9話 ヌンチャク
康太は雨が降ろうと雪が降ろうと台風が来ようと、修学旅行中を除いて一度もヌンチャクの修練を休まなかった。自分で決めたことは必ずやり抜く。そういう性分だ。一対はミス原に取り上げられたが、ヌンチャクはあとニ対手元にある。
ヌンチャクの調達資金は貯めた小遣いとお年玉で、調達先は博多の千代町にある大城武道具店。オヤジは沖縄出身だ。本屋で古武術の本を読み漁ってこの店に辿り着いた。この店で康太は今まで五対のヌンチャクを買った。最初のニ対は激しく振り回し過ぎて、二本の棍を繋ぐ鎖が摩耗で切れたり、棍の先が割れて埋め込んだ鎖受けが抜けたりして、練習中片方の棍が飛んでいった。
三対目を注文するとき何か良い手がないかオヤジとニ人で考案して鋼の鉄心入りにした。ニ本の鉄心をくり抜いた棍の中に入れ込み、鉄心に直接鎖受けを溶接して太目で長めの鎖で繋いだ。普通のヌンチャクよりニ倍は重いので強い膂力が必要だ。そのためにも毎日の腕立て伏せは欠かせない。
大城武道具店に初めて足を踏み入れた康太は、オヤジに自分がなぜ今ヌンチャクが必要なのか懇懇と訴えた。オヤジは高が中坊の康太の話を親身になって聞いてくれた。無愛想だが、康太には頼り甲斐のある人だ。オヤジにはヌンチャクの沖縄流の手解きも受け、人に使うような真似は武術の精神に反すると重々念を押されていたが、康太はとうとうその技を人に対して使ってしまった。オヤジに合わせる顔がない。
――まぁいいさ。ちゃんと成り行きば話せばオヤジも分かっちくれるちゃ。
今、康太はダブルヌンチャクの習得に懸命だ。ダブルだったら、相手の目を欺くために、右手から左手、左手から右手にわざわざ持ち変える必要がない。しかしニ対のヌンチャクに別々の意志を持たせねばならない至難の技だ。
康太の基本姿勢は、ヌンチャクを前から振り下ろして前脇に挟んで構えるか、またはヌンチャクを後に振って後ろ脇に挟んで構えるかのニ通りだ。
前者の攻撃パターンは、直前の相手に対して右足を前に半身に構え、横にヌンチャクを居合抜きのように払い、方向を縦に変化させればそのまま打ち下ろすことも出来る。または下から振り上げ横に振り払うことも出来る。後者の攻撃パターンは、相手に対して頭上から振り下ろせるし真横にも振り抜ける。
右利きの康太は左を集中的に鍛えるために左腕一本の腕立ても取り入れた。左の膂力を右と同等にするのだ。ダブルヌンチャクを習得すれば制空権は180度に拡がる。壁を背に構えれば死角はない。
相変わらず冷たく白い目が康太の全身に突き刺さる。
――こりゃ俺に友達は絶対無理やな。ヌンチャク使い暴露しちまって人怪我させちまったら当然やろ。まぁええわ。卒業するまで高が10ヶ月耐えときゃええ話やねぇか。猪町に居って造り足とか一本足とか言われてからかわれるよりマシじゃ。
康太は猪町中学校一年生のときの福田を脳裏に浮かべる。
――あの野郎、事故るまでは俺に取り入っとったんに、俺が片輪になった途端がらっと態度変えやがった。
あるとき言い合いになって、福田は康太の背に思いっきり肘打ちを加えて講堂の方に走って逃げた。
「お〜い作り足、ここまで追いかけて来てみろや〜」
田舎のガキの小便臭い顔を目一杯歪めて康太を挑発する。義足を添え足の如く、ほとんど右足一本で飛び跳ねながら懸命に追うと、福田は今度は逃げずに待っていた。取っ組み合いになったが、もはや一本足の体力では康太は福田に敵わなかった。組み伏せられて再び背に苦悶するほどの強烈な肘打ちを食らった。
