第二十四話 帰り道の微妙な距離と、街に戻ってからの決意
馬車が森の道を下り始めると、紅葉の匂いが少しずつ薄れていった。
俺は荷台の隅で膝を抱え、ぼんやりと外を眺めていた。
胸の奥に残る重い落胆が、まだ晴れない。
巫女様に会えなかった。
ようやく辿り着いたのに、衛士の言葉が頭の中で繰り返される。
ラセリアが手綱を握りながら、後ろを振り返った。
「落ち込むなよ。若いの。
初めての遠征なんて、こんなこともあるさ」
俺は小さく頷いたが、言葉が出てこない。
そのとき、リリーシャが隣に寄りってきた。
銀髪が風に少し乱れ、いつもの冷たい視線が俺に向けられる。
……少し、いつもより柔らかい気がした。
「……巫女様に会うことがそんなに大事なの?」
声は尖っているのに、どこか探るような響きがあった。
俺は正直に答えた。
「大事だよ。
世界の均衡に関わることだって、神様たちから言われた。
それに……ただ、会って話してみたいんだ」
リリーシャは少し黙ってから、銀髪を指でくるくる巻き始めた。
「ふん……世界の均衡ね。
あんたみたいな奴隷上がりの見習い坊主が、
そんな大それたことに首を突っ込むなんて……
馬鹿みたい」
言葉はきついのに、視線は俺の顔をじっと見ている。
俺は苦笑いした。
「馬鹿かもしれないな。でも、行かなきゃいけないんだ」
すると、リリーシャの指の動きが止まった。
彼女は少し声を落として、ほとんど聞こえないくらいの声で呟いた。
「……無理して死なないでよね。
パーティの足手まといが増えるだけなんだから」
その言葉に、俺の胸が少し温かくなった。
ツンツンした態度の裏に、わずかな心配が混じっているのがわかった気がした。
そこへ、突然——
「ひっ……!」
小さな、か細い悲鳴が聞こえた。
全員の視線がヤミカに向いた。
黒い覆面の女忍者は、馬車の端で身を硬くし、右手をわずかに震わせていた。
彼女の視線の先には、一匹の鮮やかな赤い蝶が、ゆらゆらと飛んで近づいてきていた。
ヤミカは無言で身を引こうとしたが、馬車の揺れでバランスを崩し、
覆面の下からもう一度、小さな声が漏れた。
「……ひっ」
ミランダがくすくすと笑い出した。
「あらあら、ヤミカちゃん。
そういえば虫が苦手だったっけ?」
ドルガンが低く笑う。
「忍者なのに……珍しいよな」
忍術には虫を利用する「虫遁の術」というものもあるはず。
虫が苦手じゃ、その術は使えないってこと?
ヤミカは即座に覆面を直し、いつもの無言モードに戻った。
しかし、耳の先がわずかに赤くなっているのが見えた。
初めて聞いた彼女の声が、虫を恐れての悲鳴だったなんて……なんだか可笑しくて、
俺も思わず小さく笑ってしまった。
リリーシャが横目で俺を見て、ふっと息を吐いた。
「……あんたまで笑ってる場合じゃないでしょ。
自分のこと、しっかり考えなさいよ」
その言葉には、いつもの棘と一緒に、ほんの少しの優しさが混じっていた。
俺は彼女の横顔をちらりと見ながら、胸の奥が少し軽くなったのを感じた。
街に帰り着いたのは、夕暮れ時だった。
宿屋の部屋で一人になった俺は、ベッドに座り、深く息を吐いた。
巫女様に会えなかった悔しさ。
準備の甘さ。
それでも、諦める気は全くない。
「……次は、ちゃんと計画を立てよう」
俺は巻物を広げ、プンダリカ《法華》経の抄本を眺めながら考えた。
開いたのは提婆達多品の後半部……深達偈だ。
布施の功徳により、困難とされてきた女人成仏が実現する。
しかも竜女という半獣人が、だ。
与えること。そして、与えてもらうこと。
そういった人と人との関係が、状況を、それに環境さえも
変える原動力になる……という意味だと思う。
そうだ、今の俺に必要なことは、状況を変えること。
もう一度、秋の森へ向かうための準備。
そして、巫女様に確実に伝えたいこと。
その夜、リリーシャが部屋の前を通りかかったとき、
少しだけ足を止め、俺の部屋の扉をじっと見つめていたらしい。
俺はそれに気づかず、ただ静かに決意を固めていた。
街の市場では、遠くから甘いチーズの香りが漂ってくる。
その香りにもあの優しい牛飼い娘の姿も心に浮かぶ。
けれど俺は頭を振って空を見上げ、小さく呟いた。
「……もう少し、待っていてください。巫女様」
(第二十四話・了)




