第五十話「そこにあるもの」
第五十話「そこにあるもの」
月曜日の朝。
達也はいつもの時間に出社し、鞄を机の脇へ置いた。パソコンを立ち上げ、届いているメールを確認する。週末のあいだに問い合わせがいくつか入っていて、返信の必要なものから順番に開いていった。
「井上、おはよう」
「おはようございます」
隣の席の先輩が、鞄を置きながら声をかけてきた。
「週末、またダンジョン?」
「はい。土曜日に行ってきました」
「元気だなあ。俺なんか子どもと公園行っただけで腰が痛いよ」
「腰ですか」
「ずっと屈んで手つないで歩いてるからな。あれ、地味にくるんだよ」
「それは大変そうですね」
「大変だぞ。しかも、ちょっと目を離すと、すぐしゃがみ込んで石拾ってるし」
先輩は腰をさすりながら椅子に座った。大変だと言うわりに、口元はすっかりゆるんでいる。
「そういえば、うちの子、姫宮りぼんが好きでさ」
「姫宮りぼん……さんですか」
「歌番組に出ると、画面の前から動かなくなるんだよ。ほら、あの子、歌うと周りがキラキラ光るだろ」
「ああ……光ってますね」
「ぐずってても、あれ見せるとぴたっと止まる」
「すごいですね」
「助かってるよ、ほんとに。録画したやつ、もう何回見たか分からない」
「……そういう使い方もあるんですね」
「あるんだよ」
二人で笑った。
「まあ、楽しそうだからいいんだけどな」
先輩はパソコンに向き直り、仕事の準備を始めた。
達也もメールの返信に取りかかろうとしたところで、窓際から別の同僚の声がした。
「井上、ちょっといい?」
「はい?」
「このパキラなんだけどさ。枝、伸びすぎじゃないか?」
達也が目を向けると、窓際のパキラが朝の日差しを受けて葉を広げていた。
何年か前に、総務が「殺風景だから」と置いていった鉢植えだ。それ以来、水やりは気づいた人がするものになっている。以前は元気がなく、葉を落としてばかりいた。今では枝も伸び、窓ガラスに触れそうになっている。
「……確かに、少し伸びましたね」
「これ、どうしたらいいんだろう。切っても大丈夫なのかな」
「枝を整理してあげれば大丈夫だと思います」
「井上、できる?」
「はい。剪定なら何度かやってますから」
「助かる。じゃあ、時間あるときにお願いしていい?」
「分かりました」
同僚は安心したように頷き、自分の席へ戻っていった。
達也はもう一度パキラを見た。伸びた枝の先には、新しい葉がいくつもついている。
「……元気になったなあ」
小さく呟いてから、パソコンへ向き直る。画面には、まだ返信していないメールが並んでいた。
今日も忙しくなりそうだった。
ーーー
金曜日の仕事帰り。達也は駅前の百円ショップへ立ち寄った。文房具売り場へ向かい、いつもの棚からノートを一冊手に取る。五年前から使っているものと、同じ種類のノートだ。
「……これでいいかな」
ノートをかごに入れ、替えのボールペンも二本選ぶ。それだけ買ってレジへ向かい、会計を済ませて店を出た。
駅前の大型ディスプレイでは、探索者向けの新商品の広告が流れていた。
『姫宮りぼんプロデュース! 新作探索ウェア、発売!』
月曜日に先輩から聞いたばかりの名前に、達也は足を止めた。画面いっぱいに、明るい笑顔のりぼんが映っている。
『可愛くて、動きやすい! 新しい探索服ができました!』
画面が切り替わり、男女のモデルが探索服を着て並んだ。
女性用は、腰回りにフリルをあしらった可愛らしいデザインだった。動きに合わせて軽やかに揺れるフリルの下には、丈夫そうな生地が使われている。膝や肘には補強が入り、ポケットも使いやすい位置についていた。腰の後ろには大きめのリボンがあしらわれているが、生地にしっかり縫い付けられていて、走っても大きく揺れることはない。
『リボンは縫い付けてあるので、ほどけません! ひらひらもしません!』
男性用は落ち着いた色合いのシンプルな形で、こちらも動きやすさを考えた作りになっている。
「……ああ」
達也は思わず声を漏らした。以前、JDAでりぼんが探索服を作りたいと話していたことを思い出す。あのときは、まだ詳しい人に教えてもらいながら考えているところだと言っていた。
「本当に作ったんだ」
画面の中では、モデルたちが歩いたりしゃがんだりして、服の動きやすさを紹介している。達也は嬉しくなって、しばらくその様子を眺めていた。
『そして、男性用もあります!』
りぼんの声とともに、男性モデルの胸元が大きく映し出された。そこには、小さなマークがついていた。
▷◁
『男性用のリボンは、こちらです!』
