お空は橙
昨日から、空の色はずっと夕日色だった。
この時期になると、この辺りは一か月間くらい日が沈まないし昇らない。いつまでも太陽は夕日の沈む時間の場所にいて、ボクたちを夕日色に染める。
そんな夕日色のお兄さんみたいな髪の色の月を、“橙の九月”ってこの国では呼ぶ。
そして、昨日の太陽は沈まなかったので橙の九月が始まって、今日はニーリャたちの結婚式が行われる。
「橙の九月は、このトゥルンジェムエイリュル皇国にとって、とても大切な時期なんだ」
兄上さまが教えてくれたのは、この国で一番偉い皇家の龍のご先祖さまが、大昔のこの時期にここに国を建てたんだって。そして、その建国の龍の髪や鱗の色も橙色だったみたいで、その色にお空が染まる時期におめでたい事をするんだって。
「スフルリュカも元だが、一応皇子だったからな。あの髪の色で、鱗も同じだ」
でも、もう皇子さまじゃないんだって。兄上さまは、ニーリャと結婚してこの城にずっといるために“コウイケイショーケン”っていうのを捨ててきたんだ、って笑いながら話してくれた。
今、ボクらはお城の玄関から門までの長くて広いお庭に大きなテーブルとたくさんの料理を並べて待っている。
みんながそわそわしながら、立ってまだかまだかとニーリャたちが来るのを待っている。
「ニーリャね、とってもきれいだったよ」
「そうか、それはあいつが喜ぶな」
驚く顔が楽しみだ、って兄上さまはちょっと意地悪そうな笑みを浮かべる。
握った手から、兄上さまが笑い声をこらえて少し震えているのが伝わってくる。
「全く、あいつが結婚する日が来ようとはな」
ひとしきり笑い終えて、ふぅと息を吐いた後、兄上さまはしみじみと橙色の空を見上げて呟いた。これは、ボクに言った言葉じゃないことくらいわかる。
お空を見る兄上さまがどこか遠くに行っちゃいそうで、それ以上兄上さまを見ていられなくてうつむいた後、ボクは握る手に少し力を込めた。お願い、どこにも行かないで。
「来たみたいだな」
わあっという歓声が城の入り口の方から湧いて、声はだんだん大きくなってゆっくりこっちに近づいてくる。
ボクがいるのは、今日結婚する二人から一番近い兄上さまの隣。城の入り口からは一番遠いところだから、今か今かと姿が見えるのをボクは待つしかない。龍のみんなは人型の時もとっても大きいから、こういう時ボクは埋もれてしまって前が見えなくなる。
いつもだったら……。
「ん? スフルリュカ一人か」
不思議そうな兄上さまの目線の先には、夕日色のお兄さんが一人でゆっくり歩いてくる。
近づいてくると、いつもきれいな夕日色お兄さんがもっとキラキラしてた。
いつもの真っ白な龍族の服が、金と銀のたくさん刺繍で埋め尽くされ、特別な服だということは言われなくてもわかった。
「ニーリャはね、後から来るの」
「そうなのか?」
「うん。ニーリャの故郷ではね、旦那さんが先に待ってて、奥さんが後から来るんだって」
前にニーリャの衣装合わせをしているときに、ニーリャの国の結婚式の話になった。クルクさんもイルミさんもいて、みんなでその話で盛り上がった。
そのときに聞いた話の中に、花嫁さんはお父さんに連れられて旦那さんのところに行くんだって言ってた気がする。
わあっとさっきよりも大きな歓声が城の入り口で上がり、ニーリャが出てきたのだとわかった。
ようやく人の波を抜けてやってきたニーリャは本当にきれいだった。
さっき控え室で見たときよりも、橙色の空の下で、夕日色の髪をしたお兄さんの隣に立ったニーリャの方がずっとずっときれいだと思う。
ニーリャも同じく金と銀でたくさん刺繍のある龍族の服に身を包み、頭にはヴェールという薄い布をかぶり、黒い髪とヴェールについた金の飾りがシャラシャラ音を立てて歩く姿は、まるで物語のお姫さまのようだった。
「ほう…」
どこからともなくため息のような声がもれる。
