19. 二人の幸せ
魔王が討伐されたという知らせは、風のように速く世界に広まった。
王都の鐘が鳴り響いた。
各地の人々が広場に飛び出した。
泣く者、笑う者、抱き合う者、膝をついて空を仰ぐ者で溢れた。
長い長い戦いが終わったのだ。
しかしその魔王を倒した当の勇者一行は、そんな喧騒からずっと離れた場所にいた。
魔王の城跡から移動し、道中に何度か野営したり街道を南に下り小さな宿場町に泊まったりした。
目指していたのは一番近い大型転移石だった。
目的地はニルハ村で、ローナが帰りたい場所は最初からそこだった。
ローナはニルハ村を思い出していた。
街道脇の木々、石造りの橋、丘の上の風車。
全部がたまらなく懐かしかった。
そしてユウルが隣にいる。
前までは、また出発していく人を見る者として隣にいた。
今は、一緒に帰っていく人として隣にいる。
「ニルハ村の景色を覚えているか」
ユウルがローナに顔を向けた。
「全部覚えてるよ。そういえばニルハ村の橋で、カルナさんが足を滑らせてセクトくんが笑ったら、なぜかそこでセクトくんも足を滑らせて川に落ちたんだよね」
ローナは笑った。
後ろからセクトとカルナの声がした。
「覚えてたのかよ、それ。忘れてくれよ……」
セクトが恥ずかしそうに言った。
「あれは、私を笑うから罰があたったのよ」
カルナはセクトの背中を叩いた。
マルセルが地図を見ながら「大型転移石まで、あと少しですね」と言った。
「ニルハ村って、どんなところ?」
ミゼが聞いた。
「小さい村だよ」
とローナが言った。
「でもね、村の人達はいい人ばかりで、穏やかな場所なんだよ。家の前に石段があるんだけど、あそこで、みんなでパンを食べてたこともあったね」
セクトが頷いた。
「あそこで外の空気吸いながら、食べるのもうまいんだよな!」
ミゼは想像しながら、「へぇ」と言った。
「ローナ、その村に住んでもいい?」
全員がミゼを見た。
ミゼが「だめ?」と首を傾けた。
「だめじゃないよ」
とローナが言った。
「ミゼが住みたいなら大歓迎よ」
ミゼが嬉しそうに笑った。
大型転移石に着き、転移石でニルハ村に着いたのは夕方だった。
村の入り口で村人たちが出迎えた。
魔王討伐の知らせは、すでにこの村にも届いていた。
村長が頭を下げ、子供たちが走り回り老人たちが目を潤ませた。
その中に師匠がいた。
背が曲がって白髪を後ろに結った小柄な老女。
前と変わらない姿だった。
ただ、その目の下の皺が少し増えていた。
師匠はローナを見て、しばらく黙った。
それから皺だらけの手でローナの頬を包んだ。
「……無事で良かった、ローナ」
師匠は涙ぐみながら言った。
「ただいま、師匠」
「この婆はずっと心配しておったんじゃぞ」
「ごめんなさい」
「まったく。心配させよって……」
師匠の手がローナの背中を一度だけ、ぽんと叩いた。
「お前さんが帰ってきた時のために薬房は、ちゃんと残しておる」
ローナの目がまた熱くなった。
「……師匠」
「泣くな。お前が泣くとわしまで泣くんじゃ。この歳で泣くと顔が崩れるわい」
ローナと師匠は笑いあった。
その夜、村全体で宴が催された。
焚き火が村の広場に焚かれ、食べ物と飲み物が振る舞われた。
誰かが楽器を取り出して演奏を始めた。
子供たちが踊り、老人たちが歌った。
セクトは「最高だ!」と言いながら皿に盛った大量の料理を堪能していた。
カルナは村の子供達に魔法を見せて歓声を浴びていた。
マルセルは村の長老と魔法理論について話し込んでいて、なかなか食事にたどり着けなかった。
ミゼは初めて見る人間の宴に目を丸くしながら、それでも少しずつ村人たちと話せるようになっていた。
