萎れた花の気持ち
次の日陸は職場に復帰していた。
いつまでもグジグジ、へこんでいるのはもうやめよう!
昨日のマスターの一言で陸は元の生活に戻ることを決意した。
右腕だった花はいないが、ずっと一人でやってきた事をまたやっていくだけの話だ。
そのくらい忙しい方が気が紛れてむしろいい。
陸はいつにも増して仕事にのめり込んだ。
朝早くから、夜遅くまで、休日も返上した。
花の顔を見たい、気を抜けばそんな気持ちが雪崩の様に襲ってくる。
しかし、目覚めた時の彼女の様子を思い出すと、今は側に一緒にいる事は回復を遅らせるのではないかと思った。
両親には、しばらく花とは距離を置く事を宣言し、ただがむしゃらに…目の前の事をこなしていく。
事件から一ヶ月経過して、花の復帰の話が出てきた。
彼女が目覚めた日から、陸は一度も顔を見せに行っていない。
状況だけは毎日かかさず花の母と連絡をとり、元気に回復していく様子を聞いていた。
当分は距離があっても実家から通うことになり、住んでいた部屋はまだ事件前のまま誰も足を踏み入れていなかった。
復帰の日、花がアパートの様子を心配していると聞いたので、帰りは付き添って家まで送ると言う話になった。
彼女が同じブースのあの席にまた戻ってくる…。
陸は嬉しい気持ちを隠しきれない。
たとえ自分が認知されていなかったとしても、陸はいいと思った。
商品部のフロアからは花の復帰をみんな笑顔で迎えてくれる。
楓や浩介も陸から事情は聞いていたので刺激を与えない様、陰で見守った。
仕事の内容は覚えていても働いている同僚たちの記憶は今でもぼやけている。
『私はこの人たちと仕事をしていたのか…。』
分かることと、分からないことが交錯し、戸惑った。
いつも陸と一緒にいたブースに自然に足が動く。
トントンとノックをして中に入ると、花が初めて目を開けて一番に飛び込んで来た陸の顔があった。
「花…、いや、古谷さん。おはよう。」
陸は久しぶりに見る花のスーツ姿に様々な思い出が蘇る。
危なく涙がこぼれそうになる姿を見せない様背を向けた。
「あの…、ごめんなさい、私ずっとここで仕事していたと思うんですけど、記憶が曖昧で…。」
花は申し訳なさそうに謝る。
「辻本さんですよね?」
母の口から何度も出てきていた陸の苗字をぎこちなく呼ぶ。
「あぁ、辻本陸です。古谷さん、今日はとりあえず無理しないで、覚えてることをやってみて。ゆっくりでいいから。」
優しく微笑む陸の表情がどこか胸を締め付ける。
「…はい、ありがとうございます。」
お礼をいって席に着く。
なんだろう…このへんな感じ…。
胸が勝手に苦しくなるが理由が分からない。
陸はすぐに仕事の顔に切り替わる。
花は考えなくても何をやるべきか、身体が勝手に動く。
初日な上に、記憶も曖昧なのに、仕事ぶりは事故前と何一つ変わらない。
陸はそんな彼女をみて言いようのない嬉しさを覚える。
仕事を通じて、ほんのすこし、花が前よりも近づいた気がしたのだ。
陸は昔の話は一言も話さない。
今の彼女だけを見て、今の花をもう一度好きになる、そう決めたのだ。
「お疲れ様でした。」
恋人だと母から知らされてはいたが全く実感がわかない花だった。
こんな仕事ができて、素敵な人が何で私の彼だったのだろう?
私はどんな気持ちで彼と接していたのだろう…。
今までずっと知らないことから自分を守るために考えないようにしてきた思いが、徐々に変わってきたことに自分でも気づいていた。
「今日は、古谷さんの家を様子見に行くって話、お母さんから聞いてる?」
陸は花と距離を置いて話す。
「はい。辻本さん、お忙しいのに付き合っていただいてすみません。」
頭を下げる花。
「いいんだよ。気にしないで。」
陸は昔の想いが溢れ出てしまいそうで、必死に封印する。
当たり前の様に陸の左側でニコニコしていた花は今はもういない。
満員電車に乗り込み、人に揉まれる。
ドアの側で潰されそうな花を陸の大きな身体で覆う様に守る。
「大丈夫か?」
そう上から見下ろす陸。
花はまた胸が握りつぶされそうな苦しさが襲ってくる。
何故か分からないが涙が頬を伝う。
「やだ、ごめんなさい!」
すぐに涙を拭う花。
「どうした?苦しいか?」
満員電車が花にとってストレスになっているのではないかと、心配する陸。
「大丈夫です。なんだか自分でもよく分からなくて。」
俯く花。
抱きしめてやれたらどんなにいいか…。
一瞬でもそう思ってしまった自分が嫌になる。
もう、昔の花はいないのだから…。
駅を降り、アパートに向かう。
陸は花の一歩後ろから見守る。
部屋の前に着くと、
「ここで待ってるから、ゆっくりしてきな。」
そう花の家の前に寄りかかる。
「そんな…、せっかくここまで来てもらって申し訳ないです。汚いかもしれないけど、入ってください。」
花は陸を玄関に招き入れた。
目の前に広がる懐かしい花の部屋はまだ社内旅行の朝のままだった。
ここはずっと時が止まっていたのだ。
陸はその風景を見てグッとくるものがあった。
あの最後の週末は花も陸も幸せな未来しか見えていなかった。
陸は平常心を保とうと窓を開ける。
夜風がふわりと優しく包み込む。
乱れる気持ちを悟られまいと深呼吸する陸。
「ふぅ…。」
ベランダには主に水をもらえなかった花々が哀く萎れている。
なんだか自分と重なり切なくなった。
「今度昼間掃除しないとダメですね。お花も可哀相に…。」
花はベランダに出て、
「ごめんね…。」
と萎れた花びらを撫でる。
陸は見ていられなかった。
一度玄関の外に出ようと花に背を向ける。
「辻本さん…?」
声をかけられるが振り返れない。
情けない自分をこれ以上見られたくなかった。
「ごめん、ちょっと外出てるな。」
詰まる声は震えていた。
花はハッと気づく。
この人は私を愛していてくれていた人だったんだと。
きっとこの部屋にも思い出がたくさんあっただろうに、私はなんて無神経だったのか!
私も辻本さんを好きだった…?
おそらくそうだったんだろう。
結婚まで考えていたのに…。
私たちはどんな時間を送っていたのだろう?
花は目が覚めた時から、真実を知るのが怖かった。
知ったところで私は何もできないと…。
でも、今初めて知りたいと思い始めていた。
今日一日、陸の側で仕事をして、花はきっとお互いに信頼していたんだろうなと感じていた。
彼のことがもっと知りたい…。
花は彼の出て行った玄関を見つめながらそう思ったのだ。




