第一話 百万円の嘘
人は嘘をつく。
それが当たり前だからこそ、
誰も気付かない嘘がある。
人は一日に何回嘘をつくと思う?
神崎悠真はその質問をよくする。
相手によって答えは違う。
三回。
十回。
五十回。
だが正解はどうでもいい。
大切なのは、その質問をされた人間が必ず考え込むことだ。
考える。
迷う。
記憶を探る。
その瞬間、人間は隙を見せる。
神崎はその隙を見るのが好きだった。
そして。
利用するのがもっと好きだった。
―――
午後三時。
都内のカフェ。
窓際の席に若い男が座っていた。
スーツ姿。
二十代後半。
落ち着かない様子で何度も時計を見る。
神崎はその向かいに腰を下ろした。
「初めまして」
「か、神崎さんですか」
「そうです」
「本当に助けてください」
男は深々と頭を下げた。
名前は佐藤健一。
会社員。
神崎のもとへ相談に来た依頼人だった。
「話を聞きましょう」
「実は……百万円騙されたんです」
神崎は黙ってコーヒーを飲む。
「相手は投資家でした」
「なるほど」
「絶対儲かるって」
「それで?」
「全部嘘でした」
神崎は微笑んだ。
「本当に?」
「え?」
「全部嘘だったんですか?」
「そうです」
「絶対に?」
「はい」
神崎はテーブルを指で叩く。
一回。
二回。
三回。
男は緊張していた。
「面白いですね」
「何がです?」
「あなた、今三回嘘をつきました」
男の顔色が変わった。
「な、何を」
「まず一つ」
神崎は言う。
「あなたは投資話を信じていた」
「もちろんです」
「違います」
「え?」
「本当に信じていた人間は契約書を読まない」
「……」
「あなたは隅々まで読んでいる」
沈黙。
「ペンだこがある」
「……」
「普段から細かい字を読む仕事をしている」
神崎は笑う。
「あなたはリスクを理解していた」
男の唇が震える。
「二つ目」
神崎は続けた。
「絶対儲かると言われた?」
「はい」
「嘘です」
「なぜ」
「そんな言葉を使う詐欺師は三流だから」
「……」
「今どきはもっと上手い」
神崎は言う。
「高確率」
「限定案件」
「成功者多数」
「そういう曖昧な言葉を使う」
男は何も言えない。
「そして三つ目」
神崎は身を乗り出した。
「あなたは騙された被害者じゃない」
「……」
「共犯者ですね」
空気が凍った。
男の額から汗が落ちる。
「な、何を言って」
「百万円を失った」
「そうです」
「でも口座には二百万円入っていた」
男の顔色が消えた。
「なぜ分かる」
初めて敬語が消える。
神崎は心の中で笑った。
当たりだ。
今のはハッタリだった。
だが相手は反応した。
つまり真実だった。
「簡単です」
「……」
「人間は隠したい情報ほど、自分から教えてくれる」
男は拳を握る。
「誰に聞いた」
「誰にも」
「嘘だ」
「そう思いますか?」
神崎はコーヒーを飲む。
実際、本当に誰にも聞いていない。
男の腕時計。
スーツ。
靴。
全部が不自然だった。
年収四百万円程度。
だが身につけている物は八百万円クラス。
急な金が入った人間の典型。
だから賭けた。
そして当たった。
「神崎さん」
男が低い声で言う。
「帰ります」
「どうぞ」
「依頼は取り消しで」
「もちろん」
男は立ち上がった。
その時。
「ところで」
神崎が言う。
「警察には行かない方がいい」
男の足が止まる。
「なぜ」
「あなたが捕まるから」
完全な沈黙。
男は振り返らなかった。
そのまま店を出ていく。
神崎は窓の外を見る。
男は走っていた。
逃げるように。
追われるように。
「面白い」
神崎は呟く。
本当に面白いのはここからだった。
なぜなら。
店の入り口から新しい客が入ってきたからだ。
黒いスーツ。
長い黒髪。
鋭い目。
女性だった。
彼女は神崎の前に座る。
「初対面ですね」
「そうですね」