男の子がミゼの尖った耳を珍しそうに触れて、ミゼが困った顔をしていた。
ローナは、周囲を見ていた。
ユウルが隣に来て座った。
「賑やかだな」
「そうだね」
「……こういうのもいいよな」
「私もみんなと楽しめるものは好きよ」
二人は笑った。
翌朝、ローナは日が出る前に目を覚ました。
着替えて外に出た。
ニルハ村の朝だ。
鶏が鳴き、ハーブの匂いがする。
ローナは石段のところに腰を下ろした。
懐かしい冷たさだった。
空がゆっくりと明るくなっていった。
扉が開く音がした。
ユウルが扉から出てきてローナの隣に腰を下ろした。
「相変わらず早いな」
「習慣よ。いつもこの時間に起きてたもの」
ローナはユウルを見つめた。
「ねぇ、ユウル今までのこと全部話してもいい?」
「ああ、聞かせてくれ」
ローナは話した。
崖から落ちたあとのことを――。
女神イクシリネスに助けられたこと、異空間でミゼに出会ったこと、修行のこと、ユウル達に合流し、正体を隠しながら隣にいることの苦しさ、魔王とのことだ。
ユウルは途中で何度か質問した。
それ以外は黙って聞いた。
話し終わると空はすっかり明るくなっていた。
「……そういうことだったのか」
「いろいろあったのよ」
「ジェネルネの幻で見たときのことを思い出す」
「何を見たの?」
「お前だった。ローナが前にどんどん走って行って追いつけなかった。それが幻だと分かったのは、シリの声が聞こえたからだ」
ローナは静かに言った。
「……もしかして気づいていた?」
「確証はなかったな。少しずつ、シリと行動してから何かが変わったような気がした。理由が分からなかったがシリと話すようになってから、まともに眠れるようになったんだ」
「眠れてなかったの?」
「ああ、それまではまともには眠れてなかったな」
ローナは胸が痛かった。
「ごめんね」
「謝るなよ。お前が悪いわけじゃなんだから」
ユウルはローナを見た。
「結果としてお前は帰ってきたが、お前がいないままだったら魔王を倒しても俺はどうしてたのか分からないな……」
「もういなくならないよ」
ローナはユウルの肩に頭を預けた。
「そうしてくれ。俺にとってはお前が全てなんだ」
「……ユウル」
「だから」
ユウルがローナの方を向いた。
「もう、お前を失う気はない。どこにも行くなよ。ずっと俺の傍にてくれ」
「これからはユウルの傍にずっといるよ」
ローナは答えた。
「約束だぞ」
「ええ。今度は、ちゃんと守れる約束よ」
朝の光が石段を照らした。
二人の影が並んで伸びた。
その日から平和な日常が始まった。
ローナは師匠の薬房に戻った。
長い期間空いていたが、師匠が管理してくれていたおかげで薬草の棚も調合道具も、ほぼそのままだった。
「腕が錆びてなければいいんじゃがな」
と師匠が言った。
「異空間でも薬草は育てていたんですよ。腕は落ちていないはずです」
「ほう。異空間にも薬草があるんじゃな」
「イクシリネス様にお願いをしたら用意してくれていました。修行の合間に育てていましたね」
「女神様も粋なことをなさるものじゃ」
ローナは笑いながら、薬草の確認を始めた。
懐かしい匂いがした。
苦いものと甘いものと刺激的なものが混ざり合う薬房の匂いだった。
ここが、自分の場所だと感じた。
ミゼは村に新しい家を借りた。
小さな家だったが、ミゼには十分だった。
精霊族であるミゼにとって、閉じた空間より開いた自然の方が馴染むらしく、窓を常に開けて庭に精霊を呼びながら暮らし始めた。
村の子供たちはミゼの精霊魔法に夢中になり、毎日遊びに来るようになった。
セクトは、前に宣言した通り故郷に帰ることにした。
出発の朝、ローナに挨拶をした。
「また会いに来るからな!」
