九話
帰宅すると、すぐに翠に電話をかけた。
やがて微かな声で、「……もしもし」と聞こえた。
「五野だけど、今話せるか?」
「うん、いいけど」
「電話したのは、放課後のことで話をしたいからなんだ」
反応がない。
電話は顔が見えないため、会っているときよりも話しづらい。
「黒凍? 聞いてるか?」
「…………忘れたの」
と、翠は一言そう言った。
「忘れた? 放課後のことだぞ。ついさっきじゃないか」
「違うの、そのことじゃなくて……」
「じゃあ何を忘れたんだよ、箸の持ち方とか言わないよな。いやごめん、今の無し」
黒凍は男が苦手なんだ。
もっと配慮しないといけない。
灰半にそう言ったじゃないか。
「何を忘れたか教えてもらっていいか?」
「英語の課題。教室の机に忘れたの。課題があったのも、今の今まで忘れてた」
声色には悲愴感が漂っている。
「それってそんなに大変なことか? 何とでもなりそうだが」
「大変だよ。授業の課題やって来ない子が、ミスコンで勝てるわけないもん」
結ノ介は授業の課題を忘れることよりも、そのせいで翠が自信を失くしてしまう方が良くないと思う。
「明日の朝早く行ってできないのか?」
「時間が足りないと思う。私、頭が勉強向きにできてないし………」
俺が代わりにやろうか? と言っても意味はないだろう。
そのことは結局、翠の自信の喪失に繋がってしまう。
通話が終わってしまったのかと思うほどの、深い沈黙が横たわる。
「分かった。じゃあ俺が学校行って取って来る。確か七組だったよな。机の場所さえ教えてくれたら大丈夫だ。課題ってプリントかなんかだろ。机の中に入ってるんだよな」
「ちょっと待って、そんなの悪いよ」
「だって黒凍一人がこんな時間に出歩いたら家の人心配するだろ。放課後のことのお詫びだと思ってくれればいい」
「そんな、放課後のことは私が、」
「それじゃあ、一緒に行くか? それならいいだろ」
翠はしばらく黙りこみ、「……うん」と言った。
納得したようだ。
「俺は黒凍に謝らなくちゃいけないことがある。後で話聞いてもらえるか」
「うん」
「よし、今から迎えに行くから。って言っても黒凍の家知らないから、あのカフェから帰り道の岐路で待ち合わせでいいか。あ、分かってると思うけど私服で来いよ。この時間に制服で出歩いたら目立つから。到着するちょっと前に、ラインするよ」
翠の返事を聞き、結ノ介は電話を切って、制服から適当な服に着替え始めた。
ベランダのガラス戸が叩かれる。
開けてやると、麗が軽やかに入ってきた。
「今日は一段と遅かったね」
「月が隠れてるからな」
麗は含み笑いをし、
「帰宅して早々外出の準備をしているようだけど、どこかに出掛けるの?」
結ノ介は財布やスマホなど、必要最低限のものだけポケットにしまいながら、
「学校に行く用事ができた」
「無論、授業を受けに行くのではないよね。何しに行くのか聞いてもいいかい?」
「つまんねぇことだよ」
「実は僕も学校へ行く用事があるんだけど、もし向こうで会ったら、よろしくね」
結ノ介は翠のことを考えるが、麗がどう行動しようが、彼女の勝手だ。
「都合が悪ければ遠慮なく言ってよ。君の邪魔をするのは、僕の本意ではないからね」
「邪魔も何も、都合が悪いことなんてないよ」
ましてや、やましいこともない。
翠と二人で夜の学校に行ったって、それは別になんでもないことだ。
「それならいいんだけどね」
と言う麗をベランダに出し、「それじゃ」と言って鍵を閉め、スニーカーに足を押し込んだ。
翠と落ち合って、学校に向かう。
翠は言い付け通り、夜道で目立たないような地味で野暮ったい服装でやって来た。
学校に着くと、二人は警備員室に向かう。
正門とは別に教職員や来客の車が出入りする門があり、警備員室はその傍にある。
