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神様の依頼簿  作者: 寝る猫
第2章 異世界・ギルドマスター編
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第10話 帰還と現在

◆受付嬢


ギルドの記録庫には、帰ってこなかった冒険者の名前が眠っている。


完了。


失敗。


期限超過。


行方不明。


死亡。


どれほど長い旅も、最後にはそのどれかに分けられる。


私は毎年、冬の初めに古い記録を整理する。


ギルドでは、発行から六年が過ぎた依頼書を、通常の棚から長期保存の棚へ移す。


その年に移す束の中に、あの依頼書があることは分かっていた。


六年前、私たちが受けた依頼だった。


沈黙の迷宮、第五区画の調査。


Cランクパーティー《渡り鳥》、四名。


依頼結果、失敗。


帰還者、一名。


死亡確認、三名。


遺体未回収。


帰還者の欄には、私の署名がある。


エリナ。


まだ冒険者だったころの、震えた字だった。


◆冒険者


沈黙の迷宮では、音が遠くまで届かない。


隣を歩く仲間の足音さえ、厚い布の向こうから聞こえるように鈍くなる。


だから私たちは、腰を細い縄でつないで進んだ。


先頭は斥候のトーマ。


次が剣士でリーダーのハルト。


魔術師のミア。


一番後ろが、治癒術師の私だった。


調査するのは、地図にない扉が見つかった第五区画まで。


戦闘は避け、異常があれば帰還する。


無理をしないことまで、依頼書に書かれていた。


私たちは、規則を破らなかった。


第五区画へ着いたとき、迷宮そのものが動いた。


壁がずれ、帰路が消えた。


足元から、黒い霧が湧いた。


霧の中にいたものは、剣で切っても、魔法で焼いても減らなかった。


ミアが、一人だけ通れる転移門を見つけた。


門は崩れかけていた。


四人が通る時間はなかった。


「エリナが行け」


ハルトが言った。


「治癒術師が残ります」


「外で何が起きたか伝えられるのは、お前だけだ」


トーマが縄を切った。


ミアが、残った魔力を門へ注いだ。


私は嫌だと言った。


三人とも一緒でなければ行かないと言った。


ハルトは、最後まで私の話を聞かなかった。


私の背中を押した。


転移門が閉じる直前、三人は黒い霧の中で武器を構えていた。


救援隊が第五区画へ入ったのは、その日のうちだった。


だが、動いた壁は元に戻らず、転移門も二度と開かなかった。


迷宮に入る前、私たちは全員、命灯をギルドへ預けていた。


持ち主の命が尽きると火が消える、小さな魔道具だ。


その夜、三つの灯が消えた。


遺体は戻らなかった。


私だけが帰還した。


◆受付嬢


あの日のあと、私は冒険者を辞めた。


すぐに受付嬢になったわけではない。


五年間、記録庫で依頼書を整理し、帰還報告と死亡報告を綴じる仕事をした。


受付へ移ったのは、一年ほど前のことだ。


何が起きたのかを伝えられるのは私だけだと、ハルトは言った。


けれど私が提出した報告書には、十分なことが書かれていなかった。


迷宮の構造変化。


未知の黒い霧。


転移門の消失。


救援困難。


事実だけを書いた。


ハルトが私の背中を押したことも、トーマが逃げ道を作ったことも、ミアが最後まで門を支えたことも書かなかった。


書けば、三人の死を受け入れることになると思った。


三人の名前は、受注者名簿に残っている。


それでも六年が過ぎた依頼書の結果欄には、「死亡確認、三名。遺体未回収」としか書かれていなかった。


当時の私は、三人がしたことを報告できず、慰霊碑への刻名申請も出さなかった。


少し前、このギルドでリアという治癒術師が生き返った。


彼女を救った仲間たちは、冒険者としての人生を失った。


四人はすべてを覚えたまま、それまでとは違う明日を始めた。


私はマスターなら何でもできると知っている。


死者を帰すことも。


過去を書き直すことも。


私は依頼書を持って、マスターの部屋へ入った。


「この依頼を、発行されなかったことにしてください」


◆ギルドマスター


「三人を蘇生するのではなく、依頼そのものをなくすのですか」


「はい」


エリナは、古い依頼書を机に置きました。


「三人は、私を帰すために死にました。生き返らせても、その事実は消えません」


「事実を消したいのですか」


「あの日、迷宮へ行かなければ、誰も死ななかった」


私は、新しい依頼書を一枚作りました。


依頼内容。


六年前に発行された沈黙の迷宮調査依頼を取り消し、《渡り鳥》の四人が迷宮へ入らなかった世界へ変更する。


「できますよ」


エリナは、驚きませんでした。


「対価は」


「現在のあなたです」


彼女は、黙って続きを待ちました。


「三人が生きている世界では、あなたは冒険者を辞めません。ギルドの受付嬢にもならない。この窓口で出会った人々も、ここで書いた書類も、私と過ごした時間も、あなたにとっては最初から存在しません」


