第23話 代償と温もり
*** 麻乃
麻乃は浴室で温かいお湯を浴びながら、昨夜の出来事を反芻していた。蒸気で曇った鏡の向こう側に、隊員たちの笑顔がちらついて見える。懐かしい話、温かな雰囲気、酒の匂い、賑やかな笑い声。すべてが夢だったのだろうか。いや、きっと彼らなりに、昔の記憶を再現しようとしてくれたのかもしれない。
でも、それがかえって切ない。亡くなってしまった隊員たちと過ごした時間は、もう二度と戻ってこないのだから。あの日々の温もりを、もう一度味わうことはできないのだから。
重い眠気を堪えてなんとか身支度を整えると、少しふらつきながら外へ出た。
(たくさん飲み食いしましたけど、あとで怒らないでくださいよ)
ドアの鍵を閉めたところで、ふとそう言われたのを思い出し、嫌な予感がして財布を開くと中身が空っぽだ。昨夜確かに入っていたはずの紙幣が、跡形もなく消えている。思わずがっくりと膝をついて崩れ落ちたので、様子を見に来た修治が驚いて慌てて駆け寄ってきた。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
「ひどい……こういうことがあるなんて……怒りはしないけど、こうなるとは夢にも思わなかった……」
「一体なんだっていうんだ?」
修治の問いかけに麻乃は開いたままの財布を渡した。
「空じゃないか。いくら入れていた?」
「刀代が……二十八くらい」
修治から財布を引ったくり、部屋に戻って中にまたいくらか入れていると、外から修治の大爆笑が聞こえてきた。
中央までの移動の間、麻乃は車の後部席でずっと横になっていた。窓の外を流れる景色を見る気力もなく、ただ頭痛と吐き気に耐えながら時間が過ぎるのを待っていた。
これまでも亡くなった隊員が別れ際に夢に現れたことはあったけれど、多くて二、三人だったから、こんなふうに当てられて具合が悪くなったことはなかった。三十九人という人数の重さを、今になって思い知らされていた。
体は辛かったけれど、来てくれたことを素直に嬉しいと思える。彼らが最後に見せてくれた笑顔を思い出すと、胸の奥が温かくなった。
持ち回りが明けたときや休みの日には、ああやってよくみんなで飲みに行ったりしたのを思い出すと、自然と笑みがこぼれてしまう。あの頃は、まさかこんな日が来るとは思ってもいなかった。
(財布の中身まで持っていかれたのは予想外だったけれど――)
夢の中の出来事じゃなく、現実と同じでしっかり使った分の金額が消えていた。
奢ると言ったのは麻乃自身だったのだから、それも仕方がないことか。
中央に着いてからもまだ具合が悪く、合同葬儀の前に修治に迎えに来てもらうことにして、宿舎に戻るとそのまま眠りについた。
翌朝――。
早い時間に眠ったせいか、いつもよりも早くに目を覚ました。
具合が悪かったのが嘘のようにすっきりしている。
カーテンを開けると外は明るくなっていて、空は雲がひとつもないほどの良い天気だ。
ぐー、とお腹が鳴って、昨日から何も食べていないことを思い出した。口の中はからからに乾いていて、胃の辺りが空っぽになっているのがよくわかる。
当分の間、留守にするつもりでいたから、宿舎に食べるものはなにもない。冷蔵庫の中身も、出発前に全部処分してしまっていた。
時計に目をやると、まだ五時前だ。針が示す時刻を見て、ため息をつく。こんな時間じゃ、中央の繁華街である花丘へ行ったところで店もやってないし、宿舎の食堂も準備中だろう。
巧もこっちへ戻っているだろうけれど、さすがに押しかけるにはまだ早すぎる時間だ。