ゆったりとした足取りでやってきたニーリャが夕日色のお兄さんに並んで手を取り合うと、今までで一番の歓声が上がった。
魔法の風で紙吹雪が舞う中、夕日色のお兄さんがひざまずいてニーリャの手に口付けると、一瞬時間が止まってしまったみたいにしんとなった。
その光景、この場所だけがまるで世界から切り取られてしまったみたいに。紙吹雪さえ止まっていたようにも見えた。
長いのか短いのかもわからない時間が過ぎて、夕日色のお兄さんが立ち上がって、二人がお辞儀をすると時間が動き出したように周りから拍手が巻き起こる。ざわざわとした空気が戻ってきた。
「ニーリャ、おめでと」
「ありがとう。何回言われても、うれしいね」
ようやくニーリャと話ができたのは、空の色が少し濃くなった頃だった。
ずっと同じ夕方色のお空も、普段の夕方の日の沈む時間のような、寂しい感じの色だったり色んな色があることを教えてくれる。
「ニーリャ」
「ん?」
「…結婚しても、いっしょにいられる?」
「もちろん、ここにいるよ。わたし、ここしか知らないもの」
「ねぇ、ニーリャ」
空の色と賑やかな雰囲気に後押しされて、つい聞いちゃいけないようなことを聞きたくなる。こういうことは、聞くだけで迷惑になることもあるのに、でも、ボクの口はニーリャを前にすると、勝手に思ってることが出てしまうみたい。
「…さみしいの?」
「それ、今日結婚した人に、言うことじゃないよ」
そう笑って言うニーリャが、寂しそうに見えるのはなんでだろう。肌や衣装が、夕日色に染まってるからかな。
「でも、ちょっと当たってる」
座るニーリャの向かいに立つボクは、引き寄せられるままにニーリャに抱きしめられた。
思わずニーリャの肩に顔を寄せる。すると頬ずりされ、背中の温かい手はボクの背をゆっくり撫でる。
「さみしさは、うまらない。きっと、いつまでも。でも、それを包むことはできる。包んでもらうと、さみしさを忘れてあたたかくなれる。わたしは、そんな存在に出会えたの。そしてね」
一度言葉を切って、ニーリャは強くボクを抱きしめた。
「わたしも、そうなりたいって思えたの。その人のために、その人のおかげで。
アイスターシュ、あなたもわたしに温もりをくれた。ありがとう」
耳元でそう言ったニーリャの声は泣く前みたいに震えていた。
でも、顔を上げて向かい合ったニーリャは泣いてなかった。涙を目に溜めてうるうるしていたけど、涙は流れなかった。
嬉しくても悲しくても涙が出ることを、ボクは兄上さまに教えてもらった。
でも、このニーリャの涙がどっちなのか、ボクにはわからなかった。
…でも、なんでだか、それでいいのかなって思えた。
だって、そのあとの式の間、ニーリャはずっと幸せそうに笑ってたから。
「疲れた?」
「うん」
「ゆっくりおやすみなさい」
「…おやすみなさい」
イルミさんにおやすみなさいと返せば、優しく頭を撫でられた。灯りが消され、パタンと扉が閉まる音がすれば、部屋から音が消える。
いつもなら兄上さまの髪のように夜色になる部屋も、橙の九月で日が沈まないからぼんやりとした明るさのままだった。
「はぁ…」
おさえられないため息が、思っていたよりも大きく聞こえて、少し驚いた。
…兄上さまが遠い。
いつからだろう、と考えても、わからない。
なんでだろう、と首をかしげても、わからない。
ボクが何かしちゃったのかな、と思えば思うほど悲しくなる。
今日だって…ボクが見えないときはいつも抱き上げてくれたのに。いつだって…手を握り返してくれたのに。
あんなに近すぎる距離にボクは、初めはビクビクしていた。慣れなくて、でも温かくて、いつか突然なくなっちゃうんじゃないかって心の隅でずっと怯えてた。
だから、今の兄上さまみたいなことはボクも考えてなかったわけじゃい。でも、でも、こんなにつらいなんて思わなかった。
「兄上さまぁ……」
じわじわと目が熱くなる。
