その参
総司兄ちゃんと別れたのが夕暮れだったから、家に着いたらかなり薄暗くなっていた。
「ただいまー、あれ、お母さん?」
家の戸を開けたすぐそこに、怖い顔をしたお母さんが、腕を組んで立っていた。
「ど、どうしたの……?」
「三味線のお稽古のあと、どこに行っていたの?」
「え、どこって、友だちとちょっと遊んでて」
「友だちって、柴田さんのところの病気の男の人のこと?」
ばれてる。頭からさあっと血の気が引いていく。
「あっ、あのねっ、全然知らない人じゃないのよ? 小さい頃よく遊んでもらったお兄さんで」
「でも肺の病の人なのよね。最近家にいないことが多いと思ったら、よく柴田さんの家に出入りしてるっていうじゃない。もう遊びに行くのはやめなさい」
お母さんの有無を言わさない様子に、肩がビクッとはねる。でも、もう遊びに行かないなんて、そんなのいやだ。
「……どうして? 病気なんだから、お見舞いに行ってもいいじゃない」
「肺の病は移るのよ。りつが病気になって寝たきりになって、死んでしまうかもしれないのよ?」
「私なら大丈夫だもん。昔から体は丈夫でしょ」
「だめって言ったらだめなの! とにかく行くのはもうよしなさい!」
お母さんが大声で怒鳴った。どうしてそんなことを言うんだろう。おばあさんだって、総司兄ちゃんの世話をしているけど、病気にならずに元気じゃない。それに、病気が移るなんて言っていたら、誰も総司兄ちゃんに近づけないじゃない。そんなの変だ。
「……お母さんのばか。私は行くのをやめたりしないから!」
「あっ、ちょっとりつ! 待ちなさい!」
家の外へ飛び出すと、小雨が降っていた。そのまま濡れるのもかまわず、がむしゃらに走る。
とにかく家には戻りたくない。そして、総司兄ちゃんにたまらなく会いたい。
さっき帰ったばかりなのにまたやって来た私を見て、総司兄ちゃんとおばあさんはびっくりしていたけれど、家の中に入れてくれた。私が家を飛び出してきた事情を聞いた総司兄ちゃんは、明るい笑い声を上げた。総司兄ちゃんの隣に座って、彼の声を聞くとほっとして、こわばっていた体がゆるんだ気がした。
「りっちゃん、元気いいなあ。前はもっとおとなしくて静かじゃなかった?」
「……そうだった? でも、お母さんと喧嘩したことってほとんどないし、今回みたいなことはめったにないもん」
「そうかそうか。じゃあ、この喧嘩も早く帰って仲直りしな。それで、もうここには来ちゃだめだよ」
「……え?」
一瞬、聞き間違いかと思った。
来ちゃだめって。総司兄ちゃんまでそんなことを。
「やだ。まだ三味線だって聞いてもらってない」
「りっちゃん。俺の病気はお母さんの言う通り、人に移るよ。お母さんが心配するのも無理ないよ」
柔らかい笑顔でそう言って、総司兄ちゃんが笑みを見せる。
少し前に再会してから、彼は基本、いつだって笑っている。なんで、どうして笑っているんだろう。わけがわからなくなって、涙が出て来た。だって、近藤さんとはもう会えなくて、新撰組の人たちとも離れ離れになって、恋人も違う人と一緒になって、私も遊びに来なくなったら。
「そんなの、総司兄ちゃんがひとりぼっちになっちゃう……」
私が思わずつぶやいた言葉を聞いて、総司兄ちゃんから笑顔がスッと消えた。
「ひとりぼっち……?」
「だってそうでしょう? 病気だからってここで寝てなくちゃいけないし、移るとか言って誰も寄ってこなかったら、総司兄ちゃんはひとりぼっちだよ」
たぶんそれは、すごく寂しい。ぽろぽろと溢れて来た涙をうつむいて手で拭っていると、暖かい手が頭に乗せられた。総司兄ちゃんはもう笑顔に戻っていて、ぽんぽん、と私の頭を優しくたたいた。その手は、大きかったけれど、病気のせいで痩せて、少しごつごつしていた。
