突如訪れる世界の終末
俺の名前は、井出将也。
今日で十八歳を迎える、ごく普通の――と言いたいところだが、少々家族構成が特殊な高校生だ。
井出昌幸。
井出譲二。
井出浩司。
井出浩介。
井出愛華。
井出香織。
井出美久。
井出彩花。
四人の兄と四人の姉がいる。
しかも、ただ人数が多いだけじゃない。
俺の兄姉たちは、それぞれ工学、建築、医療、福祉、教育など――各分野の最前線で活躍している、とんでもない人たちばかりだ。
……まあ。
この中には、譲二兄さんと彩花姉ちゃんは含まれないらしいけど。
譲二兄さんは、確か検察関係の仕事をしている。
「先生……じゃなかった、昌幸兄さん」を、かつて犯罪者として検挙したことがあるらしい。
結果から言えば、証拠不十分で不起訴。つまり、昌幸兄さんは犯罪者にはならなかった。
俺が生まれる前の出来事だから、詳しい真相なんて知る由もない。
けれど――
昌幸兄さんがそんなことをする人間だとは、今の俺にはとても思えなかった。
ただ、その事件をきっかけに昌幸兄さんは一度、仕事をクビになったらしい。
そして当然というべきか。譲二兄さんも、タダでは済まなかった。浩司兄さんや愛華姉ちゃんを筆頭に、家族から激しく非難された。その結果、譲二兄さんは二度と井出家の敷居を踏めなくなったらしい。
特に浩司兄さんは、怒髪天を衝くほど激怒したとか。
……俺にはよく分からない。
今、譲二兄さんがどこで何をしているのか。
俺は知らない。
そもそも、顔すら見たことがない。
そして、もう一人。彩花姉ちゃん。俺より五歳上で、保育士をしている。
兄姉の中では一番年齢が近いこともあって、昔から一番話しやすい相手だった。
ただし――少しだけ問題がある。
「まさくん♪」
今日も彩花姉ちゃんは、上機嫌に鼻歌を歌いながら俺の手を握っていた。白いワンピース。長い髪。
誰が見ても可愛いと言うだろう、美少女。実際、優しいし、超可愛いと思う。
……思うんだけど。
「…………」
この歳で姉と手をつないで歩くのは、正直かなり恥ずかしい。俺は昔、間違いなくお姉ちゃん子だった。
だけど年を取るにつれて、毎日登下校で手をつなぐのは男としてどうなんだ、と思うようになった。
そろそろ姉離れをしたい。
そう考えて、何度か手を離そうとしたことがある。
しかし――
「……まさくん、お姉ちゃん嫌い?」
うるうる。ぽろっ。
「いや、泣くなよ!?」
こんな感じで泣かれる。だから結局、手をつなぐしかない。
俺は彩花姉ちゃんの泣き顔を見るのが、とても辛いのだ。
「彩花姉ちゃん。昌幸兄さん、もう少しかかるかも」
「分かった」
今、俺と彩花姉ちゃんは校門の前で昌幸兄さんを待っている。ちなみに昌幸兄さんは――なんと俺のクラスの担任だ。そのせいで俺は、しばしば昌幸兄さんのことを「先生」と呼びそうになる。
うちのクラスは、総じて変な奴が多い。
いや、本当に。
あまりにも問題児が多いため、いつからか学校内では俺たちのクラスをこう呼ぶ者がいた。
――矯正組。
理由は色々あるらしい。
……が、真相は知らない。
俺が帰るとき、昌幸兄さんはいつものように教頭先生に怒られていた。日常茶飯事の光景だ。
ただ今日は、兄さんにしては珍しく顔が引きつっていた。
(絶対、内心イラついてるだろ……。)
昌幸兄さんは基本的に温厚だ。
けれど。
「昌幸兄貴を本気で怒らせるな」
兄さんたちは、なぜか全員そう言う。俺自身、昌幸兄さんが本気で怒っている姿を見たことはない。
だからどれほど怖いのかは知らないが……兄姉全員が言うのなら、たぶん本当なのだろう。
「待たせたな」
「おっ」
噂をすれば。昌幸兄さんが校門から出てきた。思っていたより早い。
「来るの早くない?」
「ちょっとな。……あと、今日は海人も来るらしいから」
昌幸兄さんは、わずかに口角を上げた。
(絶対、何かしたな。)
教頭先生に怒られていた件と、兄さんの妙に早い帰宅。どう考えても何かある。
……まあ、それは置いておくとして。
「海人さんが来るの!?」
俺は思わず声を上げた。海人さん。
本名――海瀬海人。
昌幸兄さんとは昔からの知り合いらしい。だが、この人には少々、いやかなり怖い噂がある。
――カタギじゃない。
実際、以前一緒に風呂に入ったとき。背中には立派な鯨が彫られていた。
しかもデカい。そして本人もデカい。
還暦を迎えているらしいが、全くそうは見えない。筋肉は今でも隆々。
顔も怖い。声も怖い。雰囲気も怖い。
……うん。普通に怖い。
でも。頼りがいは、めちゃくちゃある。
義理堅いし、一度決めたことは決して曲げない。
弱い者いじめが大嫌いらしく、以前はいじめっ子を締め上げたという話もある。
そのせいか、この辺りの学校では、
『いじめをしたら海人さんが来る』
という謎の都市伝説が生まれている。そして実際、この辺りの学校にはいじめがほとんどない。
……効果、絶大すぎない?