「私は死ぬのですか」


「いいえ。別の人生を生きています。ただし、今ここにいるあなたは、どこにも残りません」


私は署名欄を彼女へ向けました。


「三人は、生きているのですね」


「ええ」


「私が頼んだことも知らずに」


「起きなかった出来事を、覚えている者はいません」


エリナはペンを取りました。


◆受付嬢


署名欄の上で、ペンが止まった。


三人が生きているところを想像した。


ハルトは、相変わらず人の話を最後まで聞かない。


トーマは、新しい縄の結び方を考える。


ミアは、酒を一杯飲んだだけで眠る。


私は、その隣で冒険者を続けている。


フェルン村の依頼を受け付けたことはない。


リアが息を吹き返すところも見ていない。


リナに薬草の見分け方を教えていない。


ヴァルの煮込みを、辛すぎると叱っていない。


それらを失っても、三人が生きるなら安いと思った。


それでも、署名できなかった。


「書き直した世界で、三人は、私を逃がしたことを覚えていますか」


「いいえ。その出来事は起きませんから」


「三人が私を生かすと決めたことも」


「存在しません」


私は、古い依頼書を見た。


三人は、自分たちで選んだ。


私に頼まれたからではない。


神様に決められたからでもない。


あの場所で、自分たちの時間を使って、私を帰すと決めた。


その選択まで消してよいのか、私には分からなかった。


「私は、三人のために過去を変えたいのだと思っていました」


マスターは何も言わなかった。


「でも、本当は、私が許されたいだけなのかもしれません」


過去を変えれば、三人は生きる。


それは、きっとよいことだ。


けれど、何も知らない三人の代わりに、私が彼らの最後の選択をなかったことにする。


それが正しいのかは、神様にも決められない。


「依頼を、取り下げます」


私はペンを置いた。


◆ギルドマスター


人間は、ときどき、叶えられる願いを持ち帰ります。


私には、少し不思議なことです。


死者が生きている方がよい。


悲しい過去は、起きなかった方がよい。


私にとっては、それだけのことです。


けれど、この世界の住民たちは、起きてしまったことの中にも、失いたくないものを見つけます。


エリナは古い依頼書を手に取りました。


「この記録に、三人の名前と、最後にしたことを追加できますか」


「過去は変わりませんよ」


「はい」


「三人も帰りません」


「分かっています」


「では、何のために」


エリナは答えました。


「死亡者三名ではなく、あの三人として残すためです」


それは奇跡ではありません。


記録の追記なら、ギルドの規則に従えばできます。


必要なのは、帰還者の証言と、調査記録の再審査だけでした。


私は申請書を一枚、彼女へ渡しました。


◆受付嬢


私は六年前に書けなかったことを、今度はすべて書いた。


ハルトが最後まで退路を守ったこと。


トーマが私たちをつないでいた縄を切り、私だけを門へ走らせたこと。


ミアが自分の帰還に使えた魔力を、門を保つために使ったこと。


再審査のあと、依頼記録の結果欄には、三人の名と行動が追記された。


ハルト。


トーマ。


ミア。


ギルドの慰霊碑にも、同じ名前が刻まれた。


死者は帰らない。


私が一人で帰還した事実も変わらない。


それまで「死亡確認、三名」という結果だけで記されていた三人は、それぞれの名前と、最後に自分で選んだ行動をもって記録された。


私は記録庫へ戻り、依頼書を第六記録棚へ納めた。


過去は、書類だけでは変わらない。


けれど、過去から何を現在へ残すかは、書類によって変えられることがある。


受付へ戻ると、一人の冒険者が依頼書を持って待っていた。


報酬欄だけが、空いていた。


私は椅子へ座り、ペンを取った。


「それでは、依頼の内容をお聞かせください」

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