青夏の始まり
ぼんやりと校庭に生い茂る緑を眺めているうちに、気がつけば季節は盛夏まで捲っていた。
年々暑さが増していくこの地球では、文明の発達に比例して温暖化が加速している。
…そんなことは誰でも知っている。
数ヶ月前の話に遡るが、今世二度目の天魔学園体育祭を優勝したのは、生徒会長と赤妻先輩率いる三年A組だった。
競技が始まってからは、怪我や体調不良で救護テントに足を運ぶ生徒も多くなり、新良くんと、遅れながらも顔を出してきた花井さんとともに、責務を果たした。
本来は新良くんが担当するはずだった各クラスの得点集計は、赤妻先輩が完璧な暗算で済ませたらしい。
そうして騒々しくも賑やかな体育祭が過ぎ去り、現在は期末考査を終え、その結果が発表される日である。
各学年上位一〇〇人の成績が、このあと玄関にある大きな掲示板に貼り出されるのだ。
人間と同じ生体構造で作られている私は、肌の表面に滲んだ汗を手で仰いだ。
「新良くん、四教科も満点だったの!?」
教室内で一際目立っていたのは、私の隣の席。
五、六人の男女に囲まれているのは新良くんだ。
「わりと勉強したから。いい結果を出せて良かったよ」
クラスメイトの背中が重なって彼の顔は見えないが、いつものように涼しげな笑顔をしているのだろう。
天使や悪魔、吸血鬼も例外ではないが、人間界の勉学はあってないようなもの。問題文を読めば、それが私たちにとっては答えである。
状況に応じて故意に成績を下げることもあるが、特別操作する理由がない場合はその通りに書き記すことが多い。
私は存在が目立たないよう、そこそこの点数で抑えている。
隣の彼がいい反面教師だ。
「天、どうだった?」
栞奈ちゃんと杏ちゃんは人集りを気にしながら、声をかけてきた。
「まあまあかな。栞奈ちゃんと杏ちゃんは?」
「よくぞ聞いてくれた!!」
前のめりで食い気味に返事をしてくれたのは杏ちゃんで、考査期間の前後は雰囲気を灰色に澱ませている彼女が、過去一番の明るさを見せる。
「なんと、この鈴乃木杏…赤点ゼロ!!補習地獄を無事に回避っ!!」
私の机を使って、指をドラムスティック代わりにリズム良く刻み、吉報を知らせてくれた。
「おーっ!すごい!」
「本当にギリッギリだったけどね」
「赤がつかなければ何点でぅわあっ」
杏ちゃんの両端のお団子を鷲掴み、彼女の背後から現れたのは佐賀くんだ。
彼が遊び道具を得た子供のように髪を弄ると、杏ちゃんは心底鬱陶しそうに顔を歪める。
「俺様のおかげだ。先生から秘密裏にゲットしたテスト内容を流してやったんだからな」
「うっ…うるさい!そんなのなくたって赤点は免れてたし、アンタのお陰でもなんでもないでしょ!?私の努力なんだから!」
「お前の間違ってた公式を指摘してやったのを忘れたのか?」
「くっ…」
痛い事実を突かれたのか、佐賀くんへの抵抗をやめ、されるがままのお団子ヘアはとうにくしゃくしゃになっていた。
佐賀くんは杏ちゃんに好意を抱いているのだが、どうしてかいつもこの調子で、そろそろ異性として優しく接してあげなければ、先の関係性にヒビが入るのではないかと勝手に危惧している。
年頃の男の子が素直になれないまま、距離が進展することはない。
私は応援しているのよ、佐賀くん。
「てか、鈴乃木。八月二十五日ってヒマ?」
半ば呆れていると、佐賀くんは杏ちゃんの髪を解放した。彼女は眉間に皺を寄せながら、崩れた髪型を綺麗に結び直す。
「えーと………土曜日だっけ?何もなかったと思うけど。何?何か軽音部であったっけ?」
杏ちゃんが佐賀くんの方向に振り返ると、二人の黒い瞳はお互いを捉えた。
あくまでも、佐賀くんはおどけずに真剣な眼差しをしている。
「いや、隣町で花火大会あるじゃん。それ行こうと思って」
思わず栞奈ちゃんに視線を向けると、彼女も驚いた様子で私を見ていた。
天使の私と言えども、人間の感情を操作するなど野暮なことはしないが、今日の佐賀くんは運がたっぷりとある。
まさか此処で花火大会のお誘いをするなんて、佐賀くんという漢の度胸を私たちは侮っていた。
「………天ちゃんと栞奈と…そっちの友達も何人か連れてくるってこと?」
「いや、俺は鈴乃木だけを誘ったつもりだったけど、神宮と和田も行くか?」
き、きたーっ!!
