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砂糖菓子でできている  作者: 未礼
番外編

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番外編、私と彼の時間

5章の少し前。

ロイリが亜佐の警護隊を離れて少しして。




 王城の豪奢なエントランスホールはいつも様々な人で溢れかえっていた。

 貴族もいる。スーツを着て大きなビジネスバッグを持った人もいれば、異国の格好をした人もいる。皆厳しいセキュリティを通って来ているが、その目的は様々だ。お城というよりは、ホテルや会社のような風景だった。

 亜佐はそのホールの一角にある応接スペースのソファに座り、ある人を待っていた。

 かなり早めに来てしまったが、座って五分もたたずに遠くから「アサ!」と名を呼ばれ、早めに来てよかったと胸を撫でることになる。

 向こうから笑顔で大きく手を振りながら歩いてくるのはアドルフだ。

 立ち上がって笑顔で手を振り返す。

 アドルフに頼み事があって電話をしたのは一昨日の夜だ。とある事情で人をこちらに寄越して欲しいとお願いすると、忙しいであろうアドルフが直々に出向いてくれたのだ。

 元々近衛師団の本部に用事があったらしいが、それでも亜佐のために貴重な時間を割いてくれた。

「久しぶりだね、アサ」

「ええ、お久しぶりです」

 抱き締めようとしたのか両腕を伸ばして、アドルフはすぐにここが人目の多い城のロビーだと思い出したらしい。

「おっと危ない」

 片手を引っ込めて差し出されたもう片方の手と笑いながら握手をする。亜佐の後ろに立つエヴァンスにも「ご苦労さま」と声をかけたアドルフに椅子に座るよう促してから、亜佐も遅れて座った。

 久しぶりにゆっくり話がしたかったが、目が回るほど忙しいアドルフの時間をあまり奪うことはできない。少し離れた場所で彼の秘書ふたりが忙しなく手帳や書類に目を通しているのも見える。早速本題に入ることにする。

「お願いしたもの、持ってきていただけましたか?」

「うん、持ってきたよ」

 そう言って、アドルフは鞄から数冊の冊子を取り出した。

 一年ほど前にアドルフの会社が傘下に置いた、時計メーカーの腕時計のカタログだった。

「ありがとうございます」

 二か月後、ロイリは三十二歳の誕生日を迎える。彼は毎年亜佐の誕生日は盛大に祝ってくれていたが、行動に制限のある亜佐は彼のために大きなお祝いをできないでいた。ピアノの礼をまだできていないこともずっと気にかかっていた。