「ええ。その時はシチューを作って待ってるわ」
セクトは最後にユウルに向き直って、少し言葉を探してから言った。
「俺が言えた義理じゃないけどローナを大事しろよ」
「言われなくても分かっている」
セクトが「だよなー」と笑った。
セクトは馬に乗って、南の街道へと去っていった。
ローナはその背中が見えなくなるまで手を振った。
カルナは、ニルハ村に医術師として残ることにした。
カルナはミゼを見て言った。
「精霊の力と回復魔法の相性が良さそうで、もっと学びたいと思って」
ミゼが「私でよければ」と言った。
二人はその日から一緒に研究を始めた。
カルナとミゼの組み合わせは、予想以上に上手くいった。
カルナの理論的な回復魔法にミゼの直感的な精霊魔法が加わることで、どちらの限界も超えた効果が生まれた。
数ヶ月後には、遠くの村からも二人を頼って人が訪ねてくるようになった。
マルセルは王都の研究室に入ることになった。
「やっと夢が叶います」
と晴れやかな顔で言った。
「研究、頑張ってね」
とローナが言った。
「ローナさんの弱体化魔法の理論は、論文の核心部分に使わせてもらいますね」
「ええ、いいわよ」
マルセルは王都への道を颯爽と歩いていった。
その背中は前よりずっと軽そうだった。
秋になり、村の木々が色づいて朝市に栗や林檎が並ぶようになった。
ローナの日常は静かで穏やかだった。
朝に薬房に行き薬草を調合し、村人に届ける。
昼にミゼとカルナと話したり夕方に師匠の手伝いをして、夜に石段でユウルと話す。
ユウルは村に留まっていた。
勇者の称号を持つ彼に、王宮から何度か呼び出しがあった。
討伐の報告、叙勲の式典、大臣との話し合い。
その度に転移石で王宮に行き、用事がすんだらすぐに帰ってきた。
王宮に留まることを頑として断った。
「なぜですか」
と王宮の侍従が困惑した時、ユウルは言った。
「俺には愛する人が待っている場所があるので」
その言葉が後に王都中に広まって勇者の恋人は誰だという憶測を生んだが、ユウルは一切気にしなかった。
村では、ユウルはローナの家に住み始めた。
二人で夕食を食べることが日課になった。
料理をローナが作りユウルが食べ、時々ユウルが洗い物をした。
それだけの小さな日常が繰り返された。
ある夜、食事を終えて石段に座っていた時にユウルが言った。
「ローナ」
「何?」
「お前は、この先もここで暮らしたいか?」
ローナは少し考えてから言った。
「私はここが好きよ。ずっとここで暮らしたいと思っているわ」
「そっか、俺もローナがいるここが好きだよ」
「王都には行かなくて大丈夫?」
「行く必要がある時は行くが、ここに帰ってくるよ。ローナがいる場所が俺の帰る場所だ」
ローナはユウルの横顔を見た。
月の光がその顔を照らしていた。
ユウルはローナの手を取った。
真剣な顔をしている。
「ユウル?」
「ローナ。お前と出会ってから、俺の世界はお前を中心に回っている。一度お前を失った時間は、世界が終わったような暗さを感じた。お前が帰ってきてから、また光が戻った。俺はお前と一緒に歳をとりたい」
ユウルが向き直った。
その目が真剣だった。
「俺と結婚してくれ」
ローナは何も言えないままユウルを見つめた。
「俺の中ではずっとお前だけだった。これからも、お前だけだ」
「ユウル……」
ローナは涙を浮かべた。
ユウルは少し困った顔をした。
「嫌か?」
「嫌なわけないでしょ!」
「じゃぁ一生、俺の隣にいてくれ」
ローナはユウルの手を握った。
「もちろんよ、一生、隣にいるわ」
ローナ声が少し震えた。
ローナは目の奥が熱くなった。
ローナの目に涙が溢れてきた。
「今度こそ、幸せになろうな」
