10話ー③
「1回お風呂に入って着替えて、本館の応接室を…」
「だめです。」
ベッドの上のネロをエイシアが睨む。
「昨夜もお熱があったんですよ。体は拭いて差し上げますが、お風呂はダメ。お席もこちらにします。」
今朝方、ノワールから手紙が届いた。
ーー今日の午後、見舞いに行く。ーーと。
そういうわけで、フリーセス館では来客の用意が必要になったのである。
「…もう平気だって。」
ただの風邪なのだし、もう熱もない。ノワールに会うならちゃんとした格好でと思ったのだけれど、どうやら全然許されないらしい。
完全に病み上がり扱いだ。
一応ここの主人はネロなので、命令して強行出来ないことはないのだが、流石にそれは横暴が過ぎる。
「お召し物も平服です。…それともデイドレスになさいますか?」
「絶対嫌だ。」
間髪入れずに返すと、エイシアが楽しげにクスクスと笑った。
「だってお手紙を見て、あんなに可愛いお顔をなさるんだもの。本当に久しぶり。あ、まさかネロ様、お熱が出たのもそのせい…」
「エイシア!ほんとに怒るよ。」
ネロが本気で睨むと流石に彼女も言葉を止めた。とはいっても、あまり悪びれた様子はない。
「失礼しました。…でも嬉しいんです。私はもう、あなたをお嬢様、とも呼べなくなってしまったから。」
それを言われてしまうと、今度は黙るのはネロの方だった。彼女はネロの子守役だったので、昔はネロの本当の名前を知っていた。天恵持ちだと分かった時に暗示で名前を忘れてもらって、その時に呼び方も変えさせてしまった。
エイシアがそれを寂しいと思ってくれているのは知っている。ネロだってそう思わないわけではないけれど、互いの安全のためにはそれが最善だった。
「さぁ。お湯を持ってきますから、お待ち下さいね。」
エイシアが部屋を出ていく。
ノワールから手紙が来て、嬉しかったのは本当だ。会いたいのも。
でもエイシアがああ言うくらいだから、ネロはよっぽど女らしい顔をしていたのだろう。
今さら、柄でもない。
そんな顔で、ノワールになんて会えない。
でもどうしたらいいのかなんて、考えても考えても結局全然思いつかなかった。
いつも通り?何もなかったみたいに?
そんなの、出来るわけがない。
―*―*―*―*―*―*―
昼下がりの頃、ノワールはフリーセス館の門をくぐった。ここへ来るのは2回目だ。負傷後のネロが自宅療養していた時に、魔力の補充で一度だけ訪れたことがある。
「お待ちしておりました。ご来訪いただきありがとうございます。」
丁寧に頭を下げて出迎えてくれた家令が、どうぞこちらへ、とノワールを招き入れる。
「ネロ様はまだお加減が思わしくないものでして。至らぬところもあるのですが、別館の方へお席をご用意させていただきますことをお許しください。」
言い様をみるに、別館とやらのほうが格式が低いものと思われた。前回来た時は建物を移動した覚えがないので、ノワールが行ったことのない場所だろう。
「ああ。構わない。」
「ありがとうございます。では、ご案内させていただきます。」
先導する家令についていく。お加減が思わしくなく、の一言が少し気にかかった。
手紙では見舞いも迷惑になるほど具合が悪いとは思えなかったが。
どんな容体なのかを尋ねるか迷ううちに、家令は中庭へ出た。
「あちらが別館でございます。」
別館と呼ばれた建物は、今通ってきた母屋の3分の2ほどの大きさの離れだった。
「家令殿。」
「なんでございましょう。」
「ネロの容体はそんなに悪いのか?」
「ああいや、それほどでは…ですが、やっと発熱が引いたばかりと聞いております。」
「…そうか。」
話をしながら踏み入れた別館の中は、本館とは少々趣が異なっていた。フリーセスの本館は割りと温かみのある家具が多く、小物も多い印象だったが、こちらの方がやや整然とシンプルだ。かといって武骨というわけではなく、シックな装いというのが近いか。
本館を整えている人物が風合いを変えて揃えているのか、別の人物が管理しているのか、どちらとも言えない感じだった。
「こちらでございます。」
「ああ。」
