00*2 あの空に
「――あっ、うぅ、ぐ」
目を閉じたその瞬間だった。雷に打たれたような痛みが全身を貫き、ミレアはそこで意識を取り戻した。焼けた針を腹の底から頭まで一気に通されたような痛みだった。
遅れて、ばらばらに食い違っていた脳と身体がようやく繋がり、自分がどれほど深く傷んでいるのかを、脳が一息に理解しはじめた。
――いたい、いたい、いたい――っ!
腹を押さえた指先に力が入る。悪寒が骨の内側を這い回り、身体の輪郭がほどけて、自分が自分でなくなっていくよう。振り払おうとして身を捩ったその拍子に、足元が崩れていく。
あ――、と気づいた時には遅かった。
わずかな支えもなく、何かに引きずられるように身体は反転し、真っ逆さまに宙へ投げ出された。上には灰色の空。下には大蛇のような濁流。落ちていくのは、嘘みたく簡単だ。
――どこで間違えたの?
『それはお主の身を滅ぼすだけだ。ミレア、我が友よ、深い暗闇へと転げ落ちる前に……』
――その後は、なんて言っていたのだっけ。なんで思い出せないの。なんで。
どうしてもそこだけが抜けている。思い出せないでいる。寂しげな親友の声がまた耳の奥で蘇り、ミレアは固く瞼に力を入れた。
瞼の裏に、かつて絶望の底で肩を押され、墜ちていった峡谷の赤黒い空が浮かんだ。
あの峡谷は、この世で最も醜い悪意に包まれた、誰もが忌み嫌う地だった。一度踏み入れればもう陽のあたる場所には戻れない。そう囁かれる場所へ、ミレアはかつて突き落とされたことがある。
それでも、ミレアは命を繋いで戻ってきた。呪われても、這いつくばってでも、家族を守るために戻ってきたのに。その果てがこれだ。また堕ちる。また、落ちている。
――力が足りなかった。
それでいいのか、と胸の底で誰かが問いかけた。
――いいはずがない。
なら、どうする。
――もっと、力がほしい。
一度転がり始めたものはもう止まれない。あの時と何も変わらない無力さと情けなさが、心の最も深いところへじわりと染みを広げていく。どこかで、甘い声がみじめだと笑っていた。失った家族の顔が脳裏に浮かび、ミレアは噛みしめるように息を止めた。
――ヘキ、みんな。私を許して……。
眩い光が閉じた瞼を透かして刺した。思わず瞼を震わせる。遥か彼方で雲が裂け、その奥に澄んだ青が広がっていた。あまりに眩しく、美しかった。
光の粒に浚われるように、自分の姿まで綺麗なものへ変えられて、そのまま消えてしまえたなら。
あの海のような青を飲み込めたなら、この渇きは満たされるのだろうか。
――欲しい、欲しい!
言葉が次々に胸の内を埋め尽くし、ミレアは思わず手を伸ばしていた。
――あの美しい碧落が、この手に欲しい。
青い光はいくら掴もうとしても遠ざかるばかりで、指先に触れるものはひとつもない。
落ちていくその一瞬、ミレアはせめて、この青だけは心に焼き付けようとした。忘れるものかと、握りしめるように。
――私は裏切ってない。アシャロウ、私は。
――〈虚の狐〉……絶対に許してなるものか。
――シゼリアさま、女神さま。どうか、どうか助けてください。
――私はまだ死ねない。まだ、死ねないの!
もし、この世界を創ったという女神が本当に天にいるのなら。たったひとつでいい。どうか。どうか。ミレアは生まれて初めて天に願った。
今更だと分かっていた。
そんなものに縋る自分が情けなく、惨めで、ひどく愚かに思えた。それでも願わずにはいられなかった。ミレアの一族を生んだ神様が、少しでも助けてくれるのならと願って。
その瞬間だった。
上空に、煮えたぎる血よりもなお赤い光が弾け、大きく山を覆った。森を焼く炎ではないことは一目で分かる。魔法の才に恵まれたミレアの目は、その光景の意味を即座に理解した。
「あ、ぁ」
これは、全て終わらせようとしている光。裏切者への無慈悲な制裁だ。
赤い光は空の上で円を描き、文字を結び、線を繋ぎ、巨大な術式となって山全体を覆っていく。それは終焉の光でありながら、同時にミレアがこの一生をかけて求めてやまなかった魔法の美しい光でもあった。
気づいた時には、細い金の文字が幾重もの線となって折り重なり、空一面に張り巡らされていた。
ミレアは諦めるように目を閉じた。
――そう、そうよね。シゼリア様。あなたは一度だって助けてなんかくれなかった。最後の最後であなたに縋った私が、ただ愚かだった。
そしてその身体は、飛沫を上げる濁流へ叩きつけられた。
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天暦530年。
その年いちばんの厳しい寒さに見舞われた、沙流依の月、二十五の日。水の国の北西を横断するテレジア山脈の空は、赤橙色の煙と金の光に覆われた。