中年の男性がいるのだが、気の良さそうなで、結ノ介が忘れ物を取りに教室に行きたいと言う旨を話すと、簡単に通してくれた。
下駄箱へ回り、校内へ入る。
夜の学校に、それも私服で入っていくのは奇妙な気分だ。
校舎内には静寂が居座り、二人の足音だけが、長い廊下に響く。
心なしか、翠の距離が近い。
これまでは常に一メートル以上離れていたのに、今はまるで寄り添うように結ノ介の斜め後ろにくっ付いている。
ただそれを悟られたくないのか、接近しては少し距離を取り、またすぅっと近づいてくることを繰り返している。
「暗い所、あんまり得意じゃないのか?」
結ノ介が聞くと翠は答えず、俯いてしまう。
悟られたくないのだとしたら、聞き方が悪かったなと反省する。
覗き込むようにして様子を窺うと、
「……暗い所が得意な人っているの?」
「別に責めてるわけじゃなくてだな。苦手なら遠慮せずに、もう少し傍にいてもいいから」
言っているうちに恥ずかしくなり、結ノ介は翠から顔を逸らした。
翠は逡巡していたが、
「じゃあ、そうする」
と言って、幼児が母親の後を歩くように、ぴったりとくっ付いた。
気恥ずかしい雰囲気が流れる。
周囲が静かなことが辛い。
息遣いさえ聞こえる距離だ。
話の接ぎ穂が見つからず、二人とも黙り込んでしまう。
こうなると、さっさと目的を果たしてしまうことを考えるしかない。
翠の教室は、校舎二階にある。
木製の机が、整然と並んでいる。
黒板は綺麗に掃除されていて、右端に「日直」という文字、さらにその下には二名の生徒の名前が書かれている。
それらの様子も、丸い掛け時計の位置も教壇の高さも、結ノ介の教室と変わらない。
翠は自席に向かった。
窓際の後方、結ノ介の席と似た位置だ。
翠は机の中を覗きこみ、手でごそごそと探り始める。
結ノ介は教室の前方へ歩き、
「あったか? 暗くてよく分からないなら、電気点けるけど」
校内に入る許可を取っているのだから問題ない。
「いい、大丈夫。携帯の灯りで何とかなると思う」
翠はスマホのディスプレイのわずかな光源を頼りにし、やがて一枚のプリントを引っ張り出すことに成功した。
「あった!」
と歓声を上げる。
「よし、出るか」
結ノ介が教室を出ようとすると、翠は立ち止まっていた。
「どうした?」
「教室って、こんなに広かったのね」
教室全体を初めて見る風景のように、ゆっくりと首を動かしながら眺めている。
夜の学校は、ひっそりと朝になるのを待っている。
画一的な部屋が十クラス分あり、それが三学年分ある。
結ノ介もその喧騒の一部だ。
翠の瞳には、昼の教室はどう見えているのだろう。
彼女の席から見える風景は、どんなものなんだろうか。
人はそれぞれ見えているものの色彩や形が微妙に異なっていて、それでもお互いが認識を共有できるのは、最大公約数で世界を確認しているからだという話を思い出した。
もしも自分だけがそこから外れてしまったら、その感性や感覚がずれてしまっていたら、世界はまったく別の様相を呈するだろう。
何故協力してくれるのかと翠に問われたとき、結ノ介が言った言葉。
――お前には分からないかも知れないけど。
それは最低、最悪、最も言ってはいけない言葉だった。
「さっきの電話の続きなんだけど。あのな、今日のこと、黒凍が悪いわけじゃないから。黒凍は私が悪いって思ってるかも知れないけど、そうじゃないんだよ。あれは俺が悪かったんだ。だから、ごめん」
翠は顔を下に向け、何も言わない。
その口唇が開きかけては閉じられる。
言葉を探しているようだった。
一度は自分が悪いと思ったが、やはり怒りが湧き上がってきたのか。
結ノ介は、それは仕方がない、いや当然のことのような気がしてくる。
