆみ……!」
梓は叫んだ。
だが、あゆみはその声に振り向かなかった。
ただ、うっとりとした微笑を浮かべ、両手を広げる。
「清音様……みんな……いっしょになれるんだね」
次の瞬間、彼女の体がふわりと揺れた。
皮膚の下を、何かが這う。
白い着物の袖から、粘液のような赤い筋が滴り落ちる。
祭壇の上で、あゆみの足が崩れた。
髪が、指が、笑顔のまま流れ落ちる。
溶けながら、あゆみは梓を見た。
その目には、痛みも恐怖もなく、ただ満ち足りた安らぎがあった。
「……清音も……すぐ……」
最後の言葉が、空気に消えた。
白い布だけを残しその身体は溶けるように村人達のつくりあげた肉塊に向かって進み、近づくと待ち焦がれていたようにひとつに吸い込まれていく。
梓はその場に立ち尽くした。
世界がひとつの肉に変わっていく。
足元の地面が柔らかくなり、熱を持ってうねり始めた。
山の方から、遠く、おおーん、と大気を震わせる唸り声が聞こえる。
地面が揺れ、洞があった山が崩れ、そこから巨大な何かが炎に包まれながら姿を現した。
何もかも、全てが混沌に飲み込まれてゆく中、梓はふと考えた。
――もしかしたら。
梓は思った。この村の人たちは、死にたがっていたのかも知れない。死してにくゑと一つになるなら、あの理想郷へ行けるならそれは確定した極楽だ。
なら、何故村の人たちは人の姿で生活を営んでいたのだろう? この苦界で生を続けていたのだろう?
風が吹き抜けた。
群体の奥で、清音の名を呼ぶ声がいくつも重なった。
まるで神の呼吸のように。
◆
パチパチッ! と、炎の音が、海鳴りのように耳を満たしていた。夜空は赤く、空気のすべてが焦げている。
梓は足元の揺れに耐えながら、崩れ果てた祭壇の残骸から立ち上がり、振り返った。
炎の向こうに――清音と清一がいた。
――溶けてはいない。虚木の血が強制的なそれを拒んだのだろうか?
清一は焼け焦げた神官服のまま、竹杖を握りしめている。鈴が風に鳴り、煤に汚れた顔が赤い光に照らされていた。
その目だけが、まだ燃えていた。
「……これは……一体どうしたことじゃ? 何が、何があった!?」
清一の声は荒れ、どこか怯えていた。
梓は二人の間に割り込み、背後の清音をかばうように片腕を広げた。
「もう、終わりにしましょう、掟も何もかも」
「黙れ!」
瞬間、虚空に炎が爆ぜる。
夜空は赤く染まり、焦げた竹と血の匂いが入り混じっている。
地面は波打ち、祭壇は崩れ落ちていた。
梓は清音の前に立っていた。
愛する少女を守るように両腕を広げ、燃えさかる炎の壁を背にして、清一を見据える。
清音はその背に、すがるように立っている。
顔は蒼白く、はだけた巫女衣装の下から覗く皮膚の上では無数の“目”がゆっくりと蠢いていた。
息をするたびに、その目たちが光を反射し、小さな光の粒が彼女の体を走る。
それは美しくも痛ましい光景だった。
「……きさんら、何をした……」
清一の声は、崩れ落ちた世界の底から響いてくるようだった。
神官服は焦げ、髪は汗と煤で張り付いている。
それでも、目だけは狂おしいほどの信念に燃えていた。
「何もかもを終わらせる! 清音に聞いたとおり、あれを焼けばにくゑは暴走するのね!」
「清音は巫女じゃ。神の声を聞く者が、村を裏切るはずがない……」
梓は一歩、前に出た。
炎の熱で肌が焼けそうだった。
それでも、引かなかった。
「違う。裏切りなんかじゃない――あなたが清音を“神”に捧げようとしただけ」
「黙れッ!」
清一が竹杖を振り上げた。
火の粉が雨のように散る。
「おまえは外の血じゃ! 穢れじゃ! 村を滅ぼす疫病神め!」
「外の血……? そうね、そう呼ぶなら呼べばいい」
梓は腕を下ろし、まっすぐに清一を見据えた。
「でも覚えておいて。私は――あなたの罪の形よ」
「……罪、じゃと?」
清一の声が、わずかに揺れた。
梓は一歩ずつ、瓦礫を踏みしめて近づく。
「弓子。あなたが愛した少女。そしてあなたの妹だった人。その人の子どもよ。私は!」
清一の竹杖が手から滑り落ち、鈴が転がった。
カラン、カランと、ありえないほど澄んだ音を立てて。
「そげな……ことが……」
「母は、先代の清音から産まれた、あなたの妹。あなたに子供が産まれなかった時、清音になるために生まれた、巫女の予備」
「弓子が……儂の……妹? そげな馬鹿なことが……」
「あなたの子供を宿した母は、祖父によってこの村を追放されたわ。だから、長く生きることができなかった」
「嘘じゃ! そげなことある訳がッ!」
「本当よ」
それまで黙って二人の会話を聞いていた清音がぽつりと漏らす。
「清音?」
呆気にとられたように問いただす清一に清音は静かに答える。
「――私、知ってたの。だって巫女は、にくゑ様の記憶と繋がってるから。おじいちゃんの記憶も、先代の清音も、ぜんぶ知っている」
「そげな……こと……」
清一の目が驚愕に開かれる。だがそれは梓も同じだった。知っていた? 清音が? それでも、私を選んでくれた?
