十三話
翌日、結ノ介と翠と麗は、三人で昼食を摂っていた。
学食には中庭に隣接するテラスがあり、相当数のテーブルと椅子がある。
三人はそこの一角を陣取った。
今朝、弁当箱を取りに来た麗に昼食のことを話すと、麗は「いいよ」と快諾してくれた。
翠との仲直りのことは、登校してすぐ、夜子にお礼を言った。
「良かった、二人なら大丈夫だと思ってたよ」
と夜子は喜んだ。
昼食の間、翠はずっとうつらうつらとしている。
おそらく、遅くまで宿題に取り組んでいたためらしい。
提出は一応間に合ったようだ。
「昨日は夜遅くに外出して、家の人とか大丈夫だったか?」
結ノ介の質問に、翠は「うん、大丈夫」と答えた。
翠の前には、購買の買い物袋が置いてある。
パンばかりで、しかも競争に負けたのか、どれも不人気のパンだ。
「いつもパンなのか」
翠はまぶたを擦りながら、
「うん、だいたい」
深夜の外出の件も、弁当のことも、少し気になったが、家庭の事情に口出ししない方がいいとも思う。
舟を漕ぐ翠は、持っているパンを落としそうになっている。
「おい、落ちそうになってるぞ」
「……うん。おい、落ちそうになってるぞ」
「なんで俺が言ったことを繰り返したんだよ」
麗は結ノ介から渡された弁当をつつきながら、
「このお弁当が、僕が用意したものなら、おかずをいくらか献上したいところなんだけど」
小首を傾げる翠に、結ノ介が説明する。
「弁当俺が作ってるんだよ。放っておいたら麗、甘い菓子パンばっかり食べるから。それじゃ体に悪いだろ。一人分も二人分も弁当作る手間なんて、そんなに変わらないし」
「自分でお弁当作ってるの?」
「一人暮らしだからな。俺も麗も県外から進学してきたんだ。出会ったのは引っ越してきてからだけど。部屋も隣同士だから、何かと助け合ってるって感じだ」
翠は麗の弁当を見る。
「友達はそんなことするの?」
麗は少しだけ考える素振りを見せて、
「普通はしないんじゃないかな。これは結ノ介だからだよ。彼が友達にお弁当を作ることを厭わない人物だからなんだよ。結ノ介は僕にとって極めて良い友人だ」
麗が結ノ介ににっこりと微笑むと、結ノ介は気恥ずかしくなり、
「弁当目当てで俺と仲良くしてるのかと、邪推してしまうんだが?」
「あれ、とうとうばれてしまったか。最近は君の顔が、お弁当に見えるからね」
「お前にとっての俺の価値は、弁当だけかよ」
結ノ介は麗の弁当から、おかずを一品取り上げた。
「嘘、嘘。嘘だよ。実際には、僕は結ノ介に餌付けをされているんだ」
「あれ、一瞬で俺が悪者になったな」
「ペットと主人のような関係性だよ」
「何なら首輪でも付けてやろうか」
「嫌いじゃないよ?」
「お前、やべーやつだな」
麗は鈴の音のように、ころころと笑う。
「相変わらず君の料理はおいしいね。食というものは人生を豊かにするのだろうけど、僕の価値観では、多くの時間や労力やお金を捧げてまで求めるものじゃない。あくまで僕の価値観だけどね。食事に関して言えば、毎日毎食同じでもいいくらいだ。だからと言って勘違いをしないでほしいんだけど、お弁当なんて別に、という意味ではないよ。迂遠な言い回しになってしまったけど、僕が言いたいことは、僕のためにわざわざお弁当を作ってくれる結ノ介という人間がいてくれることが、何より幸福だということなんだよ」
「いちいち大袈裟なんだよ」
「君への感謝は無限ということだ。それに尽きる」
「あーそうかい、それはどうも」
結ノ介が、取り上げたおかずを麗の弁当箱に返すと、
「君は僕にとって理想的な隣人と言える。騒がしくなく、料理ができて、聞き上手だ。理想的すぎて困惑してしまうくらいだよ」
「褒めてもおかずが増えることはないぞ」
「そんなつもりはないよ」
麗は翠に向かって、
「いつもお返しをと思っているんだけど、結ノ介に断れているんだ。本当に心苦しい限りだよ。僕はこの体さえ差し出す覚悟だと言うのに」
結ノ介はすかさず、
「だったら余計いらん」
「ひどくないかい?」
「ひどくない」
冗談でも、麗に言われるとドキドキする。
変わり者で通っているが、結ノ介は麗の性格が好きだし、見た目は誰が見たって可愛い。
麗の冗談や揶揄に振り回されて、こっちがその気になったら、何だか滑稽じゃないか。
後から間抜けだったと気づくのは、御免だ。
「結ノ介は、夫が単身赴任中の人妻にしか興味がないから、仕方ないけどね」
「とんでもねぇ嘘ついてんじゃねェよ」
翠は完全に引いてる。
「それってどうなの?」
「本気で心配すんな。俺は至って健全だ」
麗は自信ありげに、
「愛があればいいじゃないか。善悪なんて後から人が決めたものに過ぎないよ。僕たちの衝動や感情は、発生すること自体は悪いことじゃない。それがどんなものでもね。発生したものに、後から善悪の判断が下されるだけだよ。悪いこととされているものの中に、それ自体が人間の傾向として設定されているものがある。例えば盗むこと。無意識に物を盗ってしまう病気があるそうだよ。善悪の判断とは関係のないところで、人の傾向として発生する行為ということになる。盗みは人の二番目の職業らしい。職業かどうかは議論の余地があるけどね」