「謝っても、もう許してもらえないかも知れないけど、何で私に協力するのって聞かれたとき、黒凍に言ったことは違うんだ。あれは俺の失言だった。本当は別の理由がある。俺が黒凍を手伝ってるのは、俺なりの打算があってだな、その打算っていうのはあんまり人に聞かせるような話じゃないし、そもそも損得で協力してること自体に罪悪感みたいなのがあって……そういうのが原因で言いづらかったんだよ。でも、そんなの全部俺のせいなのに、それを黒凍のせいみたいにしちまって、本当にごめん」
「違うの。怒ってるから黙ってるわけじゃないの」
翠はどう話そうか考えを巡らせ、訥々と話し始めた。
「そのことで謝るのは私の方。私やっぱりよく分からないから。その……他の人たちの間で決まっていることっていうか、考えてることとか行動でそうするのが普通ってことがあるんでしょ? そういうのが分からないの。私がそれと違うってことは分かるけど、どう違うのかちゃんとは分からない。だからそれに合わせることができない。他の人たちが普通にできていることが、私にはできない。この教室で笑い合う皆には、そういうのが分かるのが普通なんでしょ。できて当たり前なんでしょ。私が教室の中で普通にしているのは難しい。私にできるのは、なるべく目立たないようにすることだけ。今まではそれで良かった。でもこれからはそれじゃダメ。それじゃミスコンで優勝できないから」
他人との距離の取り方、ここまでは大丈夫で、ここからはダメ、みたいな境界線、そういうのは翠じゃなくたって正確には分からない。
とても高度なことで、諦めてしまうことは簡単だ。
一人でいればいい、ただそれだけだ。
「ちょっと待て。黒凍はもしかして、全部自分が悪いと思ってるのか? 放課後のことは本当に俺が間違ってる。そんな何もかも自分が悪いみたいに考えるのはやめた方がいい」
翠は声を荒げ、
「考えるよ。だって事実だもん。あなたたちにできて、私にはできないんだから、私が劣ってるってことよ」
「劣ってるとか優れてるとかじゃないだろ。説教っぽくて嫌だけど、何で他人と違うことが悪いことになるんだよ。できるできないなんて、人それぞれいくらでもあるだろ」
「あなたはできるから、そう言えるのよ。できる人にできない人の気持ちが分かるわけない。無神経よ。私のこと何も分からないでしょ。だいたい、私が悪いって言ってるんだからそれでいいじゃない。私は自分のことが一番わからない。何が食べたいとか、熱い寒いとかがわからないっていう意味じゃなくて、私の考えが正しいのか正しくないのか、私が当たり前だと思ってることでも、本当はそうじゃないこともあるんじゃないかって。私は自分が正しいと思うことが本当に正しいことだと思ってしまう。もしも私が当たり前とか正しいって思っていることが間違いだとしても、私はそれに気づけないよね。自分で気づかないうちに、間違った方へ行ってしまっているかも知れないのに。私はそれがすごく怖いよ。私は自分が全部正しいとは思えないよ」
「じゃあ、なおさら人付き合いが大事だろ。自分で自分の間違いが分からないなら、自分のことを分かってくれる人に指摘してもらえばいい。そうやってあなたには分からない、私には分からないって言ってたって仕方ないだろ。前に進まないだろ。私が悪い私が悪いって呪文みたいに、ホントに呪いだよ、それ。自棄になるな」
「私が『自分が悪い』って言うことと、あなたが『俺が悪い』って言うことと、何が違うの? 同じじゃない」
「そうだな。だったら、こうしよう。意見が食い違ったら、ちゃんと二人で考えよう。お互いが納得できるように、ちゃんと。だから自分の考えてることとか感じてることが他と違ったって、それはそのときに話し合えばいいだけだ」
「それは求めてもいいことなの?」
「少なくとも、俺はそうしたい」
「……うん。わかった」