 そんな時に定期舞踏会を訪れていたアドルフがつけている腕時計を見て、初めてこの世界に腕時計が存在していることを知ったのだ。

 なかなか高価なものらしいが、きっと役に立つプレゼントになるはずだ。

「内緒にしてるの?」

「はい」

「ロイリは今軍支給の懐中時計を使っていたっけ?」

「ええそうです。だから腕時計のほうが便利だろうと思って。軍人さんでも時々着けている人を見るし」

 そして言うつもりはないが、これはアドルフへの恩返しの意味もあった。

 長い間屋敷で世話になった。どれくらいがアドルフの利益になるのか分からないが、少しでも売上に貢献して、そのお礼がしたかった。

「分かった。じゃあ、正式な商談に入らせてもらおうかな」

「お願いします」

 頭を下げた亜佐ににこりと笑ったアドルフが、カタログをめくりながら問う。

「アサ、予算はどれくらいで考えてる?」

 ううんと唸る。一応予算はこれくらいと決めていた。ただ、それが安いのか高いのか全く分からない。

「全然知識がないんですけど、大体どれくらいですか?」

「そうだねぇ、一般人が奮発して買うのと……貴族が見栄とコレクションで買うの……まあ大体この間だね」

 アドルフはふたつの金額を書き込んだ紙を亜佐に差し出した。考えていた予算はその範囲に収まっている。安心してその金額の下に予算を書き込んでアドルフに返した。

「これくらいで」

 紙を受け取って覗き込んで、それからアドルフは目を丸くした。

「アサ、一桁間違えていない?」

「えっ」

 間違えただろうかと立ち上がってアドルフの手元を覗き込む。桁を数えるが、間違えてはいない。

「一桁足りませんか……?」

「違うよ、多いんだ。大丈夫? かなり無理してるんじゃない?」

 確かに、普段なら手が震えるような金額だ。いや、もちろん今でも震えるような金額だが、今回は当てがあった。

 周りを見渡して、声が聞き取れる範囲に誰もいないことを確認して声を潜めた。

「……私がクラウゼのお屋敷にいた時に、私の世界のピアノ曲を楽譜に起こしていたじゃないですか?」

「うん、していたね」

「それを先月、フリードハイム先生の勧めで編曲集として出版したんです」

「それが大ベストセラーで」

 口を挟んだのは後ろに立つエヴァンスだ。

「一ヶ月で俺の給料半年分くらい稼いでいるんですよ。遠慮なく毟り取ってやってください、クラウゼ卿」

 わざと悔しそうに言うエヴァンスと困って笑う亜佐を交互に見つめ、アドルフはようやくぽかんと開けていた口を閉じた。

「初耳だよ、それ。言ってくれればたくさん買って、全社員に配ったのに」

「それはやめてください」

 真顔で手と首を同時に横に振る。アドルフは不満そうな声を上げたが、今は印刷が追い付いていないらしいので大量に買い占めるのは不可能だろう。

 視線をテーブルに落として、指でスカートをいじる。アドルフやベルタにそれを知らせなかったのには理由がある。

「……すごく迷ったんです。編曲集がこんなに売れることなんて普段はありえません。私の世界の音楽家を利用してお金を稼いでるみたいで、なんだか罪悪感があって……」

「アサ、それは違う」

 亜佐の言葉を落ち着いた声で遮って、アドルフは腰を上げてテーブルに置かれた亜佐の手を取った。後ろのエヴァンスは何も言わない。ぎゅっと握り返して、屋敷にいた間何度も亜佐を勇気付けてくれたその赤い目を戸惑いながらも見つめ返す。

「何十曲も難しい曲を暗譜して、そしてそれをまた譜面に起こすっていうのは、誰にだってできることじゃないんだろ? ピアノを弾ける人の中でもさらに特別な才能なはずだ。君のその才能のおかげで、僕達は異世界の音楽家たちが作り出した名曲を聞くことができる。そして経済も回る。一体誰が嫌な目にあってる? 誰が損をしている? 君の世界の音楽家たちはどう思うだろう。死後自分の曲が異世界でも称賛されるなんて、どれほどの喜びだろう。ほら、君がしたのは素晴らしい事だよ」

