知らない男
寝てばかりいると何日経っているのかわからないが、看護師さん達が色々教えてくれる。僕は自動車事故に遭い、怪我をして入院しているという事だ。けれども、同乗していたはずの両親と妹はどうなったのかは話さない。
五月蝿い器械はなくなったけど、まだ僕の口からは管が出ていて話す事はできない。眼や瞼で返事をするが、看護師達は僕の名前すら呼ばない。色々聞きたい事があるのに……。
毎日、療法士と呼ばれている人がマッサージをしてくれているおかげで少しだけ指や手足を動かせるようになった。
僕は今の状況を考える。
大事故だったと思う。父さんが僕の隣に倒れていたのは憶えている。沙織も怪我だらけだと思うが生きているはずだ。母さんはわからない。けれども、看護師達は揃っておかしい事を言う。「車に轢かれた」というのだ。
口の管が憎い。動かない手足がもどかしい。言いたい事や聞きたい事が山ほどあるのに何もできない。
今日も主治医の回診が始まった。今日こそ管を抜いてくれ。
懸命に眼で訴える。主治医に通じたのかどうかはわからないが、
「よし!抜管しようか。明日から重湯を始めて少しずつリハビリを進めていこう」
主治医は言うと看護師達に指示を出す。回診はパソコンと一緒に回った来て、すぐさま指示が出せるようになっている。
管に繋がれた酸素チューブを外し、注射器でカフと呼ばれる空気の通り穴を吸引する。喉に詰まった様な感覚がなくなり、空気と一緒に別の物まで気管に入り込む。
僕は盛大にむせ込んだ。
「大丈夫。ゆっくり、少しずつ呼吸して唾は飲み込むんだよ」
主治医の言う通り、僕はゆっくり呼吸をする。すごい解放感だ。空気がこんなに美味しいと思った事は初めてだ。看護師の話と合わせて管が入ってから二週間ぶりの解放だ。
「あ……。ぼ…うは……」
恐る恐る声を出してみるが、上手く言葉にならなかった。
「急には上手く話せないよ?少しずつ慣れていくといい」
少しずつだけではダメだ。今すぐ聞きたい事があるんだ。
「お取込み中失礼します」
部屋にいた主治医と数人の看護師が一斉に入り口を見る。僕も首を動かし、その方向を見る。
ピシッとしたスーツに身を包み、テレビで観るような銀行マンのような男が立っている。目は糸のように細く、常に笑っているような顔だ。僕の知らない人だった。
「どちら様ですか?今は処置中なので外で待っていいてもらえますか?」
看護師が男に言うが、男はずいっと前に出てきて名刺を主治医に渡す。
「私は糸井と申しまして、悠君の叔父で唯一の血縁者です。他に血縁者がいなかったので病院としてもお困りでしたでしょう」
主治医が名刺を見て話す。
「この子は悠君という名前なのですか?身元不明で警察にも届けがなかったんですよ。こちらも警察の方も困ってまして……。あなたは弁護士さんなんですね」
弁護士というワードに男の信頼度が増したのかヒソヒソ話をする看護師の口が止まる。
「はい。仕事で仙台を離れていまして……。まさかこんな事になっているとは……。悠君、ごめんな」
男は僕の手を握り必死に謝る。声を震わせて泣いているようだが目が細すぎてわからない。
「あ……。ボクは……あなたの……」
あなたの事は知らないと言いたいのに上手く喋れない。
「いいんだ。悠君。私のほうこそ悪かった。君になにかあったら、死んだ兄さんに顔向けできない」
男の演技で看護師達は同情の眼差しを僕に送る。
ウソだ。この人が言っている事は全部ウソなんだ。
「そうすれば、お帰りになる前にナースステーションに寄ってください。色々と手続きがありますので。悠君よかったね」
と看護師達は言い、部屋を出て行く。
僕は知らない男と二人きりにされた。