逢魔
――1992年、まだ昭和の匂いが濃く残る平成初期の日本、物語はしずかにはじまる――
「母さん、気にしなくても大丈夫だよ。祖母ちゃんもいるから」
「ごめんね、昤。あなたに転校までさせて……」
少し痩せた母の手を握り返して病室を出た。少年の名は北見昤。東京から母の実家にある東北地方の小都市に引っ越してきたのは先週、5月のゴールデンウィーク明けのことだ。父は大手電機メーカーに勤務していて海外にいる。母の病の療養に祖母を頼り転校してきたのだ。小学生の頃までは毎年遊びに来ていた街だったが、実際住んでみると随分違った。全てが淡々と過ぎてゆく。静かな街なのだ。かつての城下町は息を殺すようにひっそりとしていた。
◇
子供の頃遊びに来た時は、もっと華やか街だったと思ったが、花火や夏祭りの影響かもしれない。今は季節外れだ。
「今帰りかい」
祖母がいた。ここは自宅から300メートルは離れているだろう。
「うん。祖母ちゃん、何してたの」
「草むしりさ。アンタも夏に遊びに来ると、ここの子供神輿に参加してただろう」
子供の頃は近所の子供たちと、ワッショイ、ワッショイと小さな子供神輿を担いでいたのを思い出す。みんなでジュース貰って飲んだ。夜は屋台も出ていた。近所の子どもとまわったものだ。
「祖母ちゃん、手伝うよ。ここは神社……寺にしてはお墓はないし……」
もっとも祖母がほとんどむしった後で草は目立つほどは残っていない。
「ここは地蔵尊さ。おじぞうさんって言われてるの、覚えてないかい」
「あ、おじぞうさんなら知ってる。昔話にも出てくるし」
「お地蔵さんはお釈迦さまが入滅されてから弥勒さまが来てくださるまでの間、みんなを守ってくれるんだよ。特に子供をね」
「に、にゅうめつ……」
「いなくなるってことさ。その碑の裏にも生えてる」
祖母の指示で碑の裏を見ると確かに生えている。この街の人たちは東京の人たちより信心深い気がする。いや、信心深いというより生活に神道や仏教や民間信仰みたいなものが溶け込んでいると言った方が正しいか。
この地蔵尊の横には小さなお稲荷さまの社があって近所の人が拝んでるのは、昤も何度か見ている。他にも小さな社が並んでいる。20坪ほどのスペースに神様仏様が同居しているような……そう考えると、急に近い存在に思えてくる。裏には大きな欅の木があるけど、それは裏の家の庭から生えているようだ。社を守るように欅の木の枝は空中で張り出している。
草を抜き終わって祖母と並んで帰ろうとした時、社の屋根から視線を感じた。昤が見上げると白い大きな猫がじっとこちらを見ていた。裏の欅の木から伝ってきたのかな、なんて考えていると、猫はゆっくりと目を閉じ、ぷいっと何処かへ行ってしまった。
◇
祖母の作る夕食には必ず季節のものが出てくる。今日は焼いたサクラマスと山菜・みずのおひたし、蕨と油揚げの煮物に葱の入った納豆だった。祖母の料理は毎日食べても飽きないものが多かった。派手ではないが、この季節にしか食べれないものを食べているのは知っている。肉も魚も近所に店があり、この通りを歩けば大抵のものは揃う。浜で今朝取れた魚、肉屋手作りのコロッケ、江戸時代から続く和菓子屋……そもそも米がうまいから残さず食べてしまうのだ。男の子が欲しかった祖母は孫の食欲に驚きつつもうれしそうな顔をしている。
◇
夜なのにカラスが鳴いている。窓を開けるとすぐ目の前の梅の木の枝に大きなカラスがとまっていた。黒い瞳でこちらの様子を窺っている。しばらく睨めっこしていると、気が済んだのか、何処かへ飛び去った。
◇
中学校までは2キロ程を歩かなければならない。
「昤ちゃーん、早いよー」
声をかけてきたのはひとつ年上の巫部咲月だ。茶色がかった柔らかそうな長い髪を結んでいる。はっきりした目元は気の強さを感じさせるが、明るく誰にでも話かける明るい性格だ。同じ町内に住んでいる。例の地蔵尊の子ども神輿も一緒に担いだ幼馴染である。2人で歩いているが、一方的に話をするのは咲月で、昤は聞き役だ。今朝の話題は他愛もない、クラスの友達の話だった。
咲月の話が区切りがついたタイミングで昤も話しだす。昤が聞きたいのは他の幼馴染たちのことだった。同じ中学にいるだろうが声をかけてくる者はいなかった。咲月以外の仲間はどうしているんだろう。