麗は結ノ介の弁当から、おかずを一品盗む。
「だから君が、団地妻という言葉に異常に反応してもいいんだよ」
「しねーよ!」
「背徳こそ古来より人を燃え上がらせるんじゃないか。つまりは愛だよ。それをいろいろな人間がいろいろな角度から検証し始めたんだ。純愛と狂気は二律背反だよ。人の感情は必ずしも、一つだけではないからね、同時に複数の感情が喚起されてもいいはずだ」
結ノ介は麗の弁当箱から、おかずを取り返す。
「でも俺たちはそのルールの中で守られながら生活してるんだろ。お互いの保身のために、皆が遵守しないといけない約束事がある。って、今はそういうことを言ってんじゃねぇ」
発言の訂正を求めただけのつもりが、話が逸れてしまった。
結ノ介は麗と話をしていると、ふと話の骨子から大きく逸脱することがある。
それをお互い楽しんでいることは承知だが、時と場所というのは大事だ。
「倫理観も大切だけど、ときどき僕は君の男性としての機能を疑うことがあるよ。大丈夫なの?」
「大きなお世話だよ。人妻好きのレッテルを張られるくらいなら、奥手でいい」
「じゃあ、僕のような幼児体型が好みなの? それはそれで問題な気がするけど」
「卑下するような発言はやめなさい。そういう需要だってあるんだし」
突然、翠が笑い出した。
結ノ介は驚いて、
「どうした? 眠すぎて壊れたか?」
「違うよ。ただ、誰かとご飯食べるのって、やっぱりいいね」
結ノ介は、翠にはこういう機会がなかったんだよなと思う。
翠はあの教室で独りきりだ。
少し感傷的になっていると、麗が翠の華奢な手を取り、
「僕の可愛い冗談で笑ってもらえるなんて、望外の幸せだよ」
「おい、どこが可愛い冗談なんだ? 俺は特殊性癖にされかけたんだが」
結ノ介は麗から弁当箱を奪い、それを翠に差し出す。
「良かったら、好きなの食べろよ」
麗に「箸を貸してやってくれないか」と言うと、麗は頷き、翠に箸を渡した。
翠は迷っていたが、「いただきます」と弁当箱に箸を伸ばし、白米を摘まむ。
「いや、おかずを取りなさいよ。パン食べて、米食べて、炭水化物過剰摂取かよ」
「タンスイカブツカジョウ――なに? 何かの奥義?」
「バランスを考えろって話だよ。弁当のおすそ分けって言ったら、おかずを取るだろ」
「お米取ったっていいじゃない」
「そりゃいいけど、お前に俺の作ったおかず食べてほしいんだよ」
言ってて自分で気持ち悪くなった。
昼食が終わると、麗は屋上で寝るからと先に歩いて行った。
結ノ介が教室に戻ろうとすると、翠に袖を引っ張られる。
「放課後、写真屋さんに付いてきてほしいの」
「いいけど。灰半じゃなくて俺でいいのか? 別に行くのが嫌ってわけじゃないんだが」
翠が落ち込んでいるように見えた。
「ダメじゃないから。だから、そんな顔するな」
翠は「うーん」と小さく呻吟し、
「……会話って難しいね」
どうやら、結ノ介と麗の会話に入れなかったことを気にしているらしい。
「麗は特殊だから、俺とあいつの会話を基準にするのはどうかと思うぞ。他の生徒たちの会話はもっと普通だ」
「普通ってなに?」
翠にとって普通とか一般的というのは、よく分からないものなのだろう。
「あなたと月黄泉さんは、友達なんだよね?」
翠の質問に、結ノ介は「まぁな」と答える。
「どこからが友達なの?」
「そりゃ顔を合わせたら、挨拶したり話したり、んー、何だろうな」
よく考えると難しい質問だった。
「二人はいつから友達なの?」
いつからだろう。
麗はあの調子だから、初対面のときから気安く話せたけど。
「いつからってのは、ないかもな。だいたい、いちいち友達になろうなんて言わないよ。気づいたら、そうなってるんじゃないかな。きっかけみたいなものはあるだろうし、なった後で、お互いのことを良い友達だって言い合うことはあっても、それが決定的な根拠っていうのはない気がする。今日から俺たちは友達だってやつがいたら、それは本当の友達じゃないよ。そんな制度的なものじゃないはずだ。言葉で認識を一致させるものじゃない。それじゃ、まるで契約だよ。友達は契約なんかしない。約束するんだ」
約束と聞いて、翠が緊張するのが分かった。
何か言いたそうにしているが、諦めたように、「難しいんだね」とだけ呟いた。
結ノ介は、自分と黒凍は友達なのかどうか考える。
協力関係という前提がある。
それはきっかけには成り得る。
じゃあ、自分は翠のことをどう思っているのだろう。
一緒に忘れ物を取りに行ったのは?
昼食を摂るのは?
翠はバス停で、結ノ介の頭を撫でた。
協力関係でなくなっても、翠と一緒にいるだろうか。
翠とは互いに考えていることや気持ちをちゃんと伝えると約束し合った。
しかし、いや、だからこそ軽率なことは決して言えない。
彼女は一つひとつの言葉と真摯に向き合うからだ。
「灰半と友達だろ? 灰半への気持ちを他の人にも感じたら、友達なんじゃないか」
翠は黙って考えてから、
「夜子ちゃんは特別だから。他の人とは違うから。夜子ちゃんは私のこと分かってくれてる。夜子ちゃんみたいな人とは、もう出会わないと思う」
それを聞いて結ノ介は、二人の間には、強い結びつきがあるのだろうと思った。