 アドルフの言葉を噛み締める。

 本当にこの世界で嫌な目にあったり損をしている人がいないか考えてみる。

 多分、いない。

 うんと頷く。売り上げの八割は孤児院と音楽関連の施設に寄付をするつもりでいた。その考えは変わっていないが、残りをロイリのために使うことへの罪悪感はなくなった。

 亜佐の表情を確認してからアドルフはにっこり笑って手を離す。

「胸を張ってプレゼントしてあげたらいいよ。ロイリも絶対に喜ぶ」

「はい。ありがとうございます」

 心がすっきりとした。晴れやかな気持ちでまたふたりでカタログを覗き込む作業に戻る。

 ずらりと並ぶ時計のイラストは、好きな人が見たらきっと興奮するものなのだろう。

 既製品もあるが、ほとんどはオーダーメイドのようだった。

「個人でベルトの付け替えってできるんですか?」

「できるのもあるよ」

「じゃあ、普段仕事の時に着けるものは汗とか汚れとかに強いベルトで、フォーマルな時は革のベルトっていうのもできますか?」

「うんうん、デザインさえ合えばできるよ。いいねぇ、最近メタルの丈夫なベルトを売り出してね。オススメだよ」

 カタログをめくりながら説明を受けたのは二十分ほどだ。

 カタログを借りてまた後日会うことになった。日付と時間を確認してふたりは立ち上がる。

「ありがとうね、アサ」

「いえ、こちらこそありがとうございました。お忙しいのに、すみません」

「いいんだよ。他でもない君のためならいくらでも」

 そう言って差し出された手を両手で握る。

「ベルタさんにもよろしく言っておいてください」

「ん?」

 アドルフは腰をかがめて亜佐の顔を覗き込み、少し意地悪げに笑う。その顔が本当にロイリにそっくりだ。

 どうして彼がそんな顔をしたのかすぐに思い当たって、亜佐は少し顔を赤くして目線を下げた。

「ベルタにも……」

 その様子を見てアドルフが声を上げて笑う。

「君たちは本当に慣れないな。ベルタも家で君のことアサ様って呼んでるよ」

「だって、ずっとそうだったから……」

 熱い頬を手で撫でて、顔を上げた。

「またベルタさ……ベルタも、連れてきてください。手紙だけじゃ話し足りないから」

「分かったよ、必ず。じゃあまたね、アサ」

「はい、また。お気を付けて」

 城から出ることを許されていない亜佐が行くことができるギリギリのラインに立ち、大きく手を振ってアドルフを見送る。

 それから二回アドルフとこっそり会って、約ニヶ月後。

 ロイリの誕生日の五日前に、アドルフが手ずから出来上がった腕時計を持ってきてくれた。

 思ったよりも大きな箱は、造花とリボンで美しく装飾されていた。

「ラッピングまで……ありがとうございます」

「どういたしまして。ロイリと一緒に開けてね」

「そうします」

 本当はロイリに渡す前にこっそり中を見てみようと思っていたが、このラッピングを解くのはもったいなさすぎる。言われたとおり、ロイリと一緒に開けるまでの楽しみにとっておくことにする。

 城の入り口でアドルフの姿が見えなくなるまで手を振って彼を見送ってから、亜佐はこれからが本番だと気合を入れ直した。

 なんと言ったって、ここ一ヶ月まともにロイリの姿を見ていないからだ。

 彼が亜佐の警護隊長を辞め近衛師団で働きだしたのは、ほんの三ヶ月前。ふたりが会える時間はそれまでと比べ物にならないくらい減った。

 この一ヶ月でロイリを見掛けたのは二回。一回はかなり遠くから後ろ姿を見つけただけだし、二回目は目が合って彼は目元だけで微笑んでくれたが、すぐに顔はそらされた。

 できれば誕生日当日に渡したい。たとえ五分しか時間が取れなくてもだ。

 前日までどうにか話をできないだろうかとロイリの行動範囲を警護隊の人に聞いたり粘ってみたが、結局顔すら見ることはできず。

 誕生日前日の夜、亜佐はとうとう最終手段に出た。

 緊張した顔でそっと部屋を覗き込む。そこは、近衛師団の詰め所だった。

 扉は大きく開かれていて、部外者も入ることはできるらしい。ロイリの姿が見える。かなり遠いが、後ろ姿でだって彼を見分けられるようになった。奥の方の大きな机の前で、立ったまま師団長と何やら話をしていた。