康太にはどうしても分からないことがあった。佐世保中央病院を退院して猪町小学校五年生に復学したとき、学年の60人全員が康太が左足を切断して義足になったことを知っていた。一体誰がみんなに教えたのだろう。姉の真知子が、康太が苦悩するようなことをわざわざ触れ回る筈がないし、物臭な達己は問題外だ。考えられるとしたら担任の西村だ。西村は懐かない康太をあまり好ましく思ってなかった。帰ってくる康太の現状を気軽に説明して、かわいそうな奴だから気を遣ってやってくれとでもみんなに吹き込んだのか。
――まぁいいか。過ぎたことや。
「康ちゃん!」
――ありゃ、いつの間に康太君が康ちゃんになったんや。
下駄箱で上履きに穿き替える康太の横に三浦美代子が並んで微笑んでいる。彼女は今日早めに登校して来て康太を下駄箱の裏でずっと待っていた。
美代子は真顔になって、「もう全然話し掛けてくれんかったやん。別府で約束したんに」
美代子はぷ〜っと頬を膨らます。康太に話しかける奇特な者がここに一人居た。姉の真知子以外の者に康ちゃんと呼ばれると何か面映ゆい。
康太は頭を掻きながら、「三浦も俺無視しとったやねぇか?」と言い返すと、「だって康ちゃんずっと気難しい顔してんやもん」
美代子が口を突き出す。続々と登校してくる同学年の者の奇異な眼差しが康太と美代子に絡み付く。
「三浦、俺と話しよったらみんなに変に思われるぞ」
「いいもん。やっと康ちゃんと話せたんやから」
「美代子ぉ」
美代子と康太が同時に振り向く。登校して来た同級生の武田と立石だ。武田は康太の視線を振り払うように外す。立石とニ人、つかつかと早足で下駄箱に近づいて上履きに履き替え新校舎の階段の方に歩き出す。
「美代子早くぅ…上がるよ」
武田は歩きながら首を回して康太から引き離すように美代子を呼ぶ。
美代子は、「うん今行く」
そう答えると、康太の耳元に口を近づけて、「私と康ちゃん帰り道一緒なんよ。やけん学校終わったら角脇商店で待ってる。必ず寄ってよ」
「美代子湯村と何話してたん?」
三階への階段に差し掛かったとき、武田は後ろを確かめてから咎めるように美代子に問い掛けた。
「別にいいやん。私の勝手やろ」
美代子は煩わしそうに答える。
「美代子湯村が好きなん?」と言う武田に、「まだ分からん」
立石も、「美代子、湯村と話すもん(者)今クラスには誰も居らんよ。近づかん方がよかよ。坪口君たちに目ぇ付けられとんやけん」
「もう和美も麗子も放っといて。私の好きにするんやけん」
美代子は駈け出すと先に一組の教室に入って行った。
「美代子ちょっと待ってよ…」
昼休み、康太は真知子が作ってくれた弁当を開く。ぐるっと周りを見回しても一人で食べている者は康太だけだ。美代子も武田や立石たちと机を互いにつけ合ってお喋りしながら食べている。美代子は机を囲む友達に気付かれないようにちらっちらっと康太を盗み見る。
康太は鳥巣中学校に転校して以来、ずっと一人で食べている。弁当を一人で食べている光景は周りから見たら奇異に映る。友達が居ない証明でもあるし、結構図太い神経がいる。気にしだしたら、教室を離れて、人の眼が届かないトイレにでも隠れて食べるしかない。康太はもう慣れているから何とも思わないが、彼が気になりだした美代子にはこの光景が堪らなく嫌だった。昼休みになると直ぐにでも弁当を抱えて康太の机に行きたい衝動に駆られる。
――康ちゃん寂しそう。私が一緒に食べてあげられたらなぁ。
鳥巣中学校の指定の鞄は女子は手で持つ一般的な皮革製の学生鞄だが、男子は雑納と呼ばれる、肩から斜めに下げる幅広ショルダーストラップの付いた白い厚手の綿布製の鞄だ。長さはパックルで調節できる。ヤンキー連中は教科書などは学校の机に入れっ放しだ。雑納が膨らむと格好悪いらしい。奴らはボンタンの膝まで垂れ下げている。
康太は表向き真面目な鳥巣中学生だから規定のズボンを穿いているが、ショルダーストラップは若干長めで太腿の真ん中ぐらいまで垂らしている。教科書で膨らんでいるので歩き難い。
