聖園 流華
流華は弱い。それがリラの率直な感想であった。
それは何も肉体的なことではない。寧ろ肉体的には同年代の他の人間と比べてもとりわけ健康そのものであり、それは魔力を得る、リラと接触する以前以降とそれは何も変わらない。
では一体何が弱いというのか。それは精神──心の方にあった。
弱く、弱く、ただ弱い。それでもリラが流華を選んだ理由はといえば、その父親にあった。
彼女の父親は立場もあれば正義感や信念、合理性など、そのどれを取ってもリラとしては理想的であり、リラは当初適任者としてそちらを見据えていた。しかし、彼は既に老いていて、故にその娘である流華に目を付けたのだ。
蛙の子は蛙と言う。今はまだオタマジャクシであったとしても、その信念や理想はきっと同じはずだと、敬虔なリラは信じて疑わなかった。
だが悲しいことに、哀しい程に、それはどうしようもなく間違っていた。
彼女はリラの指示の下、リラに与えられた力の下、そして神の名の下に魔物や魔族を退けて見せた。
しかしどうだろう、それが悪魔付きとなった途端に彼女は怖気づいて、躊躇った。相手が人の形をしていたからと、彼女はそれを殺すことを拒んだのだ。
リラにはそれが理解できなかった。人間と悪魔憑きとは違う、例え悪魔憑きをいくら殺したとしても、それは人間を殺したことにはならない。
なのに何故、だから何故と、リラは考え、それを実行した。
彼女に思考誘導を施し、彼女に洗脳をしてみせた。とは言っても、今やそれは看破された過去形のことでしかないのだが。
しかし洗脳が有効であったその間、流華は甘さを捨てることができた。それはつまり力そのものであって、故に彼女は凡そ敵と呼べるものを一切の迷い無く屠ってこられた。
リラが流華に対して与えた力は神の恩寵。そしてその力は信じる心に依るものであった。この場合、信じるモノは別に何でもよいのだ。
だからリラは流華への思考誘導の際、神への信仰をも植え付けた。流華が名も知ることのない未知の神、遠い宇宙の中にある、悍ましく素晴らしい神々への信仰を。
だが先も述べた様に、今やその信仰は失われていた。颯によって敗北し、エルゼによって引き下がるを得なくなった流華とリラは、その歪な拘束を互いに解くこととなった。
しかしそれは問題もあった、問題があった、問題しかなかったのだ。
リラが流華に施した思考誘導は何も悪魔憑きを殺させるためだけのものではない。流華の根本的な弱さや甘えを消し去ると同時に、彼女が長年未練たらしく抱えてきた心の脆さを補強する為のモノでもあったのだ。
しかしそれは失われてしまった。悪魔憑きを殺すこと自体を割り切れたのはその成果でもあったが、心の脆さは、信仰の喪失は、彼女にとって力そのものを大きく損なうことになってしまった。
流華は今、心の脆さを取り戻してしまっていた。長年の家庭環境が育んだ心の脆さを、そこに宿してしまっていた。
故にリラはエルゼを恨む。元より忌々しいと何度も思っていたエルゼを、ここに来てより一層恨むこととなる。
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呼び出された流華は、最初は何の用かもわからないまま父親の指定した場所まで足を運んだ。
当初は先の構成員の件か、もしくは御厨姉弟のことかと予測を立て、もしもの時はフォローしてあげないとななどと考えていた。
しかし、呼び出された場所について早々に、呼び出しが自分自身の事についてだと悟った。
流華は自身の父を尊敬はしていたし、嫌っているわけでもなかったが、良い父だとも思ってはいなかった。仕事に明け暮れ、家を重視し、自分の娘として相応しい姿を求めた。教育の面では特に厳しく、高校に入ってからその反動が出るほどに。
だがそれでも尊敬できていたのは、決して間違ったことをせず、誰に対しても自分を貫く心の強さを見ていたからだ。
そして今、そんな父親がなんとか怒りを抑えているといった様な表情で待ち構えていた。
「流華。何故あの2人についての報告を一切上げなかった」
そう問い詰められ、言葉に詰まる。