 本当ならその後ろ姿に大きな声で呼びかけて飛び込んで抱きつきたい。

 ただ、大勢の軍人たちが慌ただしく仕事をしているその部屋に、仕事以外の用事で入る勇気は残念ながら亜佐にはなかった。

 隣に立つエヴァンスにひそひそと声をかける。

「やっぱり無理だ……中尉、お願いします」

「オッケー。クラウゼ少佐を呼べばいいんだね」

「はい」

 彼はにかっと笑って頷く。今日は二、三分話せれば充分だ。迷惑にはならないだろう。

 どうにかこっそり、あまり目立たないように。その気持ちを唇の前で人差し指を立てエヴァンスに伝える。

 それなのにエヴァンスは、部屋に入らずに入り口のど真ん中に立った。そして手をメガホンのように口元に当てる。

 何をしようとしているのか気付いたが、止める間もなかった。

「クラウゼ少佐ぁ!!」

 エヴァンスの腕を引くが手遅れだ。彼の大声に一斉に視線が集まって頭を抱えた。眉間に盛大にしわを寄せて振り向いたロイリは、その視界に亜佐を捉えて目を丸くする。

 師団長となにやら言葉を交わし、こちらへと駆け足で向かってくるのが見えた。

「ちょっと中尉! 話を中断させちゃったじゃないですか!」

「大丈夫だよ。仕事の話してる立ち方じゃなかったから」

「それ、でも!」 

「アサ」

 もっと文句を言ってやろうと思っていたのに、久しぶりに聞く愛しい声に名を呼ばれ振り返らずにはいられなくなった。

 ロイリは亜佐の肩を掴んで、たくさんの視線から遮るように扉の陰に押しやる。

「ごめんなさい、仕事中に……」

「いい。どうした、何かあったのか?」

 彼は深刻そうな顔でそう尋ねる。

 今までロイリの仕事を邪魔しないように気を付けていた。そんな亜佐が勤務中に派手に詰め所を訪れたのだ。心配するのも仕方がない。罪悪感で首をすくめる。

「あの……明日の夜、少しだけでいいから会いたくて、その話をしに……」

 申し訳なさそうに言う亜佐にロイリは少し考えて、ようやくその目的に気付いたようだ。

 彼はとろけるように笑った。

「覚えていてくれたのか」

「もちろんです」

 久しぶりに見る笑顔を見つめていられなくて目をそらし、もう一度見上げた。

「大丈夫そうですか?」

「どうにかする」

「無理はしないでくださいね」

「分かったよ」

 肩を掴んでいた手が離れる。緊張で強張らせていた体をようやく緩めた時。

 ロイリの顔がずいと近付いて、喉の奥でおかしな声が漏れた。

 彼の唇が耳元で囁く。

「お前の部屋でいいか?」

 声が出せずに何度か首を縦に振る。ようやくロイリは亜佐の様子がおかしいことに気付いたようだ。

「アサ、汗かいてる? 暑いか?」

 前髪に触れられ、ぎゅっと目をつむる。

 まさか、暑いわけがない。穏やかな気候のこの国でも、冬はそれなりに寒い。

「いや、あの……あなたに会うのが久しぶり過ぎて、緊張してる……」

 彼が目を丸くする、そんな顔すらきれいだなんて卑怯だ。

「ロイリってこんなにカッコ良かったですっけ……?」

 心なしか目が回ってきたような気さえする。顔にたまる熱のせいで頭がぼんやりし始めた。

 苦笑いのような声が聞こえてロイリに意識を戻す。彼は腰を折って、亜佐の背後の壁に両手をついた。

 触れそうな距離まで顔が近付いて、ロイリは目を細めて見上げるように亜佐を見る。どんな表情をするとどんな風に女は心を掻き乱されるのか、彼は知っていてやっている。

「ずっとこの顔だ。忘れないように、もっと近くで見ておくか?」

「まっ、まっ、ま」

「……おふたりさん。往来ですからね、ここ。さすがにそろそろ止めますよ」

 エヴァンスの声にようやく我に返ってロイリの胸を押す。こんなに目立つ場所でいちゃついてしまった。

 体を起こしてわざとらしく肩を竦めて見せて、ロイリは笑った。

「戻るよ」

「は、い……」

 そう言われると急に離れがたくなる。その感情を表情に出さないようにしたつもりだったが、ロイリは少しの間この顔を見下ろして、そして髪を手ですくった。

「また明日」

 その髪に頬ずりし、彼は手を離す。部屋の中に入るまで絡み合っていた視線が途切れて、亜佐は呆然と自分の胸を見下ろした。

「心臓が破裂するかと思った」

「やること一通りやってるくせに何言ってるの」

 小声で呟いたエヴァンスを睨みつける。股間を蹴り上げてやろうかと思ったが、体からみるみる力が抜けて、結局俯いたまま亜佐はとぼとぼと歩き出した。

「だって、一ヶ月もまともに会えないの、初めてだったんですから」

 この世界に落ちてきてから初めてだ。思っていたよりも震えた声が出て、隣でエヴァンスが言い淀んだのが分かった。

「……からかってごめんって」