「問題があるのか?」
昌幸兄さんが首をかしげる。
「海人おじさん、優しいよ?」
彩花姉ちゃんも続ける。
「分かってるよ。ただ、珍しいなって思っただけ」
断じて、ビビっているわけではない。…本当に。
一度、俺が嘘をついたとき。
「……将也。何か、言うことはないか?」
と、海人さんに詰められた結果、おしっこをちびりそうになったことがある。
そのトラウマがあるわけでは、断じてない。……断じて。
公園の中を通り、会場となっている家へ向かう。誕生日パーティーでも開くのだろう。
そんなことを考えながら歩いていた、そのときだった。
「あれ、何?」
俺は、公園の奥を指差した。
そこには――黒い、何かがいた。
四本足。大きさは、ちょうどジャングルジムほど。
それが、公園の中をゆっくりと歩いている。
「……何、あれ」
彩花姉ちゃんの声が震えた。昌幸兄さんは、それをじっと見つめる。
数秒の沈黙。
そして。
「仕方ない。回り道をするか」
昌幸兄さんが静かに言った。
俺たちはその場で回れ右をする。
――その瞬間。
パキッ。
「……あ」
足元で、小枝が折れた。俺は恐る恐る下を見る。
……踏んだ。完全に踏んでいた。
(やっちまった……。)
ゆっくりと、視線を前へ戻す。
黒い何かが――こちらを見ていた。
「……やばくね?」
「こりゃ、死んだな」
「……」
誰も否定しなかった。そして…黒い何かが動いた。
「――っ!?」
こちらへ向かって、走ってくる。
「将也! 彩花を連れて走れ!」
「え?」
放心していた俺の意識を、昌幸兄さんの声が引き戻した。
……だが。
「聞こえなかったか?」
「聞こえたよ! でも、それは兄さんが――!」
「私はいい」
昌幸兄さんは即答した。
「誰か一人が犠牲にならなければ、あれは止められん」
「でも!」
「パーティーの主役は必要だ」
昌幸兄さんは、いつものように穏やかな声だった。そして冷静だった。
「それに、私では足手まといだ。彩花を逃がすための体力もない」
「だから、囮になる方がいい」
「……っ」
何も言い返せなかった。言葉が出てこない。
「姉ちゃん! 逃げよう!」
「えっ、ええ!?」
放心していた彩花姉ちゃんの手を引っ張る。
回れ右。
そして――走った。
昌幸兄さんの覚悟を、無駄にしたくなかった。
「ああ、そうだ」
背後から声がした。
「一つ、言い忘れていた。将也!」
俺は走りながら、ちらりと振り返る。昌幸兄さんが――笑っていた。
「誕生日おめでとう!」
そして。
「元気でな」
手を振っていた。
その瞬間。
巨大な黒い腕が、昌幸兄さんへ振り下ろされようとしていた。
「兄さん――!」
俺は顔を戻した。
走る。ただ、走る。
――ドォォォンッ!!!
直後。地面を震わせるほどの轟音が響いた。
「…………っ」
胸が、キリキリと痛い。叫びたかった。振り返りたかった。
けれど―俺は彩花姉ちゃんの手を引っ張って、無我夢中で走った。
どれくらい走ったのか。息が切れる。足が止まる。
恐る恐る後ろを見る。
……幸いなことに。
あの黒い化け物は、追ってきていなかった。
(……辛い。)
「姉ちゃん……ごめん」
気づけば、涙がこぼれていた。
「まさくん、大丈夫」
彩花姉ちゃんが優しく言う。
「お兄ちゃんも、きっと無事だよ」
「きっと海人さんが、どうにかしてくれるから」
「……うん」
情けなかった。耐えきれなかった。俺は泣いた。
そんな俺を、彩花姉ちゃんは優しく抱きしめてくれた。
温かい。落ち着く。
「まさくん」
「……ん?」
「一緒に戻ろう?」
「……うん」
しばらくして、俺は涙を拭いた。そして彩花姉ちゃんと、再び手をつなぐ。
今度は俺から、強く握った。
「行こう」
「うん」
再び歩き始める。
――そのときだった。
周囲が、急速に暗くなり始めた。
「……?」
空を見上げる。夜の帳が落ちようとしていた。
……いや。
(落ちようとしてた?)
違う。
「姉ちゃん」
「……なに?」
「おかしくない?」
俺は空を指差した。
「夜が……落ちてきてる」
「…………」
彩花姉ちゃんは何も言わない。
夜闇が。空から、ゆっくりと。まるで重力に従うかのように――落下していた。
「大丈夫」
彩花姉ちゃんが、俺の手を強く握る。
「お姉ちゃんが、ついてるから」
けれど、その手は震えていた。姉ちゃんも怖いんだ。
それでも、歯を食いしばっている。俺を安心させるために。
「姉ちゃん……」
夜が落ちる。空を覆う闇が。街を。公園を。世界を。少しずつ飲み込んでいく。
そして――俺と彩花姉ちゃんも、その闇に飲み込まれた。
「……っ」
息が苦しい。酸素が薄い。頭がぼんやりする。意識が、遠のいていく。
「姉……ちゃん」
「まさ……くん……」
もう、お互いの姿は見えない。唯一。
つないだ手だけが、そこにある。俺は必死にその手を握った。
離したくない。絶対に。
――けれど、その感覚さえも少しずつ曖昧になっていく。
「……姉、ちゃん」
「……まさ、くん」
声が遠い。手の感触が遠い。
そして。俺は、意識を手放した。
――この日。突如として。世界の終末が訪れた。