「だから知っている。弓子さんが巫女の予備だったことも……お父さんが、あの人を抱いたことも……」
「……やめぇ……それ以上言うな……」
「言わなきゃ、母さんが救われない!」
梓が叫んだ。
長く話した反動だろうか、清音が息を詰まらせた。
それでも、かすかに笑っている。
その声は震えて、痛みを押し殺すようだった。
「嘘じゃ……嘘じゃ……そげなことが……」
「本当よ……お父さん……」
梓が清一に言葉を投げかける。お父さん、と。
その言葉が、炎のざわめきを一瞬止めた。
清音は梓の背に手を添え、わずかに顔を上げた。
その瞳は涙で濡れている。
清一の顔が、炎に照らされて崩れた。
歪み、溶けるようにして膝をつく。
「弓子は……遠縁の娘で……あんなに儂を慕うておった……なのに、儂は……」
言葉が途切れる。
梓は、清音を守るようにさらに前に出た。
「私はあなたの罪の形」
繰り返す梓の言葉に清一の手が震えた。
顔を覆い、嗚咽が漏れる。
「そうか……じゃから、きさんはにくゑ様の影響を受けなんだ。禁忌の……血を重ねる禁忌を犯して産まれた……儂の娘……」
「お父さん、もういいの……この村は犠牲の上に成り立つ理想郷だった。でも、もう終わりにしましょう……わたしと梓が、終わらせるから」
梓の背で、清音がそっと囁いた。
その声はもう、風のようにか細い。
清一が顔を上げた。
涙に濡れたその目が、炎の向こうで光る。
「……弓子の面影があるのう……」
梓は頷いた。
「ええ。私は母に似てる。でも同じ道は歩まない。清音を決して手放したりしない」
「姉と……妹で愛し合うんか……じゃが、それも今更じゃな………」
その瞬間、地面が大きく鳴った。
裂け目が走り、赤い粘液が地の底から噴き出す。
清一の足を呑み込むように絡みつき、引きずり込もうとする。
「掟を……守れ……!」
清一の絶叫が夜空に散った。
炎の粉が舞い、梓は清音を抱きしめて目を閉じた。
梓は目を背けなかった。
清音の手を握りしめる。
「もう、終わらせよう」
清音が頷く。
炎の中、二人の周囲で、地面から溢れた肉が群体の肉と合わさり波のようにうねり始めた。触手が伸び、二人の身体を捕らえる。
「あっ!」
叫びと同時に、梓の意識は闇に落ちてゆく。
――世界が崩れていく音が、地の底から響いていた。
◆
轟く業火の中を、ひとりの影がふらつきながら歩いていた。
白衣は焦げ、脇腹の傷から血が滴っている。
それでも、吉川の手は鉈を、離さなかった。
「――梓さんッ!!」
その声は火の咆哮に呑まれても、確かに届いた。
だが、吉川の視線の先で梓たちに炎に包まれた肉の群れが襲いかかり、それらはゆっくりと一つになっていく。
「今……そこに……行きます……ッ」
身体は重く、ほんの数メートルのその場所が、無限の様に遠い。
業火の中、そこに向かって吉川は足を進める。
自分の命が燃え尽きる前に、そこに辿り着く、そのことだけを念じながら。