「明日ロイリにエヴァンス中尉に泣かされたって言いつけてやろ」

「ごめん、本当にごめんなさい。本当に殴られるからやめて」

 彼をじっとりと見て、大きく息を吐いてようやく前を見る。

「私に意地悪ばっかりするんだから。さっきもわざと大声出したでしょ。そんなことするからモテないんですよ」

「違う。モテるためにやったんだよ」

 何を言っているんだと訝しげに彼を見上げる。

「ああやって派手に君と少佐がいちゃついてるところを見せてふたりがデキてるって噂になれば、少佐がモテなくなって代わりに俺がモテる!」

「またフラれたんですか」

「うるさいな!」

 何やら言い訳をつらつら並べるエヴァンスから脳内に意識をやる。緊張と短時間の逢瀬の寂しさがエヴァンスとの会話でようやく薄れて、代わりに喜びが込み上げる。

 明日、ロイリに会える。数時間だけだが、ふたりで過ごせる。彼の誕生日という特別な日にだ。

 嬉しさにむずむずと口元が緩み、それを隠すために少し俯く。

 久しぶりにどんな会話をしようかだとか、何と言ってプレゼントを渡そうか、そんなことを考えて黙々と歩いていると、急に首根っこを掴まれて引き寄せられた。

「ちょっとアサちゃん、聞いてる? どこ行くんだよ」

 エヴァンスの顔を見て、辺りを見渡す。自室に戻る通路と正反対に行こうとしていた。

「……全然聞いてなかった」

「あーあ、これは明日ずっと上の空だろうなぁ」

 そうだろうなと自分でも思う。

 そして次の日。

 やっぱりエヴァンスの予言通り、亜佐は一日中上の空だった。

 そわそわとしていて身が入っていないピアノをフリードハイムにそれはもう怒られたが、今日は何とも思わない。だって夜にロイリに会えるのだ。

 居残りさせる気満々だったフリードハイムを上手く撒いて、早めに夕食を済ませる。厨房で頼んでいたシャンパンと氷と軽いつまみを受け取って部屋に戻った。

 さっとシャワーを浴びて、これも準備していた特別な日用のテーブルクロスをテーブルに広げ、この国で誕生日を祝うときには欠かせない花とローソクも並べる。

 グラスとつまみも並べて時計を見るとまだ十九時前で、さすがに少し早すぎたと亜佐は苦笑いした。

 フードカバーの代わりになるようなものはないかと辺りを見渡していると、部屋の呼び出しベルが短く鳴る。

 もう一度時計を見上げる。十九時前で間違いない。

 まさかと小走りで応接室に入り、廊下への扉を開く。

 そして扉の前に立っているロイリを呆然と見上げた。

「すごく早い時間ですけど、大丈夫ですか……?」

「大丈夫だよ。全部押し付けてきた」

 それは大丈夫と言ってもいいのだろうか。ロイリのことだ、無責任なことはしていないだろうが。

「本当に大丈夫ですよね……?」

「大丈夫」

 彼を部屋に招き入れて扉を閉める。その背中を強く抱きすくめられた。

「ロ、イリ……!」

 硬直する体をずるずると引きずられ、応接室の大きなソファの座面に押し付けられる。

「会いたかった」

 呟かれた言葉に切ない響きを感じ取って、胸が締め付けられた。

 私もだと伝えたくて腕を伸ばす。その指に頬を擦り付けてキスをして、されるがままに引き寄せられたロイリは亜佐の首筋に顔をうずめた。

 少しの間そのまま抱き締め合っていると、ロイリがくぐもった声で呻いた。

「もう無理だ。我慢できない」

「……ロイリ?」

「シャワー浴びた?」

「……浴びましたけど、あの」

「よし」

 顔を上げて、ロイリは立ち上がるのと同時に亜佐を横抱きに抱き上げる。思わず悲鳴を上げて首にしがみついた。

 何か「よし」なのか考えなくても分かる。

「待って、待って……! 今日はお祝いをしたいから……」

「ベッドの上で祝ってくれ」

「駄目! 駄目……ではないけど、まずお祝いさせてください……! 準備、頑張ったから!」

 準備を頑張ったと言われてさすがのロイリもベッドへ一直線はできなかったらしい。

 亜佐を抱き上げたまま寝室への扉を開いて、彼は感嘆の息をついてから笑った。

「毎年少しずつ派手になっていくな」

「勝手が分かってきたから」

「ありがとう、アサ。嬉しいよ」

 額と唇にキスをして、ようやく彼は亜佐を地面に降ろしてくれた。

 椅子を引いてロイリを座らせて、氷で冷やしていたワインの栓を抜く。ロイリのグラスに注いで、それから自分の分も少なめに注ぐ。

 椅子に座ってそれを持ち上げた。

「お誕生日おめでとうございます」

「ありがとう」

 カツンと音を立ててグラスを小さく当てて、ワインをひとくち飲む。それほど弱くはないが、酔うと眠くなるので余り飲めない。特に今日は、眠ってしまうのはあまりにももったいない。

