第50話 休息の時間
麻乃にとって、なにがあったのかは関係なかった。
(体が動く――)
その事実だけが、突然怪我が治った不安をかき消すほどに大きかった。
まだ完全ではないが、あの動けなかった時間を思えば、これは奇跡に近い回復だった。
休んだ時間を取り戻すように、演習場をくまなく回った。本当なら、もう少し慎重になるべきなのだろう。けれど、体が動く喜びは、そんな理性的な判断を軽々と押しのけてしまう。足を踏み出すたび、腕を振るたびに、体が勝手に動いていくようだった。
昨日は比佐子がやけに心配をしてついて回ってきたけれど、今日は別行動を取った。
あれこれ問われても、傷が治った理由など麻乃にはわからない。
誰かの声が聞こえたけれど、その声の主を見てもいなければ、それが治してくれたと確信を持って言うこともできない。曖昧な記憶の中で、確かなのは体が軽くなったという事実だけだった。夢のような出来事で、本当にあったことなのかさえ疑わしい。ただ、この回復した体は紛れもなく現実のものだ。
爺ちゃん先生のところでも、しつこく理由を聞かれたけれど、麻乃はなにも答えることができなかった。爺ちゃん先生はひどく難しい顔をして首をひねっただけだった。長年の経験を持つ爺ちゃん先生でさえ、このような急激な回復は見たことがないのだろう。
たぶん……今日中に高田や修治の両親にも連絡が行き、変に大ごとになるかもしれない。そうなれば、問い詰められるのは必至だ。なぜ急に治ったのか、なにか隠していることはないのか、特別な治療を受けたのか――答えられない質問ばかりが頭に浮かんで、頭を振った。
全部から逃げ出して、なにもなかったことにしてしまいたかった。
今日の会議も気になったけれど、残り少ないこの演習に集中したかったし、なにより修治と顔を合わせることも、鴇汰に会うことも嫌でたまらなかった。
行かないと言いに行けば、また修治に色々と問われるだろう。そう思うと、気が重くなり、結局、麻乃は拠点に戻りもしなかった。
朝から走り続けて陽もだいぶ傾きだした頃、一度、洞窟に戻った。
完全に回復したとはいえ、油断は禁物だ。
最終日まで洞窟を拠点の代わりに使うことにし、休息に戻ってきたとき、麻乃は必ず湯につかった。温かい湯に体を沈めると、まだ残る違和感も和らいで、ようやく安心できる気がするのだった。なにより、ここだけは誰にも邪魔されない、自分だけの時間を過ごせる場所だった。
今日は、入ろうとした直前に隊の女の子たちのことを思い出し、連れてこようと入り口を飛び出したところで、比佐子と出くわした。
「よかった、戻ってたのね」
ほっとした顔でこちらを見た比佐子の後ろには、小坂の班の寺谷香織が立っている。
「ねぇ、一人は見つかったんだけど、もう一人が見つからないのよ。今、麻乃を探しに行こうと思ってたところだったんだけど、ちょうど会えて良かったわ」
「ははぁ、みんな気配を消すのがうまくなってきたもんね。チャコ、探しきれないか……」
演習が進むにつれて、確実にみんなの技術も向上している。最初の頃とは比べものにならないほどだ。
「そうなのよ。ねぇ、頼める?」
「うん、わかった。なるべく早めに戻るから、二人で待っててよ」
「ごめんね、手間を取らせるけど、よろしく頼むわ」
そう言った比佐子に向かってうなずくと、麻乃は急ぎ足で森へ入った。
背中に比佐子の、無茶するんじゃないわよ、という声が届いた。
演習場の中は、今はほとんど気配がない。
薄暗くなり始めて周囲が見にくくなる時間帯だ。この時間になると、多くの班が休息を取り始める。夜間の行動は危険も伴うため、経験の浅い者ほど避けたがる傾向にある。
(チャコが連れていた香織は小坂の班だったから、杉山の班を探せばいいのか)
集中して気配を探りながら走る。
まだ足の調子が少しばかり不安で、茂みに身を隠すようにして周囲を確かめながら移動した。今は、交戦するのは避けたい。
麻乃がようやく杉山の班を見つけたときには、辺りはすっかり暗くなっていた。
「あんたたち、こんなところにいたんだ」
中央側の山との境目に近い斜面で、のんびりと食事を取っている。
暗くなってから火を焚くと目立つからと、日中にここで準備を済ませ、演習場を一回りして戻ってきたと言う。なかなか賢いやり方だ。経験を積むにつれて、みんなこうした工夫を覚えていく。
