海街と女子高生
陽が傾いてきた頃、潮風の向こうから、鈴の音みたいな笑い声が聞こえた。
カーブの先、古びたコンクリートのベンチに、制服姿の女子高生たちが三人。
猫背でしゃがみこむ子。ペットボトルを両手で抱えている子。空を見上げて足をぱたぱたさせている子。
まるで町の一部みたいに、何気なくそこにいた。
「観光の人?」
声をかけられて、ハンドルを握る手に軽く力が入った。
「うん、そんなとこ。自転車でちょっとぶらぶらと」
「えー、うちの町に? すごい地味じゃない?」
笑いながら立ち上がったのは、ショートカットで人懐っこい顔の子だった。
肩に下げたカバンからスナック菓子を取り出すと、友達のひとりに押し付けるように渡しながら、こちらへと歩いてきた。
「最近、旅行の人ほんと見ないからさ。なんかうれしい」
「へえ、そんなに珍しい?」
「珍しいよ〜! 駅前なんかもうほとんどシャッター通りだし。港のあたりしか人いないしね」
その後ろで、少し背の高い子が笑った。
「でもさ、港の坂とかすごくない? チャリで来るのって相当根性あるよ」
「変わってるよね、このお姉さん」
そう言われて、つい笑ってしまった。
「自覚はあるよ。旅慣れてるから、坂も景色もむしろ楽しいくらい」
「へえ〜! なんかカッコいい」
その子たちの話し方には、妙な裏がなくて気持ちが良かった。
夕焼けに染まった空の下、風がすっと頬を撫でる。
遠くで鳶が鳴いた。
「でもさ……もし、あっちの山の方まで行くつもりだったら」
ふと、さっきまで黙っていた三人目の子が、小さな声で言った。
「……祠の道、通るのだけはやめといた方がいいよ」
彼女の言葉に、二人の子も少しだけ黙った。
「祠?」
「うん。海からちょっと山に入ると、古い祠があるの。観覧車くらい大きいって言う人もいるくらい……ま、見た人いないんだけど」
「うちのばあちゃんが言ってた。“あそこは神さまじゃないものがいる”って」
「別に怖いわけじゃないけど、地元の人は近づかない。今も昔もずっとそういうとこ」
淡々とした口調だった。
でも、それが変に真実味を帯びていた。
「観光って言っても、見るもんないけどさ……そっちはやめといた方がいいって、マジで」
気まずい空気を割るように、またショートの子が笑った。
「てことで! うちらのお気に入りは駅前のたい焼き屋と、港のアイスね!こっちのが絶対楽しいから!」
「アイスはわたしが先に見つけたからね?」
「でも一口食べたのあんただし!」
三人はじゃれ合いながら歩き出し、わたしの横をすり抜けていった。
「気をつけてね〜旅人さーん!」
振り返って手を振ってくれる声に、わたしも思わず軽く手を上げた。
やさしくて、ちょっと不思議な女の子たち。
けれど、確かに胸の奥に残ったのは、ひとこと。
“あそこは神さまじゃないものがいる”――
その言葉だけが、ずっと耳に残っていた。
日が西に傾いて、海が金色に染まりはじめた。
空気はまだあたたかくて、潮の匂いに混じって、どこかで焚き火の煙が漂ってきているような気がした。
小さな神社の脇に立てかけた自転車のハンドルに手をかけながら、わたしはさっきの会話を思い返していた。
「祠の道、通るのだけはやめといた方がいいよ」
あの子の、静かで少しだけ真剣な声。
冗談ではなく、注意でもなく、まるで“忠告”のような響きだった。
「……獣が出る、か」
わたしはそっとつぶやいた。
地方に行けば、そういう話はわりとよく聞く。
イノシシ、クマ、野犬。地元の人が“あそこは入っちゃいけない”と言うのは、たいてい危険だからだ。
でも――
あの子たちの顔を思い出す。
笑っていたけど、どこかに「知ってる」人の表情があった。
あの山で、何かを見たことがある目だった。
「……そんなこと、あるわけないか」
わたしは自分に言い聞かせるように、チェーンをはずしてサドルにまたがる。
地図もスマホも使わずに走るのが、わたしの旅のスタイルだった。
踏切の方を見れば、森の奥へ続く細い道がある。
うっすらと影がのびて、風が草を揺らしていた。
その先にあるという祠。
見に行こうと思えば、行ける。
けれど、どういうわけか――今日はやめておこう、と思った。
わたしはハンドルをそっと反対に切った。
それが、「自分で選んだ」と思い込める最後の瞬間だった。
暮れなずむ空の下、人のざわめきがあった。
笑い声。話し声。湿った草を踏む足音。
どこかで油のはぜるような音がして、焦げた匂いが風に乗って流れてくる。
気がつけば、山道を登っていた。
舗装のない土の道。木々の間から見える茜色の空。
自転車はとっくに置いてきた。足取りは重いはずなのに、なぜか体はふわふわしていた。
そして、そこには人がいた。
ぽつぽつと立ち尽くしている人たち。
誰もが前を向いていて、ほとんど動かない。
なのに、口元だけが笑っている。
仮面のような顔。
目は細く、唇だけがにやにやと、静かに吊り上がっている。
何かがおかしい。
でも、すぐには気づけなかった。
この空気の濁りに、わたしの感覚はまだ追いついていなかった。
「――迷った?」
背後からかかった声が、耳に直接落ちてきた。
音というより、温度だった。息のかかるような、柔らかくて、湿った熱。
振り返った瞬間、言葉が喉で止まった。
そこに立っていたのは、とても綺麗な人だった。
まっすぐ伸びた黒髪。真珠のような白い肌。
すらりとした手足。繊細な輪郭。
光を集めているような瞳に、花のように微笑む唇。
それは「美しい」とか「整っている」とか、そんな次元じゃなかった。
目が離せない。
一瞬で心が奪われて、吸い寄せられそうになる。
だけど――
何かが決定的におかしい。
完璧すぎる。
まるで、つくりものみたいに。
肌の質感に揺らぎがない。
まばたきのタイミングが異常に整っている。
風が吹いても、髪が一筋も乱れない。
(人間、じゃない)
頭の奥で、警鐘が鳴っていた。
だけど、身体が動かない。
「……少し、道がわからなくなって」
ようやく出た言葉が、ひどく軽く聞こえた。
「そう。よかった。出会えて」
女の人はふわりと笑った。
その笑顔が、妙に静かで怖かった。
「こっちに、いい場所があるの。ご案内するわ」
断らなきゃ、と思った。
でも足元がふらついて、気がつけば手を握られていた。
ひんやりとしていて、でもなぜか深く入り込んでくる温度。
五本の指が、わたしの手の骨まで包み込むようだった。
「……あの、みなさんは?」
周囲を見渡す。
あの人たちは、変わらず笑っていた。
ぴくりとも動かず、口元だけが上がっている。