通された応接間は、なるほどノワールをー侯爵家の人間を持て成すには多少手狭だ。別に今さら気にはならない。というか職場で会っている分には身分や家柄を気にすることがほとんど無いので、ネロの家の者に侯爵家の人間として扱われるのが新鮮なくらいだ。
「ネロ様はすぐにいらっしゃいますので、こちらで少々お待ち下さい。」
「分かった。」
家令はそう言って出ていって、ネロが来たのは本当にそのすぐ後だった。
「いらっしゃい、ノワール。…その。」
声をかけて入ってきて、ネロは応接間のソファーに座る手前で立ち止まった。
何かを言いかけた彼女の、その頬がみるみる紅くなる。
「一昨日の夜は、あの…ありがとう…」
灰黒の目はノワールから微妙に逸れて、行き場なくうろうろと泳いでいる。
思いもしなかった反応に、ノワールは一瞬固まった。
ネロのことを、静かに笑っているばかりで言葉の裏も読ませなくて、わかりづらい奴だと思っていたけれど。
でもこれはどうだ。大変分かりやすい。
照れてる。照れて、恥ずかしがってる。
それがあまりにも彼女らしくなくて、そして可愛い仕草だったから、ノワールは思わず吹き出した。
「わ、笑うなよ…」
うわずった声で非難して、ネロが目元を手で覆って顔を逸らす。
「いや、悪い。」
誤りながら、ニヤけた口元は全然元に戻らなかった。
確かにあの夜、友人の枠を踏み越えた自覚がノワールにもある。触れたいと思って触れて、それでこの反応は、俗に言う脈アリってやつじゃないか?
「まぁほら、座れよ。」
ここはネロの家なので、ノワールが言う台詞でもないが。
ネロは半ば睨むようにノワールを見返して、それでようやく今日初めて目が合った。
彼女は珍しいものを見たような顔になって、ノワールにつられるように小さく笑う。
「…うん。そうする。」
改めて見れば、ネロは平服の、しかもかなり簡素な装いだった。
人に会うにしては楽な服装過ぎる。体調が戻りきっていないのだろう。
「具合は?」
ノワールは対面に座ったネロに問いかけた。
「もう平気だよ。…みんなが大袈裟なだけ。」
「魔力の制御もか。」
「うん。戻った。」
「手、貸せ。」
「え?ああ。」
腕輪の嵌った左手に触れる。腕輪に魔力を注ぎ足して、ノワールはネロの容体を探った。
魔力の流れで何をされているか察したのだろう。居心地悪そうに、握った手が動く。
「大した事ないって。」
ノワールのかけている魔法は、ちゃんと発動している。呪いは、まだ少し勢いが強い。
呪いの周りには、ネロのかけている呪い封じがある。いつもはそれほど詳しく視ることはしないが、昨日見た魔導式を思えばそちらの動きも気になって、つい魔力の流れを辿った。
魔力の流れは思いのほか少なく、封じが弱い。彼女自身の体力が落ちている証拠だ。
「もう。どこまで視るんだよ。」
不満げな声とともに手が引かれた。名残惜しいが、真剣に辿ってしまうと複雑な流れをいつまででも見ていられそうだったので、仕方なく不満を汲んで手を離す。
「まだ寝ていたほうが良さそうだな。」
所見を告げればネロが苦い顔になる。様子をみる限り大きな不調は無さそうだが、倦怠感や疲れやすさは自覚があるはずだった。
失礼しますと声がして、部屋のドアが開いた。紅茶とクッキーが運ばれてきて、2人の前に配られる。
「これ、ありがとう。」
クッキーを指してネロが言った。これはノワールが持参したものだ。
「ああ、一応な。」
見舞いに来るのに手ぶらでは格好がつかないので持ってきただけだ。もしも未だネロが寝込んでいたらと思って日持ちのするものにしたが、杞憂だった。
真ん中にちょこんと乗ったいちごのジャムが可愛い。
紅茶に手を付けつつ、ノワールは口を開く。
「治癒術士団で、お前の描いた呪い封じの魔導式を見た。」
ネロはピンと来ない様子で首を傾げた。
「改めて?ノワール、見たことなかったっけ?」
「描き直す前のは描くところを見ていたが、新しいのは見ていない。」
首を振って、ノワールは一呼吸置いてその先を続けた。
「…乱入者のあった戦場、俺が行くまで良く保たせたな。」
ネロが驚いたように瞬きをして、苦笑する。