仕方なく、気を紛らわそうと外へ散歩に出ることにした。朝の冷たい空気を吸って、少しでも頭をすっきりさせたかった。着替えを済ませ、宿舎を出ようとしたところで鴇汰と出くわした。鴇汰は既に身支度を整えているけれど、こんな朝早くから、どこへ出掛けようというのか。
「今、そっちに行こうと思ってたんだよ」
「あたしのところ? なんで?」
「いや、昨日、なにも食ってないって聞いたから、もしかして腹、減ってるかと思った――」
「減ってる!」
麻乃は鴇汰の言葉をさえぎって答えた。
「即答かよ。朝飯、一緒にどうかと思ってよ、作ったから食いに来いよ」
鴇汰が笑って言う。もちろん断る理由など何もない。震えるほどの空腹を覚えていた麻乃にとって、心の底からありがたいと思える申し出だ。
初めて訪れた鴇汰の部屋は麻乃の部屋と違って、綺麗に片付けられていて、余計なもののないシンプルな部屋だった。本棚には武術関連の書籍が整然と並んでいる。テーブルの上には、既に朝食の準備が整っていた。
「丸一日食ってないんじゃ、あんまり重いのもどうなのかと思って、消化の良さそうなものを作ったんだ」
鳥のお粥と煮物や豆腐などが麻乃の前に次々に並べられていく。湯気が立ち上る料理からは、優しい香りが漂ってきた。見た目も美しく、まるで料亭の朝食のような出来栄えだ。
「消化にいいったって、量を食ったら意味がねーからな」
「わかってるよ。だけど凄いよね、あんた。よくこんなの作れるよ」
「だって俺、この国に来たばかりの頃は、叔父貴と二人で暮らしてたから。仕込まれたんだよな。最初の何年かは、剣より包丁を握ってる時間のほうが長かったんだぜ」
「へぇ、そうなんだ。叔父さんって料理する人なの? あ、これ、美味しい」
お粥を口に運ぶと、その味に思わずつぶやく。出汁の効いた優しい味が、疲れた体に染み渡っていく。
「だろ? それ、俺の自信作なのよ。俺の叔父貴はさ、ちょっと変わり者なんだ」
そう言って鴇汰も自分の椅子に座り、食べ始めた。箸の使い方も丁寧で、食事の作法にも気を配っている様子がわかる。ふと、鴇汰はどうして麻乃が何も食べていないことを知っていたのか、気になって聞いてみた。
「そう言えば、なんであたしが昨日一日、なにも食べてないって知ってたの?」
「夕べみんなと話してたとき、修治がそう言ってた。お袋さんの作ったっていう弁当を出してきて、一人で食うには量がある、って言うから、みんなでつまんだのよ」
「嘘! お母さんのお弁当があったの? あたしも食べたかったのに……」
つい口を尖らせて文句を言ってしまった。鴇汰に言ってみたところで、どうしようもないのはわかっていたのだけれど。
「だっておまえ、当てられて死んでたんだろ? 夜に一度、起きて来るかと思ったけど、結局この時間だもんな。それで、体のほうはどうなのよ?」
「うん、今はすっきりしてる」
「俺、六人のときがあったけど、そんときでも結構来たぜ。三十九じゃ相当だったろ」
「あたしは当てられたの初めてだから、わからないよ。でも、頭痛と眠気がひどかったなぁ。太刀合わせで痣ができたって話は、ほかのみんなもしてたから知ってはいたけどね」
「財布の中身がすっからかんになるとは思わなかったか?」
意地悪な表情で鴇汰がにやりと笑った。
「なんでそんなことまで知ってんのさ! もう……修治が喋ったんだね?」
「あのな、それ、麻乃だけじゃなかったんだぜ」
「それ、って……財布の中身?」
「そう。話をしてたとき、トクさんだけがやたら渋い顔してたからみんなで問い詰めたのよ。そしたら実はずいぶん前に、トクさんの一番親しかった戦士が亡くなったとき、二人で飲みに行って二十万もいかれてるんだってよ」
麻乃は一瞬、呆れて言葉が出なかった。
二人で二十万って――。
鴇汰はくくっと含み笑いを漏らしながら続ける。