 ロイリが飲み干したグラスになみなみとワインを注いで、それから会えなかった時間を埋めるようにお互いの近状を報告し合う。

 その間も、心の中は浮足立っていた。早く腕時計を渡して、喜んだ顔が見たい。

 どれほど時間が経ったか、ようやくロイリがほんのり酔いはじめる。今日どれだけフリードハイムに怒られたかの話がタイミングよく終わり、亜佐は顔を上げて「ロイリ」と呼んだ。

「プレゼント、準備してあるんです」

 そう言ってテーブルの足元に隠していた紙袋を取り出してロイリに差し出した。

「今回は頑張りました」

 礼を言いながら受け取って、豪華な包装を見てロイリは困ったように笑う。

「無理はするなよ。俺はお前とこうやって過ごせるだけで幸せだから」

「その言葉が聞けただけでも、頑張ってよかったって思えます」

 さらにその笑みが深くなる。

「開けてもいいか?」

「もちろんです」

 嬉しそうに唇で弧を描いたまま、ロイリは紙袋から箱を取り出す。急に緊張しはじめた。

 きっと喜んでくれる自信がある。それでも耳の中で響くくらい心臓が強く打つ。

 長い指が丁寧にリボンを解く。ふたを開いて、ロイリは目を丸くした。

「腕時計……アドルフの……?」

「そうです。こっそりアドルフさんにお願いしてたんです」

 聞いているのかいないのか、ロイリは腕時計を持ち上げたりひっくり返したり文字盤を眺めたりしている。そして紅潮した顔で亜佐を見た。

「アサ、嬉しい」

 その顔を見て、ようやく緊張が解ける。ロイリのこんな顔は滅多に見ることができない。それほど喜んでもらえた。

「アドルフがつけていただろう。あれを見ていいなと思っていたんだ」

「仕事の時につけてもらえますか?」

「もちろんだ」

 時計の文字盤を、ロイリは愛しそうに撫でる。

「お前と同じデザインなんだな」

「……え?」

 何のことか分からずに首を傾げる。亜佐が使っているものは昔ロイリからもらった懐中時計だ。デザインを似せたつもりはない。

「これは?」

 ロイリが指をさす方を見る。彼の腕時計が入っていた箱にもうひとつ小さな腕時計が収まっていることに、その時ようやく気付いた。

 角がない女性的なデザインだが、ロイリのものと(つい)になっていることは誰が見ても分かるだろう。

 ――そうだ、受け取った時に、箱が大きいなと思った。

「アドルフさん……!」

 亜佐の悲鳴に、ロイリは色々と悟ったようだ。笑い声を上げながら、箱の隅に刺さっていたカードを開く。

「アサへ。遅くなったけれど、宮廷ピアニストデビューのお祝いだよ。君とロイリの愛が永遠に続くよう。アドルフ、ベルタより」

 思わずじわりと涙が滲んだ。嬉しい。泣きそうなほど嬉しい、が。

「恩返ししようと思ってたのに……腕時計を買って、売上に貢献しようと……」

 これでは意味がない。意味がない、ことはないだろうが、恩返しには程遠い。

 ロイリがほんの少し目を細めた。

「……これは貢献できるほど高額なものなのか?」

「あなたが今まで私に買ってくれた分には到底及ばないですよ」

 高額なものだということを否定しないその返事に、ロイリはさらに目を細めた。

 少しの間見つめ合って、ロイリは「とにかく」とかぶりを振った。

「恩返しとかそんなことは考えなくてもいい。そう思っているからアドルフもこれを寄越したんだ」

 迷ってから、うんと頷いた。それでも、好きな人たちのために何かしたいと考えてしまう。代わりに何かできることはないだろうか。

 また、少し難しいが楽しい考え事ができてしまった。

「……またお礼言わないと」

「そうだな」

 ふたりの腕時計を手にとって、ロイリは立ち上がった。

「おいで」

 彼のあとに続いてベッドに歩み寄る。