ユウルがローナの手を握る力が少し強くなった。
その日、月が二人を照らしていた。
結婚の知らせは、あっという間に広まった。
師匠が「やっとじゃな」と言った。
ミゼが「よかったね」と言った。
カルナからは「おめでとうございます!!」泣きながら言われた。
セクトからは「人妻になってもシチュー食べに行っていい?」と書かれた手紙が来た。ローナは「もちろん、いつでも食べにきて」と返した。
マルセルからは「おめでとうございます。ところで論文の……」という手紙が来た。
王宮からは正式な勇者の婚姻として、国王からの祝福の書状が届いた。
村全体がまた宴の準備を始めた。
式は春に行うことにした。
冬の間、ローナとカルナとミゼの三人で準備を進めた。
式の場所はニルハ村の中央広場の大樹の下で行うことになった。
大樹は村の歴史と同じくらい古い木で村人たちにとって特別な場所だった。
師匠が「この木の下で式を挙げた夫婦は幸せになるという言い伝えがあるじゃよ」と言った。
「本当ですか?」
とローナが聞いた。
「わしが今、作ったんじゃがね」
「師匠!」
「冗談じゃ、本当に言い伝えがある。この村で一番古い言い伝えじゃ」
「もう」
とローナは笑いながら、大樹を見上げた。
冬の大樹は葉を落として、枝だけが空に向かって伸びていた。
春になればまた芽吹く。
春に芽吹いた木の下で式を挙げる。
それがいいとローナは思った。
花嫁衣裳は、村の仕立て屋に頼んだ。
仕立て屋の老女カリーナさんは、村で一番腕のいい裁縫師だった。
七十歳を超えているが、その指は今も正確で細かい刺繍を施した服を作ることができる。
「勇者様の花嫁の衣装なんて光栄じゃわ」
とカリーナさんが言った。
「大げさにしなくていいので、シンプルなものをお願いします」
「シンプルでも美しくできるよ。任せなさい」
カリーナさんが作ってくれた衣装は、白い絹に薄い花の刺繍が施されたものだった。
裾が長く、首元はすっきりとしている。
ローナの金色の髪と合わせると清楚で凛とした印象になった。
試着した時、カルナが泣いた。
「泣かないでよ、カルナさん」
「綺麗すぎてっ……!」
「大げさだわ」
「大げさじゃないですって! ローナさん、本当に綺麗です!」
ミゼが「綺麗だよ」と笑顔を向けて言った。
ミゼに言われるとローナは照れた。
「ありがとう、ミゼ」
「ユウルさんが見たら固まると思います」
「さすがに固まらないでしょ」
「いや、固まりますって!」
「なんで断言できるの……」
「こんなローナさん見たらね……」
ミゼとカルナがお互いの顔を見ながら笑った。
春の季節がやってきた。
大樹に新しい葉が芽吹き淡い緑の葉が、朝の光を受けてきらきらと輝いていた。
式の朝、いつもと同じくローナは早く目が覚めた。
石段に座って空を見た。
雲一つない、青い空だった。
遠くから馬の蹄の音がした。
昨日夜遅くに到着したセクトが、朝の馬上をしているのかと思ったが違った。
村の入り口に入ってきた。
それはマルセルだった。
馬から降りたマルセルが笑顔で歩いてきた。
「お久しぶりですね、ローナさん」
ローナも笑顔になった。
「マルセルさん、来てくれてありがとう」
「式、楽しみにしてますね」
「ええ」
式が始まる直前にユウル以外の仲間が衣装を着たローナと対面した。
セクトが「ローナが綺麗すぎて直視できない」と言ってマルセルに「セクトにも綺麗が判別できたんですね」と言われていた。
昼過ぎに式が始まった。
大樹の下に、村人全員が集まった。
カルナとミゼが、朝から村の周辺で摘んできた野の花が飾られていた。
白と桃色と黄色と色とりどりの花が大樹の根元を彩っていた。