「二人で二十万だぜ。凄くねぇか? それがやたら悔しかったらしくて、ずっと黙ってたんだってよ」
「もう……。そのことを先に言ってくれてたら、こっちも気構えってもんができたのに」
「まあ言えなかったのもわかる気はするけどな。どんだけ飲んだんだよ、って話だし」
思い出し笑いをしている鴇汰に、憮然とした表情のままで言った。
「あたし、考えてもみなかったから、ショックが大きかったよ。三十九人分だもん」
「俺も同じことになったら、かなりのショックを受けるかもな」
鴇汰は空いた器を下げ、コーヒーを置いた。
「ありがとう。ご馳走様でした」
麻乃はお礼を言うと出されたコーヒーを飲んで一息ついた。
「ねぇ、今日の葬儀は何時からか聞いてる?」
「十時に泉の森」
腕時計に目をやると、七時を回ったところだ。
「そっか。あたし支度とかあるし、もう戻るわ。ご馳走様、本当にありがとうね。今度、必ずお礼はするからさ」
立ち上がると、テーブルの向こう側から鴇汰が突然、手を取ってきた。その手は思っていたよりも大きくて温かい。
「なんだよ? まだ早いじゃんか。もう少しいろよ」
「でも昨日、修治が迎えに来るって言ってたし、修治のことだからきっと早めに来ると思うし……出掛ける用意しておかないと」
一瞬、麻乃の手を握る鴇汰の力が強まった気がした。
「おまえさぁ……」
鴇汰は空いた手で眉間の辺りを押さえている。普段は見たことがない表情だ。なにか言いたそうなのは麻乃にもわかる。口元が微かに動いたのを見ると、言いかけて止めた言葉があるようだった。
不機嫌に見えるのは、どうしてだろう……。黙ったままで見つめていると、視線を上げた鴇汰と目が合ってどきりとする。琥珀色の瞳が、やけに真剣に見える。
「まぁ、いいや。西区には今日、帰るのかよ?」
「ううん。今日は葬儀のあと、こっちの訓練生を見に行って、明日、帰る予定だけど」
「そんなら夕飯も一緒に食おうぜ。もっとちゃんとしたもの、作るからよ」
「それは別に構わないけど、何時になるかわからないよ?」
「選別で見に行くだけなら、そんなに遅くならないだろ? いいよ、俺、待ってるから。戻ったらここに来いよな」
「わかった。手……痛いよ」
麻乃のほうを見ずに頬杖をついている鴇汰の顔を覗き込んでそう言うと、鴇汰は視線を逸らしたまま麻乃の手を離した。
「ん……悪い。じゃあ、あとでな」
その姿を少し気にしつつドアを開けると、目の前にノックをしようとしている格好の岱胡が立っていた。拳を上げた姿勢のまま固まっている岱胡を見て、麻乃は思わず苦笑した。
「あ、岱胡、久しぶり」
「おっと、なんスか? 麻乃さん朝帰り? マズイところに来ちゃいましたかね?」
岱胡はいつものように軽い調子で言うが、その目は意外に鋭く麻乃の表情を観察していた。
「馬鹿だね。そんなわけ、ないじゃないか」
「ですよねぇ~」
思わず苦笑した麻乃に、岱胡は意味ありげな視線で苦笑いをしてから、部屋の奥を覗くように首を伸ばした。
「で、鴇汰さんは?」
「中にいるよ」
「なんだ岱胡か。入れよ」
後ろから顔を出した鴇汰が声をかけてきたので、麻乃は岱胡が中に入るのと入れ替わりに部屋をあとにした。
廊下を歩きながら、まだ握られた感触の残っている左手を口元に持っていき、目を閉じてため息をつく。胸の奥に、もやもやとした感情が湧いた。
その瞬間、火傷の痕がまたちりちりと痛み出した。麻乃の感情の動きに呼応するかのように。右腕のほうは治りかけの痒みがある程度なのに、左腕は時々思い出したように痛みが走る。
痛むたびにいらいらしながら治まるのを待っていた。あの西浜の片隅で、黒い塊が見せた青い瞳を思い出しながら――。