確かに、本来であれば退魔課に共有しなければならなかった情報のはずだ。しかし、彼らに対する罪悪感か、余計な火の粉が降りかからないようにとそれを独断で秘匿した。彼女はそれを理解していたし、バレれば責められるであろうことも何となくは理解していた。
「すみませんでした」
だから謝るしかなかった。
「謝罪など求めていない。何故かと聞いているんだ」
しかし追及は終わらず、厳しい声が耳に突き刺さった。
「それは…あの子たちにも秘密というものが…」
言い訳だ。この国にとって、果てはこの世界にとっての脅威足る魔族と相対する存在についての情報の秘匿。それは問題大問題などを通り越して論外であった。それは場合によっては背信行為にさえ当たりかねない。
「これは人々の生活を、安寧を、それを奪おうとする全ての外敵から守るための仕事だ。そこに私情を持ち込んだのか?」
それも流華は分かっている。分かりすぎるほどに理解できている。
何も言えずにいると、父は苛立ちを隠せなかったのか、カタカタと足を揺らす音だけが聞こえる。
「それと…お前、負けたそうだな?」
「……っ」
流華は別に颯と楓に負けたこと自体はあまり気にしていなかった。
もちろん自分の力が及ばなかったという数少ない経験に悔しさがないわけではなかった。これまで凡そ敗北という敗北を経験してこなかった彼女にとって、それは自分の力への信頼を失わせるほどの事であったのは確かだった。
しかしそれ以上に、颯には勝てなくてよかったと思っているし、楓にはこれで蟠りがなくせるのなら、この結果も受け入れるべきだと納得は──納得するよう心掛けていた。
しかし、流華の父──聖園 佳彦はそうではない。
聖園という家の名を少しでも穢すような真似を彼は決して許さず、故に彼女は小さい頃、それで何度も叱られた。テストではいい点を取り、部活等の試合でも優秀な成績を残せるよう努めてきた。
それもあってか、彼女はそう多くの友達を作れたことも、友達と遊びまわったりといったことをした経験もほとんどなかった。それを今更どうだと言うつもりもなかったが、つまりはそんな、息のつまるような家庭環境であったことだけが事実としてそこにあった。
「その挙句、魔の者と馴れ合うとは…何のつもりだ」
椅子から立ち上がり流華に近付く。
「そ、それは……違います。楓…彼女は悪魔の力を取り込みはしましたが、それでも何かをしようというわけじゃ……」
未だに仲良くなれたわけではないが、流華は楓について誤解していた部分があった。
成績は普通寄りだが運動に関しては他の追随を許さず、その能力が各所で買われているのを認知していた。態度は時に我儘で横暴な、女子高生らしいといえばそうかもしれない、そういう生徒。
それが流華の下した、当初の楓への評価だ。
しかし、例の一件で関わり始めて蓋を開けて見てみれば、楓はただの弟想いの姉でしかなかった。だから彼女への魔の者という扱いに抗議するように弁明した。
「だから今は一先ず様子見を──」
だが。それを言いきる前に、流華は頬を打たれた。
「言い訳をするな」
酷く冷たい目で見下ろされていた。
「次は結果で示せ」
そう言い残すと、流華を置いてどこかへと歩き去って行く。流華は俯き、ただ呆然としていた。
ただの人間である父の攻撃に痛みなどなかったが、それでも、痛くて痛くて仕方がなかった。
今までどんなに厳しい言葉をかけても、彼は決して暴力という手段を取ることはなかった。それは幼いころの流華が従順な子であったことも要因だが、そんなことは知りもしない。
何故叩かれたのかわからないまま、どうして叩かれなければいけないのかということだけが分かった。
「私が、負けたから…」
「る、流華…?」
黙って事の流れを見ていたリラが、流華の様子がおかしいと声をかける。
流華は高校に入り、千夏と出会い、生徒会に入り、そこでの面々と出会っては別れてまた出会った。その間に彼女は少しだけ明るく、表情豊かになっていった。
リラと出会い少しおかしくなった後はその反動か、より一層いろいろな表情を見せるようになった。
そんな流華が一度流れ始めた涙を止められずに、そこからは堰を切ったように泣き始めた。
「変質……しなければいいのですけど…」
そんな流華を見て呟いたリラの言葉は、誰に聞こえることもなく消えていった。
少しずつ歪み始める流華を、どうすることもできずに。