 すぐ隣に座った亜佐の手を取り、ロイリは腕時計を手首に通しカチリと金具をはめた。

「ぴったりだな」

 持ち上げて眺めてみる。ロイリの時計も迷いに迷って結局シンプルなデザインに決めたが、それをうまく女性的なデザインに作り変えてくれている。

 予算のほとんどを頑丈にするための素材に注ぎ込んだが、その素材も同じ物のようだ。少しくらい暴れたって壊れないだろうと笑う。

「つけて」

 時計を手渡され、ロイリの手を取る。少し緊張するのは、指輪を指にはめる行為を連想してしまったせいだ。

 手首に通して、慎重に金具を止める。

「俺もいいくらいだな」

「うん、ぴったりですね。素敵。よく似合います」

 何日も徹夜して選んだ甲斐があった。彼は顔もいつも着ている軍服も華やかなので、やはりこういうシンプルなもののほうが似合う。

 嬉しそうに時計を眺めていたロイリが、何かを思いついたように「アサ」と呼んだ。

「キスしてくれないか。時計に」

 そう言って差し出された手を見る。何か意味があるのだろうかとその手を取った。ロイリがよくお姫様にするように手の甲にキスをしてくれるが、それに似ている。

 引き寄せて、時計のガラスにそっと唇を押し当てた。そのあと我慢できずに白い手の甲にもキスを落とす。

 ロイリが笑いながら亜佐がキスをした場所に同じように唇を寄せ、それから時計に頬を擦り付けた。

「これで、お前に会えない時も頑張れるよ」

 赤い瞳が優しく細められる。

「ありがとう、アサ。大事にする」

 目を丸くする。そうだ、この笑顔が見たかったし、この言葉が聞きたかった。

 それなのに今胸の中で渦巻くのは。

「今……ちょっと、時計に嫉妬しました」

 この腕時計は、四六時中ロイリと一緒にいられるのか。

 馬鹿な嫉妬を笑おうとしたが、上手く笑えない。

 歪んだ口元にロイリの手が触れて、弱音をため込んでいた場所の栓がするりと抜けてしまった。

「あんまり会えなくて、寂しい」

「ごめん」

 何度も首を横に振る。ロイリのせいではないことは分かっている。

 ロイリが警護隊の隊長をしている時は、毎日のように会っていた。彼が当番の日は一日中一緒にいた。それなのに今は、覚悟していたよりもずっとずっと会える日は少ない。会えたとしても数分だったり、触れ合うことすらできなかったり。

 彼の首に抱きつく。

「ごめんなさい……困らせるつもりはないのに」

「困ってない。俺も同じ気持ちだ」

 腕が背中に回り、息ができないほど強く抱き締められる。

「寂しいんだ、アサ。お前に会えなくて寂しい」

 ふたりの体がシーツに沈む。キスをする直前、かつんと音を立ててふたつの腕時計がぶつかった。

 ロイリが手を伸ばして金具を外す。

「外すんですか?」

「うん。もらってすぐに汚すわけにはいかない」

「防水ですよ。すごく頑丈に作ってもらったから」

「だったらなおさら、お前にぶつけて怪我をさせたら大変だ」

 ふたつの腕時計を取り去って、ロイリはそっとサイドテーブルの上に置いた。その時計に手を伸ばして触れる。

「あとで私にもキスしてください」

「今からでもお前の全身にキスをするつもりでいるけど」

「……違います、私の時計にも」

「違わない。全身にキスはする」

 降ってきた唇を手のひらで受け止める。

「時計にも、ちゃんとしてください」

 亜佐の手を退けてベッドに押し付けて、ロイリは「分かったよ」と笑った。




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[一言] 最高過ぎました…! 読み始めたら止まらなくなって夜通し夢中で読んでしまいました! 素敵な作品に出会えて幸せです。
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