第137話 机の上の証
最後の審理に、思わぬ顔が立った。
文官クレスだった。北の谷でヴェイルの目付として送られ、見たままを記して真実の側へ転じたあの痩せた男だった。クレスは敗戦後、散らばった軍の記録を集める役を負っていた。そしてその手で一束の書付を掘り起こしていた。
ザインはその姿に思わず目を見張った。クレスは南の大攻勢には加わっていない。北の谷の戦の後、後方で記録を整える役に回されていた。だからこの大敗の証人になる謂れはなかった。それでもこの男は自ら間に立った。痩せた身を強張らせ、震える手で書付の束を抱えていた。剣も握れぬ文官が、後方最大派閥の頭の前へ再び歩み出ていた。北の谷で真実を述べた時と同じ覚悟の顔だった。
「お待ちを」
クレスが、震える声で間に割って入った。
「私は南方軍の記録を整理しておりました。その中に、攻勢前夜の各隊への命令書がございます。先鋒たるザイン少尉の隊には、こう記されている。『先鋒は敵陣前縁にて敵を拘束し、本隊の前進を待て。深追いを禁ず』と。これはヴェイル将軍ご自身が発した命令です」
評定の間が、静まった。クレスは書付を掲げた。
「ザイン少尉は、この命令の通りに動いた。敵陣の前縁で踏みとどまり、深追いをしなかった。命令を破って深く踏み込んだという見立ては、将軍ご自身の命令書と矛盾します。深追いを禁じたのは、ほかならぬ将軍だ。その命令に従った将を、深追いの咎で裁くことは、できません」
ヴェイルの頬がわずかに引きつった。己の発した命令書が、己の組んだ筋書きを内側から崩していた。先鋒は深追いを禁じられていた。ならば深追いはなかった。机の上の一枚が戦野の真実を裏打ちした。皮肉な話だった。ザインを縛るために発した命令が、今はザインを救う証になっていた。
「さらに」
クレスは続けた。声はまだ震えていたが、折れなかった。
「東の沢に退き口を開き、味方を逃がした記録も、生き残りの将から得ております。逃げ延びた兵の数、その流れた経路。すべて、ザイン少尉の退き口と符合します。先鋒は軍を崩していない。むしろ崩れた軍を、最も多く救った隊です」
クレスは数を並べた。逃げ延びた兵の頭数、沢を抜けた経路、退き口を保った刻限。どれも乾いた数字だった。だがその数字の一つひとつが、戦野で起きたことを、嘘の入り込めぬ形で語っていた。家名なき将の真実を、貴族の証言は塗り潰せた。だが帳面の数字までは、塗り潰せなかった。クレスは、ヴェイルの最も嫌う武器を選んでいた。立場で覆せぬ、冷たい記録という武器を。ザインの読みが戦野で物を言うように、クレスの数字は、評定の机で物を言った。
ザインは痩せた文官の背を見つめた。クレスはまた戦っていた。剣も握れぬ身で、机の上の一束を武器に後方最大派閥の頭へ立ち向かっていた。北の谷の一行に続く、二度目の真実だった。
これこそ、ザインがこの数月かけて動かしてきた人の心の、もう一つの実りだった。古参のバルガを、貴族の副官カイルを、そしてこの文官クレスを。ザインは家名も武勇も持たなかった。だが人の芯に触れる何かだけは持っていた。谷で血の重さを見た者は、二度と机の上の嘘へは戻れない。クレスはその一人だった。ヴェイルが盤を組み替えるたびに、ザインの動かした人の心が思わぬ場所で盤の脚を払う。剣で斬れぬ敵に、剣でない武器で抗う。それがザインの後方での戦い方になりつつあった。
「クレス。貴様、まだ懲りぬのか」
ヴェイルの声に、底冷えする怒気がにじんだ。
「懲りる懲りないの話ではございません。記録を整える者が、記録を曲げれば、軍そのものが盲いる。私は、見たままを記すだけです」
ローレン大佐が、重々しく頷いた。
「命令書は動かぬ証だ。先鋒に深追いの咎は問えぬ。これは記録として確定する」
頭上の高窓から、二つの月が昼の空に白く差していた。大小ふたつの蒼い影が、机の上で真実を掘り起こす文官と、それを見つめる将を静かに照らしていた。
ザインはわずかに息をついた。深追いの罪は、覆った。だがヴェイルの目は、まだ冷たく光っていた。盤を捨てる男の目だった。この敗戦の責めを、まだ誰かに着せねば、本営は収まらない。その的がザインから完全に外れたわけではなかった。