「みんな、いるよー。あ、やっくんだけは家にいるかな」
(やっくん……確か安平、斎木安平
「家にいるの。最近、流行りの登校拒否らしいよ。うちのクラスにもいるけど。何かあったのかなぁ、あ、昤ちゃん、同じ学年だもんね」
安平のことをもっと聴こうとした時、咲月のクラスの女子が声をかけてきた。いつものように、咲月と昤を揶揄う。確かに付き合ってるわけでもないのに朝から一緒に登校するのはこの年代だとあまりないことだろう。転校生という立場もあって昤は割と目立っていた。
◇
「目立ってんなぁ、転校生……」
放課後、教室から出た後、知らない生徒に声をかけられた。昤は160センチ強だが、相手は170センチは超えているだろう。顔を斜めに傾け、引きつったような表情で圧迫してくる。あっけにとられていると、胸を拳でドツンと殴られた。急なことに棒立ちになっていると他の生徒が集まってくる。殴ってきた生徒はふらりと去っていった。
翌日の休み時間、クラスメイトたちに囲まれた。男子生徒からは昨日絡まれたことについて色々聞かれ、女子生徒からは巫部先輩との関係を聞かれた。昨日絡んできたのは、三年生の宇佐美義一、この学校の不良グループの1人らしい。気をつけてと言われたが、どう気をつけたらいいのか。咲月との関係はただの幼馴染としか答えようがない。何故か女子生徒ががっかりしていたのが印象に残った。また絡まれても面倒なので昤は帰ることにした。来週までには所属する部活も決めなければならない。幸い絡まれることもなく、家に帰った。
◇
夜中にバタバタと音がする。前に来たカラスだろうか。心なしか胸が重い気がする。朧げな意識が次第にはっきりしてくる。
「こ……れ……起きよ、これ、起きよ……」
昤の布団の上には、地蔵尊で見た白い猫が乗っていた。動くのは目だけで身体は動かない。白猫は話しているわけではなく、直接頭の中に声が響いてくる。
「封印が解かれた。鉄鼠を討ち、再び封印を施せ。地蔵尊の力、其方に託す……」
再び眠りに落ちた。――気がつくと階下で祖母が朝食を作る音がする。シャワーを浴びて準備をしなければ。熱いシャワーを浴びる。いつの間にか左胸に痣ができている。宇佐美に絡まれた時かもしれない。痛みがないからそれほど気にせずに髪を洗ってダイニングへ向かった。
甘い卵焼きに蕨の漬物。余った野菜の味噌汁が今日の朝食だ。漬物は蕨のアクを抜き、出汁醤油に漬け込んだものだ。擦った生姜を添えて食べる。地味な食べ物だが、祖母は昤の好みを分かって用意してくれる。夢のことは話さなかった。
◇
「調子に乗るなって言ってんだよ」
放課後、不良グループに絡まれた。相手は3人。宇佐美はいない。絡まれているのだが、今日の昤はどこか他人事だった。ノコノコと校舎裏までついてきたのも目の前の3人がそれほど危険な存在だと思えなかったこともある。
「聞いてんのか、あぁっ」
背丈は昤と同じくらいだろうか、胸ぐらを掴んできた。他の2人はヘラヘラと笑っている。1人は何処から持ってきたのか、鉄パイプのような物を持っている。見たことあるなと思ったら、教室のイスの一部だ。
「何とか言えよ、転校生っ」
「れい……北見昤」
「何っ」
「だから、俺、北見昤」
鉄パイプを持った生徒が振りかぶって昤の左胸腕に振り下ろした――ギィッンッ――
人間ではない音がした。金属と金属をぶつけたような音。そして、ひしゃげてるのは昤の腕ではなく、鉄パイプの方だ。
「痛ってぇ……テメェ、何食ったらそんなカラダになるんだよ……」
腕が痺れて動かないらしい。他の2人も困惑した表情を浮かべたまま固まって……は、いなかった。2人ともぶるぶると震えが止まらない。
「カッ」
2人は数メートル吹き飛ばされた。昤も自分で何をしたか、よく分からない。身体の内部から何か溢れ出てきたような気がした。昤はそれに従っただけだ。一瞬、誰もいなくなったような静けさの後、校舎の周りを強い風が吹いてポプラの樹がザワザワと音を立てている。魂を抜かれたようになっている3人に怪我がないか確認して、昤は校舎を後にした。