角脇商店は市役所通りのちょっと手前の康太の通学路左手にある。築30年程の民家で、角脇のお婆ちゃんが余生の楽しみにやっている駄菓子屋さんだ。店先の陳列台には透明プラスチック筒入り金平糖の風車が回り、ガラス蓋付きの浅底のケースにはいろんな駄菓子、大きめの蓋付きガラス瓶には、串刺しスルメ・中指大かりんとう・黒棒、紙製ケースにはめんこ・コマ・ビー玉・剣玉・おはじき、軒先にはヒーローお面・紙風船・グライダー・ライトプレーンがぶら下がっている。
康太の帰宅道順は裏門から通学路に出て進路を左に取る。市役所通りを横切り、住宅と住宅の間の人一人通れる間道から畦道に入る。畦道の終点右手に灌木に囲まれた池があり、未舗装路に出る。左に行って真知子の通学路になっている県道に出たら左に曲がる。鳥巣北小学校から右に曲がって右手に田んぼが広がる路地に入り、最後に左手の用水路を渡って鉄道宿舎の敷地に出る。
康太は店の前で足を止め、首だけ回して店を覗く。駄菓子屋があるのは認識していたが、入ったことはない。
「あっ康ちゃんこっちこっち」
店の中から目敏く康太を見つけた美代子が手招きする。康太は学帽を目深に被って入って行った。中には数人の下級生の女子の姿もある。
「康ちゃん見てっ」
「郷ひろみの新しいプロマイドがある。欲しいなぁ…」
美代子は右手の人差し指を顎に当てて呟く。
「買えばいいやねぇか」と康太が軽く言うと、「今日お金持ってきてないん」と下を向く。
「あぁあ…」
「美代ちゃん全部集めてるもんね」
上がり框に腰掛けた割烹着姿の角脇のお婆ちゃんが皺皺の顔を崩して話し掛けてくる。
美代子がブロマイドを物欲しそうに手にとって、「ねぇ康ちゃんは誰のファンなん?」
康太は学帽の庇を弄りながら、「ん、誰のファンちゅう訳じゃねぇばって、強いて言えば天地真理」
「ふ〜ん…男の子って中三トリオの誰かのファンかなぁって思っとった」
「江崎君は桜田淳子の大ファンよ」
「あぁ江崎ね…」
「康ちゃんフォークソングは好き?」
「あぁ、俺の姉ちゃんがチューリップと吉田卓郎のレコード持っとるで」
柱に下がったブロマイドの下にくじ引き玩具があった。20円払ってくじを引いて、細かく区切られた格子状の同じ番号の紙を破ると中から景品が出てくる。
――猪町の深江部落の駄菓子屋にも同じもんがあったな。
「三浦、このくじやってみるや?」と訊くと、美代子はくりっとした大きな瞳を輝かせて、「うんやるやる」
「婆ちゃんはい20円」と康太。
束ねられた薄い長方形の紙を美代子は引いて、格子状の紙を人差し指で破ると、中からオモチャの指輪が出てきた。指輪が左手の薬指にきれいに嵌った美代子は無邪気に喜んで、「見て康ちゃんぴったしよ。結婚指輪みたい。康ちゃん有難う。これ大事にする。今度は康ちゃん引いてみて」
康太はヒーローのフィギュアだった。
康太は女子と喋るのが苦手ではない。どんなにかわいい女子とでも上がったりしないし変に意識したりもない。女子と付き合った経験のない康太だが、ちゃんと女子に対する免疫ができている。そこには真知子の影響が大きい。真知子を付き合っている女子と仮定すれば、経験は十分過ぎる。
真知子は、康太が障害者を意識して女子と上手く喋れないことがないように気を回していた。日頃、そんなことしたら引かれるよとか、そんなこと言ったら女の子に嫌われるよとかアドバイスしてやっていた。
「康ちゃんいぃい、女の子はとても繊細なん。男の子同士やったら何でもないことやっても女の子には嫌われる原因になることもあるんよ。喋る前にちゃんとその女の子に気を使ってるかちょっとだけ考えてやってね。そしてその女の子を私やと思って気軽に話すこと。変に意識したら話せなくなったりするけん…分かったぁ」