「……やっぱりリボンなんだ」
達也は思わず笑ってしまった。あれだけ可愛さにこだわっていたのだから、リボンを外すはずがない。画面の中では、りぼんが満足そうに胸を張っていた。
『動きやすさも、安全性も、可愛さも! 全部こだわりました!』
通りには、探索者らしい服装の若者もいれば、買い物袋を提げた会社員や制服姿の学生もいる。達也もその人の流れに混じって、家へ向かった。
ーーー
日曜日。ダンジョンの入口付近は、朝から多くの探索者で賑わっていた。達也が到着すると、すでに健吾と杉本が待っていた。
「お、たっちゃん」
「おはよう、ケンちゃん、翔太さん」
「おはようございます、井上さん」
杉本は端末を確認し、二人に画面を見せた。
「第五階層、今日は通行規制なしですね」
「よし。じゃあ予定どおりだな」
「うん。前に見つけた草、どうなってるか見ておきたくて」
「あの割れた岩のところのですよね」
「そう」
「じゃ、行くか」
三人は受付へ向かった。
施設の中は、朝からにぎやかだった。正面には大きな案内表示が掲げられている。探索証の確認、採取物の提出、販売所。奥の救護室へ向かう矢印もあった。入口の脇には、「二十四時間受付」と書かれた札が下がっている。
探索証の確認窓口には短い列ができていたが、流れは早い。
「次の方、どうぞ」
「お願いします」
「はい、確認しました。お気をつけて」
その向かいの採取物の窓口では、土のついた採取袋を抱えた二人組の探索者が、袋を差し出していた。
「お願いします」
「お疲れさまでした。お預かりいたします」
片方が、大きなあくびをかみ殺す。
「……眠い」
「お前が夜中に入るって言ったんだろぉ」
言い返した方も、つられて大きなあくびをした。
これから潜る探索者と、ひと晩潜って戻ってきた探索者が、同じ受付ですれ違っていく。
入口近くの「初めての方はこちら」と書かれた札の前では、若い探索者が職員から説明を受けていた。真新しい探索服の胸元に、小さなマークがついている。
▷◁
「……もう着てる人がいる」
達也が小さく呟くと、健吾が振り返った。
「何が?」
「ううん、なんでもない」
三人は探索証の確認を済ませ、販売所の前を通った。棚には水や保存食、回復薬のほか、採取用の袋や簡単な道具も並んでいる。
「回復薬、一つください」
「はい、300円です」
若い探索者が代金を支払い、手のひらに収まるほどのプラスチック容器を受け取った。そのまま鞄の外ポケットへ差し込む。コンビニで飲み物でも買うような手つきだった。
容器のラベルには、東洋メディカルの社名が小さく印刷されていた。達也は少しだけ、その容器を目で追った。
隣では、別の探索者が採取袋を手に取っていた。
「この採取袋、前は売ってなかったよな」
「最近置くようになったらしいよ」
「じゃ、一個買っとくか」
三人は販売所を離れ、入口へ向かった。黒い壁の前では、何組もの探索者が順番を待っていた。順番が来ると、健吾が短く振り返った。
「行くぞ」
「うん」
「はい」
三人は黒い壁をくぐった。
ーーー
第五階層。灰色と赤茶の岩が折り重なる、見慣れた岩場が広がっていた。先頭に健吾、真ん中に達也、後ろに杉本。三人は周囲を警戒しながら、岩の間を進んでいく。
『今日も第五階層か』
『三人組だ』
『前回すごかったからな』
『今日は平和だといいな』
『トマトさん、今日も草探し?』
『第五階層まで草を見に行く男』
『平常運転すぎる』
健吾が前を向いたまま言った。
「たっちゃん、足元気をつけろよ」
「うん」
達也は岩の隙間を確かめながら歩いた。以前通った場所には、まだ戦闘の跡が残っている。大きく欠けた岩に、焦げた地面。その脇を、細い草が伸びていた。
「あ」
「どうした?」
「前はここ、焦げてたんだけど」
達也がしゃがみ込む。黒くなった土の端から、小さな芽が顔を出していた。
「……生えてきてる」
「草か?」
「うん」
達也は指先で土に触れた。浅い土の下には硬い岩盤がある。それでも、細い根が岩の隙間へと伸びていた。
「よくこんなところに生えますね」
杉本が感心したように呟いた。
「植物って、結構強いですから」
達也はノートを取り出し、場所と状態を書き込んだ。
「……また増えたな」
健吾が呟く。
「何が?」
「ノートの中身」
「まだ空いてるよ」
「そういう意味じゃない」
杉本が笑った。
さらに奥へ進むと、岩が大きく割れている場所が見えてきた。健吾が先に回り込み、割れ目の向こうを確かめる。
「……大丈夫だ」