「いや!私は別で先約が!」
「あー私も用事があるからムリだわ〜」
「え!?」
考える間もなく私と栞奈ちゃんが首を横に振ると、突然二人ともどうしたの?と杏ちゃんは戸惑いを隠せずに瞬きを繰り返す。
人間界の恋模様はいじらしくも尊い、天使として生きる時間の中では欠かせない甘いスパイスなのだ。
邪魔をする訳にはいかない。
「じゃ、ヒマってことで!また時間とか場所とかは連絡するわ!」
「ま、まま、待って…えっ?!」
最後には歯を剥き出して笑い、杏ちゃんに軽く手を振る佐賀くんは、慌ただしく男子の輪に戻っていった。
彼の手は震えていたことを知った私は、何故だか胸が熱くなる。
明日から夏休み、今しかないと勇気を振り絞って誘いにきた背景が想像できる。軽音楽部の活動も長期休暇という形でほとんど無いと杏ちゃんも言っていたから、否が応でも約束を取り付けたかったのだろう。
これが慎ましくも尊い学生の恋愛だ。非常に興味深い。
「ちょっと!二人とも!何で一緒に来てくれないの!?アイツと二人で夏祭りに行くとかっ…どうなの!?キモくない!?」
「落ち着きなさい、杏。受け入れなさい」
「何をよ!」
「杏ちゃん、私………ありがとう」
「よく分かんないけど感謝されてるっ」
胸を踊らせたまま一学期最後のホームルームが終了し、杏ちゃんは重そうな足取りで軽音楽部に、栞奈ちゃんは趣味の衣装作りが山場を迎えているらしく、両腕を振って別れを告げる。
私はこの天魔学園に棲む天使。
約一ヶ月、二人は此処へ来ることはなく、私も二人の元へ行くことはない。だからか、帰り際の雑談はいつもより長引いた。
太陽はまだまだ沈む気配はなく、空調の効いていない校舎を歩く。
夏休みが始まるとはいえ、授業のない学園には部活動をする生徒や、赤点で補習を受ける生徒、このために働く教師が沢山いる。
それでも友人の存在は大きく、ずっと同じ時間を過ごしているはずなのに、とても遅く感じてしまうのだ。
二年生校舎の最上階まで上り、廊下の窓枠に手を添えて、無意識に外を見渡す。
すると、鞄を肩に下げて校庭を彷徨く人物の姿に目がついた。
ーーー新良くんという名の悪魔だ。
何かを探している様子を、観察する。
自然な会話は増えたが、彼の真意を探し当てられていないまま、しばらく晴れが続いていた。
どれくらい彼を眺めていたのか。自覚はなかったが、意識が戻ると、新良くんは私の視線に気がついて、こちらを見上げている。
「神宮さん、そこで待ってて!」
しばらく見つめ合ってから、彼はそう叫んで走り出した。
不思議な感情を纏いながら、私は手を滑り落とし、足先の進路を変更する。
しかし、その足を踏み出す前に、風というよりは光の速さで、彼は既に私を阻んだ。
「な…にか、私に用事があった?」
二人きりになるのは、体育祭ぶりだ。
私が意図的に避けてきたせいである。
「本当はもっと早く話しかけたかったんだけど、なかなか人混みから抜け出せなくて…。神宮さんの名前も載ってたよ」
「そうなんだ…」
玄関に貼り出されている成績順位表のことだろう。
概ね、四教科も満点を採ったと囃されていた彼は、二年生の上位三人のどれかで、さらに周りの生徒の注目を浴び、大勢に囲まれて身動きが取れなくなってしまったと容易に想像できる。
悪魔とは承認欲求が高い生き物だと聞く。慎ましく生活する選択肢はないに等しいのだと納得する。
「神宮さんは、屋台とか、花火とか興味ある?」
「また…急な質問ね」
「人間はすごく興味のあるイベントらしくて、神宮さんもそうなのかなって。やっぱり、俺は君のことを何にも知らないし、直接聞きたかった」
『人間は』
その言い草に、私は喉につっかえるものを覚えた。
「私は…」
幾年も追憶する。
この天魔学園が創立され、私は天から使命を授かり、生まれてからずっと、この場所から見える景色は数え切れない彩りがあった。
しかし、私は花火大会と呼ばれる催しを、創作物でしか目にしたことがない。
その日は、屋台が道の端に隙間なく横列し、夜をも忘れさせられるほどあらゆる人の声と明かりが灯されるものだと知った。
花火という名の爆発物は、この学園の屋上から眺めた、遠くで散った火花を薄ら思い出した。
「もしよかったら、今度花火大会が近くであるらしいんだけど、俺と見に行きませんか?」
天使として使命を全うしている以上、興味を持ったって仕方ないの。
だって、動けないんだもの。
「…ごめんなさい。私…行けない」
この学園で過ごす人間を見守るために授かった命は、この地でしか生きることを許されない。まるで地縛霊だ。
悪魔のように自由奔放で、欲望のまま体を動かすことができたのなら、どんなに幸福だっただろうか。
私にとっての幸せはーーー人間が笑顔で、楽しく、幸せに暮らすこと。
嘘偽りない想いのはずなのに、視界に映る色は混ざり合い、両頬は生暖かくぬかるんだ。
「神宮さん…っ」
背負っているものを全部薙ぎ払うように私は走り出し、引き留める声が消えるまで、人の姿から形を変え、自分を隠した。