「怪我とか体調に変わりない?」
「うちの班は大丈夫です。やっと飯も睡眠も安定して取れるようになりましたし」
おいしそうに焼けた魚を頬張りながら、杉山が言う。
「そっか、ちょっとは余裕ができたわけだ?」
「一応。俺は四度目ですしね」
十人の様子を眺めながら麻乃が聞くと、杉山は、へへっと笑った。
「ま、あと少しだからね、怪我だけは気をつけてよ。それと、これからちょっと里子、預かっていくよ」
急に自分の名前が出て驚いたのか食べかけのところを慌てて駒沢里子が立ち上がる。
「明日の朝四時に、ここで合流しよう。いい?」
「わかりました」
「じゃあ行くよ」
里子を促してすぐにその場所を後にした。
「比佐子からも聞いただろうけど、どこにいても、まずは川に出るんだよ」
暗くなると動く班が減るため、移動しながら話していても、そう簡単に他の班と出くわすことはない。その代わり、留まっている班を探して動いている師範数人と行き合った。
数分、移動して川に出た。
「あの場所は、この演習場で一番てっぺんにあるから、川を見つけたら必ず上流に向かえばいいんだけど……」
里子に岩場で待つように指示をし、麻乃は靴を脱いだ。
「移動の前に、ちょっと食材を調達していこう。あんたも食べてる途中だったでしょ? あたしも実は腹ぺこで」
そう言って川に入る。
浅めの水面に魚の背がきらきらと見え、小さめの岩に登ると、武器の電流を最大にして川面に突き立てた。
痺れて浮いた魚を麻乃は次々に武器で川岸に弾き飛ばし、里子に向かって言った。
「そこら辺の小枝で串打ちして持ちやすいようにしてよ」
「あ、はい!」
里子が枝を拾いに走っている間に、もう一度繰り返して魚を獲ってから靴を履き、一緒に串打ちをした。
「この獲り方、反則技だからさ、みんなには黙っててね」
苦笑いで麻乃が言うと、里子はくすりと笑ってうなずいた。
荷物を全部持ち、川沿いを歩きながら、ポイントになる場所を教えて歩く。
本当はもっと連れてきてあげたかったけれど、日数を考えると今回はこれが最後かもしれない。そう思って、場所をしっかり覚えさせるために、少しだけゆっくり歩いた。
洞窟に着くと、比佐子が中で食事の準備をしていて、麻乃を見て立ち上がった。
「遅かったね」
「ん、思ったより遠くにいたよ。それと食材の調達もしてきた」
「さすが。やるじゃないの」
比佐子はそう言って受け取った魚を焚火の周りに刺して並べた。
「二人とも大きな怪我もないみたいだし、体調も悪くはないよね?」
香織と里子に尋ねると、二人とも元気そうな返事をした。
香織のほうは二十三歳で予備隊である程度の経験もあり、それなりに安心できたけれど、里子のほうはまだ十八歳で、経験も浅いことが心配だった。あの年頃の自分を思い出すような、不安そうな目をしている。
「私たちよりも、麻乃隊長は怪我、大丈夫なんですか?」
香織の問いかけに、麻乃は比佐子に視線を移した。
比佐子は目が合うと、首を横に振ってみせてから二人に聞いた。
「あんたたち、どっからそれを?」
「どこから……というか、なんとなく班同士の間で話が回ってきて……」
「ガルバスを倒すなんて、さすがうちの隊長だ、って杉山さんが言ってましたよ」
呆気に取られ、麻乃は言葉が継げなかった。
あんな怪我を負ってしまったのに、さすがも何もあったもんじゃない。
比佐子は焼けた魚と煮込まれたスープを配って寄越し、麻乃の肩を引き寄せると、二人に向かって言った。
「このちびちゃんはねぇ、腕が立つからって無茶なことばかりするのよ。いつもは無傷で済んじゃうんだけど、たまに怪我をするのよね。あんたたちみんなでよ~く見張ってて。無茶なことをしたときには、叱ったり手を貸したりしてやってよ」
「ちびちゃんは余計だよ」
むっとして比佐子の頬をつまんで引っ張った。
「食べたら少しゆっくりするといいよ。湯につかって仮眠を取ってもいいしね。陽が昇る前にここを出たら、またきつい演習なんだからね」
「そうそう、こんなふうにしていられるのも今だけよ。私たちもあんたたちと同じ頃には、ここへ来たときだけは本当にのんびりしたんだから」
「いつかどこかの隊に、女の子が入ったときには、あんたたちがこうやって、その子たちに引き継ぎをするんだよ」
麻乃は比佐子と視線を交わした。昔を思い出し、二人を見て微笑んだ。