師匠が最前列に座って静かに目を潤ませていた。
ミゼが精霊を呼んで広場に柔らかい風を流した。
そして花びらが舞った。
カルナが手を口に当てて、もう泣いていた。
カリーナさんが「私の作った衣装が似合っていたわい」と鼻を高くしていた。
村の子供たちが、花びらを撒く役目を担って式の経路に並んでいた。
ユウルは大樹の前に立っていた。
白いシャツに紺色の礼服だった。
その姿は勇者ではなく、ただの青年として立っていた。
その目はローナを待っていた。
ローナがゆっくりと歩いてきた。
白い衣装が風に揺れた。
金色の髪をカルナが丁寧に結い上げてくれていた。
手には黄色と緑色の花束を持っていた。
広場に集まった村人達が息を呑んだ。
ローナはゆっくりと歩いていく。
子供達が花びらを撒いた。
ミゼの精霊の風が花びらを優しく運んだ。
ユウルがローナの方を向いて立っていた。
ローナが近づくにつれて、ユウルの表情が変わっていくのが分かった。
ミゼが「あ、固まった」と小声で言った。
カルナは泣き続けている。
セクトが直視できないと言いながら慣れたのかしっかり見ていた。
マルセルが静かに目を細めて、その光景を目に焼きつけていた。
天上から、密かに女神イクシリネスがその光景を見ていた。
その金色の瞳が、とても柔らかかった。
ローナがユウルの前に立った。
その緑の目が、いつもより輝いていた。
「……綺麗だ」
ユウルの顔は薄っすらと朱に染まっていた。
「ありがとう」
とローナが笑顔で答えた。
しばらく二人は見つめ合った。
村の長老が咳払いをした。
「……二人とも進めてええかの?」
周囲の空気は笑いに包まれた。
村の長老が二人の前に立って、言葉を読み上げた。
古い言葉で書かれた婚姻の誓いの言葉だった。
「あなたは伴侶となる者を慈しみ、愛することを誓いますか」
「はい、誓います」
ユウルは宣言した。
「あなたは伴侶となる者を慈しみ、愛することを誓いますか」
「はい、誓います」
ローナは宣言した。
「皆の前で交わされたこの誓いにより、二人が夫婦となることを宣言しました。神の祝福が与えられますように」
その瞬間――。
天上から眩い輝きとともに光の結晶が舞い降りた。
とても美しく幻想的な光景だった。
周囲には歓声が巻き起こった。
ローナは涙を流した。
「イクシリネス様……」
その美しい光景と共に長老が言った。
「では、誓いのしるしに」
ユウルがローナを見た。
ローナが頷いた。
ユウルの手がローナの頬に触れた。
ローナは目を閉じた。
温かいものが唇に触れた。
広場からは歓声が上がり、拍手が鳴り響いた。
子供達が「おめでとう!」と叫んだ。
セクトが「ローナ! あとでシチュ――」と叫ぼうとしたが、カルナに「しっ!!」と肘てつをくらい怒られた。
マルセルは静かに拍手した。
白い花びらは舞い続け、大樹の新しい葉が風に揺れた。
宴が始まった。
広場に食べ物と飲み物が並び、楽器が演奏された。
セクトが最初にシチューのおかわりを頼んだ。
ローナは腰に手を置いた。
「今日は三杯まで!」
「今日は特別な日だから四杯でも?」
「三杯まで!」
「……はい」
カルナとミゼが隅の方で何か話していた。
二人ともほんのり目が赤かったが、笑っていた。
マルセルはユウルと話し込んでいた。
師匠がローナの手を握って言った。
「幸せになるんじゃよ、ローナ」
「はい、幸せになります」
「勇者様もなかなかいい目をするようになったもんじゃ」
「ですよね」
「昔は、もう少し頼りなかったものじゃ」
「ユウルに言わないでくださいよ」
「言わん、言わん」
ユウルがローナの方を見ていた。
目が合った。
ユウルが来いというように目をわずかに動かした。
