その弐
あんこを連れて家に着いた頃には、かなり日が暮れてしまっていた。
「遅かったわね」
奥で繕いものをしていたらしいお母さんが、戸口に顔をのぞかせた。
「うん、友だちと喋ってたから」
「そうだったの」
お母さんは、再び奥の部屋へと戻る。私はほっと息をついて、草履を脱いだ。
帰るときおばあさんに、総司兄ちゃんが今、あそこに住んでいることを、誰にも言わないようにと言われた。
総司兄ちゃんは京にいたとき、新撰組の隊士だった。いろいろと敵が多い組織だったらしく、以前新撰組にいた、というだけで、総司兄ちゃんは命を狙われているらしい。
そういう事情がなくても、新撰組は乱暴者ばかりで、京で恐れられているという噂は江戸でも聞く。お母さんは、私が総司兄ちゃんに会ったと聞いたら、嫌な顔をするかもしれない。
だから、絶対に言わない。総司兄ちゃんに会うために。
どこにも遊びに行けない総司兄ちゃんの代わりに、私がこれから誰にも内緒で、何回だって遊びに行くんだ。
「総司兄ちゃーん、遊びに来たよー」
数日後。私があんことともに総司兄ちゃんのもとを再び訪れると、彼は、にっこりと笑って私を出迎えてくれた。
「来てくれたんだ。ありがとう」
「うん、あんこも連れて来たよ」
私の腕の中にいたあんこが、庭にいたミイを見つけて、腕から飛び出していく。
「あいつら、仲いいなあ」
縁側に座っている総司兄ちゃんが、猫たちの様子を見ながらのんびりと笑った。
「総司兄ちゃん、寝てなくても大丈夫なの?」
私も縁側に座ると、彼は頷きながら、私の頭に手を伸ばした。そのまま、わしゃわしゃと頭をなでられる。
「座ってるくらい大丈夫だよ。京にいたときも、みーんな寝てろ寝てろってうるさかったなあ。まだまだ元気なのに」
「へえー」
京か。私は江戸から出たことがないから、もちろん京にも行ったことがない。
「ねえねえ、京ってどんなところなの?」
「京?」
「うん。物騒なところだって聞くけど、そうなの?」
「そうだなあ……」
総司兄ちゃんは、ふっと懐かしそうに微笑んだ。
「確かに町なかで乱闘騒ぎみたいなことも多かったけど、楽しいところではあったよ。りっちゃんくらいの年の子も、もっと小さい子も近所に住んでいたりして、たまに遊んだし」
「そっかあ。ほかには?」
「景色の良い場所がいろいろあったな。清水寺の紅葉とか。……あと、祭り。祇園祭はすごいよ。鉾がいっぱい出て、人で通りがごった返して、夜になったらたくさんの提灯が赤く光って、とても綺麗で……」
私の頭の中に、無数の赤い提灯が輝くさまがあざやかに浮かびあがった。総司兄ちゃんが向こうでいろんなものを見てきたことがよくわかる。
「行ってみたいなあ、京」
「大きくなったら行ってみな」
「うん、行ってみる!」
私も総司兄ちゃんが見たものを見てみたい。まだ行ったことのない場所に行って、おもしろそうなことや楽しそうなことを探したい。江戸からとっても遠くに行ってきた総司兄ちゃんが、私はうらやましい。
それから私は、時間があれば総司兄ちゃんのところへ行き、京の話を聞いたりして、彼と過ごした。あんこもいつもついて来て、ミイと遊んでいた。お母さんやお父さんには、何も言わずに出かけている。総司兄ちゃんのことは、誰にも言わない。
今日も私は三味線の稽古の帰りに、総司兄ちゃんに会いに行っていた。
総司兄ちゃんは、いつもより体調が良くないみたいで、起き上がらずに寝ころんだ状態で私と話していた。
「りっちゃんは忙しいなあ。三味線の稽古に行って、俺の見舞いに来て……。ここに来るのは無理しなくていいんだよ」
「えーっ、無理してないよ。楽しいから来てるのに。あ、今日は三味線、先生の家に置いてきちゃったけど、今度は持ってくるから聴いてね」
「おっ、楽しみだなあ」
総司兄ちゃんが小さく笑う。よーし、練習頑張ろう。
気合を入れつつ総司兄ちゃんを見ると、彼の枕元に見覚えのない小箱が置いてあるのを見つけた。総司兄ちゃんはいつも、宝物らしい刀を自分の枕元に置いているけれど、その横にいつもはない、手のひらほどの大きさの黒い箱がある。
「ねえ、その箱、何なの?」
「ああ、これ? ちょっと懐かしくなって見てたんだ」
そう言って小箱を手に取ると、私に手渡してきた。
「開けていいよ」
お言葉に甘えて蓋を開けてみると、中には、女物の朱色の櫛が一枚入っていた。
「恋人にあげそこねたんだ」
「……京で?」
「うん」
こちらを見てうなずいた総司兄ちゃん目が、私の向こうの何かを見ている。その恋人のことを思い出しているのだろうか。こう見えても私だって女子だ。恋の話は好きだ。総司兄ちゃんの恋の話が聞ける……!
「その人、今は京にいるのっ? それじゃあ遠くて会えないし総司兄ちゃん寂しいよね。お手紙とかは来る?」
思わず鼻息荒く詰め寄ってしまった私を見て、総司兄ちゃんが苦笑いした。
「まあまあ、落ち着きなよ。女の子はそういう話ほんとに好きだね。残念ながら彼女、他の人のところにお嫁に行ったんだ」
「えーっ、そうなの? じゃあ総司兄ちゃん振られたんじゃん」
「振られたっていうかねえ……。まあ俺、病気だからね。特に肺病は嫌がられるし、向こうの親にも反対されたんだ。……近藤さんも反対だったし」
「近藤さんって……組の局長さんね」
「そうそう、俺の親代わりみたいな人。俺がいた道場の跡取りだったから、りっちゃんも小さい頃、道場の近くで俺と遊んでたときに見かけたかもしれないよ」
「全然覚えてない」
「あっはは、そうかあ。りっちゃんは小さすぎて覚えてないよな。近藤さん、元気かなあ。あ、婆さん、近藤さんから手紙来てない?」
開け放しにしていた廊下を偶然通りかかったおばあさんに、総司兄ちゃんが笑顔で尋ねた。
「来てませんねえ。まあいろいろと忙しい方ですからね、気長に待ちなさいな」
総司兄ちゃんの笑顔とは対照的に、おばあさんの表情は、なぜかつらそうだった。
近藤勇さんが処刑されてすでに亡くなっていることは、帰り際におばあさんから聞いた。総司兄ちゃんは、何も知らない。