「その後役立たずだったけどね。」
「…その状態でよく、あれだけ魔法を使ったと、思った。」
魔導式を見て、正直ぞっとした。
身を削るようだと思った。
一歩間違えれば魔力を失いすぎて、呪いに呑まれていただろう。そうさせなかったことは、素直に凄いと思う。でも、知っていたならあの後もう少し、シフトを変えて休ませてやるとか、やりようがあったのにとも思う。
ノワールの言葉に、ネロは嬉しそうに笑った。
「君に褒めてもらえるなら、頑張った甲斐があったかな。」
明るい発言に肩の力が抜けた。ちょっと責任を感じていたわけだが、本人がここまで全く気にしていないなら、まぁいいだろう。
それと同時に、なにかがすとんと心に落ちる。
そうか。そういうことか。
あんなに身を削って、ノワールが褒めてくれるならそれでいいと笑う。
ノワールを庇ってその身に傷を負ったのも。
寒い夜に手渡されたホットチョコレートも。
ノワールの荷物になりたくないと泣いたのも。
単純にノワールが、ネロに気に入られているからだと言うなら。
触れる手は拒まれない。
いつの間にか隣にいて、同じものをみている。
なんて簡単な、わかりやすいことだったんだろう。
ノワールの目元が優しく緩む。
「仕方ない奴だな、お前。」
「え?」
だけどちょっと、献身が過ぎる。
荷物になりたくないから、助けたいから、そうやって簡単に心も命も投げ出してしまう。
そんなことしをていたら、ネロはきっといつか、ネロ自身をノワールのために使い切ってしまう。
「…どういう意味?」
「報酬が安すぎる。」
「別に…なんかくれるの?」
「何が欲しい?」
「…冗談だってば。」
うろうろとネロの目が泳ぐ。
扱いが変わり始めていることに、きっと彼女は気づいている。
失いたくないから。
使い切られてしまわないように、護りたいと思ってしまったから。
「そういえば、お前が寝起きしてるのはこの別館なのか?」
「うん。本館は上の兄上と奥方の住まいなんだ。下の兄上とボクは帰って寝るだけだから、こっちに住んでる。」
話題を変えて他愛ないやりとりを交わしながら、ノワールはクッキーを摘んだ。
ネロも同じように手を付けつつ会話に応じる。
「こちらは初めて入った。」
「そうだね。本当の応接間は本館だから、今日もそのつもりだったんだけど。」
「家令はお前の具合が悪いから、と言ったぞ。」
「そう。病み上がりは大人しくしてろって。」
「俺もその意見に賛成だな。」
ネロは困ったように笑って黙った。
大した事ないと嘯いてばかりの病み上がりをそろそろ寝かせておこうと、ノワールは立ち上がる。
「帰る?」
「そろそろな。」
「そっか。」
見送りをするつもりか、ネロも席を立った。
「見送りは要らないぞ。」
「玄関までくらい、行くよ。」
歩き出したノワールを、ネロが追ってくる。
「来てくれて、ありがとうね。」
当たり前のように、ネロの声を背中越しに聞いて、ノワールはふと後ろを振り向いた。
当然、ネロはすぐ後ろにいて、不思議そうに振り返ったノワールを見返してくる。
ノワールの身に馴染んだ、当たり前の距離感だった。
「…また来る。魔力の補充もあるからな。」
クリーム色の頭にそっと手を乗せた。柔らかい真っすぐな髪と梳くように触れれば、白い頬が赤く染まっていく。
当たり前みたいに側にいて、うっかりしているとノワールのために勝手に命をかける。
なんて面倒な奴だろう。
でもそれは全然嫌じゃない。
むしろ嬉しいんだから、もう仕方ない。
まぁでも、ちょっとやり返しただけでこれだ。ノワールがネロを“大事に”なんて扱ったらどうなるかわからないけど。
「逃げるなよ。」
「…えっ…」
上ずった声。
「俺から、逃げるな。」
目を合わせて釘を差した。
「にげ、ない、けど…」
護ると決めたからには、ノワールはネロのために時間を使う。でもそれは決して荷物なんかじゃないから、受け取るのを怖がられては困るのだ。
ネロの灰黒の目が、ノワールに囚われて揺れている。
「じゃあな。」
固まったネロにちょっと笑って、ノワールは踵を返した。