ぎゅっとつむって溢れないように、ふかふかの枕に顔を埋める。
きっと、ボクの涙は、今日見たニーリャのとは違ってきれいじゃないから。
◇◇◇
「もう我慢の限界です!」
イルミが突然声を荒げた。
入室してからイスタの様子を報告し終えるまでは、楚々として怖いくらいに使用人らしく振舞っていたのだが。
「何をお考えなのでしょうか! 一使用人が口を挟むべきでないのは重々承知しておりますが、あの子のあんな表情見たらっ……」
イルミが言わんとしていることもわかっている。全ては己の態度が悪いことも。
しかしどう説明したものかと思い部屋の端に控えていたイルミの両親に目を向けるが、こちらは言葉に出さない分もっと酷い。
母であるクルクは抜け落ちた表情のまま、首を振る。娘の激情を止める気はさらさらないらしい。
この城の管理を一手に引き受ける父親ライナスの目は冷たく、まるで蔑むように俺を見ている。
三者三様にイスタを愛でる彼らにとって、俺のこれまでとは違った些か態度は看過できない問題らしく、ついに我慢の限界を迎えたようだ。
「お言葉ですが、中途半端に甘やかして突き放すなら、彼女は我々が」
ライナスがあえてそこで言葉を切る。
それ以上口にしないのも一応俺を慮ってのことだとはわかっているが、その声にも目にも決意は重々滲み出ている。
「だめ、それじゃだめなの」
思わぬところから声が上がった。
孤立無援かと思いきや、その案に否定の言葉を絞り出したのは娘であるイルミだった。
「…あの子は、イスタは、ノクトタンル副隊長でないとだめなんです。だから…」
「だから、前のように、兄のようにひたすら甘やかせ、と?」
声を震わせてイスタを思いやるイルミの言葉を継いでやる。いささか皮肉げなニュアンスを含むそれは、刃となって己に返ってくる。
「あの子に笑顔や温もり、他の沢山のことを教えたのは副隊長、あなたじゃないですか!
家族になって、愛情を注いだのもあなたです!
それなのに、あんな風に突然距離を置かれたらっ」
イスタが可哀想だ、と続くはずだったであろう言葉は彼女の両親によってその口から溢れることはなかった。
「一つ確認させていただきたいと思います」
「なんだ」
「“兄”では、不服ですか」
「……」
射るような目でこちらに問いかけてくるクルクに無言で答える。
「…左様ですか。では、一先ずは我々も見守ることと致しましょう」
口にせずともライナスに意図は通じたようだ。クルクも察したようで、一つ頷くと礼を取る。
「不躾な質問をしてしまい失礼致しました」
「構わない。全て、俺が悪いのだから」
「そうでございますね」
遠慮もなく言い放つライナスだが、事実である以上俺から文句など出ようもない。
「え?」
残念ながら娘の方はわかっていないようなので、早々に連れて出て教えてやってくれ。とアゴで扉を示せば、二人は早々に退出の礼をとって扉の前まで行く。
「では、失礼致します」
「ああ」
「ですが…」
扉を開け、廊下に出てその戸を閉める間際、クルクがこちらを振り返り、こちらを睨みつけるようにして言った。
「いつまでも悩んで結論を先延ばしにして、決断できないようなら……私たちはここから出ることも厭いません」
それなりに距離のある部屋の入り口から己のいるところまで容易く届く静かな怒りは、炎の熱のようにじりじりと俺を責める。
「覚悟を、お決め下さい」
喉元に刃を突きつけるような言葉を残して、今度こそ彼ら親子は退出して行った。
彼らは本気だった。
どこまでも純粋にイスタを心配したが故の行動だった。
戦って敵う相手でないことなど百も承知で。一応身分などを鑑みれば意見することも厳しいことなども知りながら。それでも彼らはここに来たのだ。
それこそ、“覚悟”を決めて。
「覚悟、か」
意気地のない己の吐く“覚悟”の陳腐さに乾いた笑いが漏れる。
それは静かすぎて冷えた部屋によく響いた。