「行ってきますね」
とローナが師匠に言った。
宴は深夜まで続いた。
子供達が眠り、老人達が引き上げ、それでも若い面々は残っていた。
セクトが「もう一杯だけ」と言い続けて、カルナに「もう飲まなくていいしょ」と言われながらも飲んでいた。
マルセルが「あの終盤の光景を論文にできそうです」と言って、セクトに「なんで式が論文につながるんだよ」と言われていた。
ミゼが眠りそうになりながらも精霊を呼んで広場に光を灯していた。
ローナとユウルは、広場の端の石段に座っていた。
広場の石段は二人が並んで座るのに、ちょうどいい高さだった。
「疲れたか?」
とユウルが聞いた。
「疲れたけど幸せだなって」
とローナが答えた。
「そうか」
「ユウルは?」
「俺もとても幸せだよ」
ローナは笑った。
空を見上げた。
たくさんの星が春の夜空にあった。
ローナはユウルの肩に頭を預けた。
あの頃は、ユウルがまた出発していくことが分かっていた。
別れが常にそこにあった。
今はもう違う。
ユウルはここにいる。
「ユウル」
「何だ」
「大好きだよ」
「俺はもっと大好きだ」
ユウルはローナの頭に自分の頭をこつんとした。
風が吹き、春の風が二人の間を通り過ぎた。
遠くで、セクトが「やっぱり四杯食べたかったー」と言いながらまだ飲んでいる。
カルナが「あなた食いしん坊すぎるのよ」と言っていた。
マルセルは何かを書いていた。
ミゼが小さな寝息を立て始めていた。
大樹の葉が風に揺れて、新しい葉が夜の光の中で揺れていた。
それから季節が流れた。
ローナは師匠の薬房を継いだ。
師匠は「もう任せて安心じゃな」と言って、薬房の鍵をローナに渡した。
引退しても毎朝薬房に顔を出しては「あの薬草の整理の仕方が違う」と言ったりしてくるので、実質まだ現役だった。
カルナとミゼの医術は、王都にまで評判が届くようになった。
二人は「ニルハ村の癒し師」と呼ばれて遠方から患者が訪ねてくるようになった。
セクトは故郷の農村で、父親の農業を手伝いながら暮らした。
時々手紙が来て「シチューを食べに行っていいか」と書かれていた。
いつも「来ていいよ」と返した。
シチューのためだけに定期的にくるので、ユウルはそんなセクトに呆れていたけども。
マルセルの論文は王都の学術誌に掲載されて、魔法理論の世界に新しい風を起こしていた。
ユウルは王宮からの招集には応じながらも、ニルハ村を拠点にした。
一時期、王宮から「勇者に王都に相応しい屋敷を用意する」という申し出があったが丁重に断った。
その理由を聞かれた時、ユウルは「既に相応しい場所がある」と答えた。
石段は変わらずそこにあった。
朝になると二人は並んで座った。
パンを齧ることもあった。
ただ空を見ることもあった。
言葉がある朝もあれば、ない朝もあった。
どちらでも良かった。
ある朝、ローナが石段に座っていると隣にユウルが来た。
いつもより少し表情が柔らかかった。
「ローナ」
「何?」
「……そろそろ名前を決めないか?」
ローナはその意味を理解した時、顔が少し熱くなった。
「……そうだね、ユウル」
ローナは下を向いて、それから顔を上げた。
「……男の子だったら、どんな名前がいい?」
「そうだな――」
春の朝が石段を照らしていた。
鶏が鳴きハーブの匂いがした。
どこかでミゼが精霊を呼ぶ気配がした。
村での一日がまた始まる。
ローナは空を見上げた。
青くて、高くて、どこまでも続く空を見た。
ここから始まった物語がここに帰ってきた。
終わりではなく、続きがここからまた始まる。
そして春の温かい風が吹き始める――。
これで完結になります。ここまで読んで頂き有難うございました。