「そうだな。俺だけ病気になって自由に動けなくなって、みんな俺を置いてどんどん遠くに行って、寂しいよ。戦えない病人が新選組にいても足手まといだもんな。しかも肺病だから、結婚も、近づくのも嫌がられるしな。すごく寂しいよ。俺、わかってるんだ。近藤さんから手紙が来ないのだって、俺に気を使ってみんな黙ってるだけで、きっと近藤さんはもう生きてないんだよ。どんどんひとりぼっちになってるんだよ俺。だからりっちゃんが来てくれて、すごく嬉しかったよ。ありがとうな」
総司兄ちゃんの瞳から涙が一筋流れるのを、私は嗚咽を漏らしながらみつめた。
「でも、嬉しすぎてりっちゃんに甘えちゃったな。病気のことを考えたら、俺のそばにりっちゃんがいるのは良くないよ。親御さんを心配させちゃだめだ」
「そんなの、大丈夫だよ……」
「絶対に大丈夫なんてないよ。りっちゃん、いつか京に行くんだろう?」
「うん」
「じゃあ健康でいなくっちゃ。りっちゃんは思いっきり長生きして、いろんなところに行って、いろんなことを知ればいい。俺には難しくてわかんないけど、これからの日本と異国の関係もどうなるかわからないっていうだろ。異国について知る機会だってあるかもしれない。おばあちゃんになって死ぬまで、たくさんのおもしろいものをその目で見て生きろよ」
俺の代わりに。俺以上に、生きろ。今の言葉には、そんな気持ちが込められていた気がする。
「……わかった。今日で来るの最後にする。お母さん心配させないし、病気にもならないように気をつける。それで、長生きするよ」
「よし」
総司兄ちゃんが私の頭をぐしゃぐしゃとなでた。
「やめてよー、私もう子どもじゃないよ」
ごめんごめん、と言って総司兄ちゃんは、やっぱり笑った。
もう夏だ。じめじめした暑さの中、私は三味線の稽古を終えて家への道を歩いていた。
「りっちゃーん、ばいばーい」
遠くから、さっきまで一緒に稽古を受けていた友だちが手を振っている。
「ばいばーい」
手を振り返して、再び歩き始める。なぜか稽古について来ていたあんこが、私の後ろをてくてくとついてくる。が、暑くて歩く気が失せて、私はなんとなく道端に座った。ちょっと休憩。
座ってほっと一息つくと、昨日久々に届いた信太からの手紙に返事を書いていないことを思い出した。信太からは、だらだらと近況報告がされていて、そっちはどうですか、何か変わったことはありましたか、くらいの内容だった。
変わったこと……。あれから総司兄ちゃんとの約束通り、彼のところには遊びに行かなくなった。
結局、三味線は聞いてもらえない。今なら持ってるのに。
私は背中に背負っていた三味線を持ち、滑稽だとわかっていながら、その場で正座した。軽く調弦を済ませて、撥でベン、と音を鳴らしてみる。今、人通りはまったくない。さっき稽古で弾いた曲を、丁寧に演奏してみる。ベンベン、と心地よい音が耳に響く。
信太、総司兄ちゃんを覚えてる? 私ね、春に、久々に会ったのよ。総司兄ちゃんね、肺病なの。だから私は長生きして、総司兄ちゃんの分も、いろんなものを見て生きていくの。
――りっちゃん、俺の分までよろしく。
総司兄ちゃんの声が聞こえた気がして、手を止めた。そばにいたあんこが、私の前方に向かってみゃあと鳴いた。しっかりと顔を上げて周囲を見るけれど、もちろん総司兄ちゃんがいるはずもなく、田んぼが広がっているだけ。
でも、今のは総司兄ちゃんだった気がする。
総司兄ちゃん、私、総司兄ちゃんの分も生きるからね。まかせといてよ。
心の中で言った言葉に返事するかのように、ざあっと気持ちの良い風が吹いて、青い田園が揺らいだ。
その日、総司兄ちゃんが亡くなったことを、私は後日、家を訪ねて来たおばあさんから聞かされた。総司兄ちゃんが私にあげるように言っていたと、おばあさんは私に、総司兄ちゃんが恋人にあげられなかったあの櫛を手渡して帰っていった。
あのとき、彼は私の近くにいて、三味線を聴いていてくれたのかもしれない。
朱い櫛を握りしめながら、私はそう思った。
大学で日本史学を専攻していた頃に書いた過去作でしたが今でも個人的にお気に入りのお話なので、再掲しました。
いつか、大人になったりつの物語も書いてみたいなあと思ったり……。