達也は割れ目の少し手前で足を止めた。岩の根元に、細長い葉の草が数株、身を寄せ合うように生えている。
「あった」
前に来たときは、二株しかなかったはずだ。達也はノートをめくり、前回のページと見比べた。株の間からは、若い葉が何本も伸びていた。
「新しい葉っぱ、いっぱい出てますね」
杉本が、後ろから覗き込んで言った。
達也はそっと葉に触れた。乾いた岩場に生えているのに、根のあたりから落ち着いた感覚が伝わってくる。足りないものはない、というような感覚だった。
「どうだ?」
「元気そう。株も増えてる」
「増えたのか」
「うん。でも、どうして増えたのかはまだ分からない」
達也は新しいページを開き、いつもの書き方で記録をつけた。
【岩場の細長い葉】
第五階層、岩の割れ目の手前。
前回は二株。今回は株数が増えている。
葉の長さは前回とほぼ同じ。
株の間から、新しい葉が複数出ている。
触れた感覚では、水の不足はなさそう。
株が増えた理由は不明。
要検証。
『確認できてよかった』
『増えてるのいいね』
『ワンコも覗き込んでる』
「よし、少し先で休憩するか」
「うん」
ーーー
しばらく進んだところで、三人は休憩を取ることにした。岩陰に腰を下ろし、それぞれ昼食を取り出す。
「今日は静かですね」
杉本が水筒の蓋を開けた。
「そうだな。まあ、静かな方がいい」
健吾は周囲を確認してから、弁当を開いた。
達也も鞄から昼食を取り出す。そのとき、少し離れた岩の隙間に、小さな草が生えているのが見えた。
「……あ」
健吾が顔を上げた。
「なんだ?」
「あそこにも草が」
「飯食ってからにしろよ」
「うん」
達也は頷き、弁当の蓋を開けた。
けれど、やっぱり気になる。さっきの草とは、葉の形が少し違うように見えた。
「……ちょっとだけ」
「たっちゃん」
「見るだけ」
「飯!」
杉本が吹き出した。
『草に負ける昼飯』
『面の人、今日も大変』
『五年経っても変わらないwww』
『トマトさん、先に食べて』
『草は逃げないから!』
達也は笑いながら、弁当へ視線を戻した。
「食べるよ」
「さっきも聞いた!」
健吾が呆れたように言う。杉本はまだ笑っていた。達也もつられて笑い、箸を手に取った。
岩場には、風が吹いていた。
遠くで、何かが小さく動く音がする。健吾が顔を上げ、周囲を確かめた。異常はなさそうだった。
達也は弁当を食べながら、もう一度だけ岩の隙間を見た。
そこには、小さな草が生えていた。
ただ、それだけのことだった。
達也が箸を置いて、立ち上がろうとした。
「トマトさん、まさか抜かないですよね」
「抜かないよ。……触るだけ」
「飯!」
『抜かないのは知ってる』
『触るのも食べてからにして』
『そこじゃない』
達也はおとなしく座り直し、残りの弁当を急いで口へ運んだ。
配信画面の中で、トマト頭のヘタは、ずっと岩の隙間の方へ傾いていた。
黎明期 完
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
『ダンジョンが発生したので草を採っていたら、トマトの人と呼ばれました』は、この第五十話で「黎明期」の完結となります。
ダンジョンが現れたばかりの世界で、達也たちは手探りで歩き始めました。
何が危ないのかも、何が役に立つのかも分からない中で、一つずつ確かめ、書き留め、誰かに渡していく。
この五十話は、そんな積み重ねの物語だったように思います。
最終話では、大きな事件は起こしませんでした。
回復薬が普通に売られていて、夜中にも探索者が出入りしていて、駅前には探索服の広告が流れている。
五年前には何もなかった場所に、今はそういう日常があります。
そして達也は、相変わらず百円ショップのノートを持って、草の前でしゃがみ込んでいます。
世界は少しずつ変わり、達也にもできることが増えました。
それでも、草を見つけるとしゃがみ込んでしまうところは、五年前のままです。
それが、黎明期の終わりとして一番ふさわしい形だと思っています。
ヘタの動きに一喜一憂してくださった方、
「草は逃げないから!」と一緒に達也を止めてくださった方、
健吾の苦労をねぎらってくださった方。
感想、ブックマーク、評価、本当に励みになりました。
物語は、ここで終わりではありません。
次の章では、少し時間が進んだ世界を描く予定です。
あの草が、あのノートが、その先でどうなっていくのか。
また見届けていただけたら嬉しいです。
改めて、ここまでありがとうございました。
達也のノートは、まだ空いています。