「私は黒崎玲」
名刺が差し出される。
神崎は見る。
警察庁特別捜査課。
その文字に思わず笑った。
「なるほど」
「何がおかしいんですか」
「あなた」
神崎は言う。
「五分前から外で聞いてましたね」
黒崎の目が細くなる。
「証拠は?」
「ありません」
「なら」
「でも事実です」
「……」
「右手に紙コップの跡があります」
黒崎は黙る。
「向かいのコンビニのコーヒーですね」
「続けて」
「でも氷は溶けていない」
「……」
「買って十分以内」
「……」
「さらに私が来た時、窓際を見ていた」
神崎は笑う。
「観察していたんでしょう?」
黒崎は数秒黙った後。
小さく息を吐いた。
「噂通りですね」
「悪い噂ですか」
「最悪です」
神崎は楽しそうに笑う。
「それで?」
「依頼です」
「警察が?」
「ええ」
黒崎は一枚の写真を置く。
そこには男が写っていた。
高級スーツ。
穏やかな笑顔。
誰が見ても成功者。
「この男を知っていますか」
「知りません」
「詐欺師です」
「ほう」
「被害総額は百億以上」
神崎の興味が動いた。
「捕まらない?」
「証拠がない」
「珍しいですね」
「もっと厄介です」
黒崎は静かに言った。
「誰も彼を嘘つきだと思わない」
神崎の笑みが深くなる。
それは面白かった。
とても。
「名前は?」
「天城誠」
黒崎が答える。
「通称―――」
そこで言葉を切る。
そして言った。
「嘘をつかない詐欺師」
神崎は初めて心から笑った。
それは獲物を見つけた捕食者の笑みだった。
「いいですね」
「受けますか?」
「もちろん」
神崎は立ち上がる。
「人生で一番面白そうだ」
こうして。
人の嘘を見抜く男と。
嘘をつかない詐欺師の戦いが始まった。
まだ誰も知らない。
この事件が日本中を巻き込む心理戦の幕開けになることを。
黒崎は写真をテーブルの上に滑らせた。
神崎は受け取る。
写真の男。
天城誠。
年齢は三十代後半だろうか。
整った顔立ち。
柔らかい笑顔。
高級そうなスーツ。
どこにでもいそうな成功者だった。
だからこそ厄介だ。
人間は危険そうな人間を警戒する。
だが。
善人そうな人間には簡単に心を許す。
「被害者は何人です?」
神崎が聞く。
「確認できているだけで百二十七人」
黒崎が答える。
「多いですね」
「ですが被害届は三十二件だけです」
「なるほど」
神崎は笑った。
面白くなってきた。
普通の詐欺なら被害者は怒る。
騙されたと叫ぶ。
警察へ行く。
だが。
被害者の大半が動いていない。
つまり。
何かがある。
「被害者はまだ信じている?」
「ええ」
黒崎は頷く。
「金を失った今でも」
「宗教ですね」
「私達もそう考えています」
神崎は椅子にもたれた。
人間は面白い。
自分が騙されたと認めるのは苦痛だ。
だから。
騙された証拠が増えるほど信者になる。
認めた瞬間。
自分が愚かだったと認めることになるから。
「天城は何を売ったんです?」
「夢です」
「曖昧ですね」
「だから捕まらない」
黒崎はファイルを開く。
中には契約書のコピー。
神崎は読み始めた。
一行。
二行。
三行。
十行。
二十行。
そして。
「はは」
思わず笑った。
「何ですか」
「天才ですね」
神崎は本気で感心していた。
契約書には一つも嘘がない。
収益保証なし。
利益保証なし。
元本保証なし。
投資判断は自己責任。
全て書かれている。
完璧だ。
「これじゃ勝てない」
「でしょう?」
黒崎は苦い顔をした。
「ですが人は金を払う」
「何故だと思います?」
神崎が聞く。
「カリスマ性?」
「違う」
「話術?」
「違う」
「なら何です」
神崎は契約書を閉じた。
「人は嘘で騙されない」
「……」
「人は自分の願望で騙されるんです」
黒崎は黙った。
その言葉は妙に重かった。
「宝くじを買う人間がいる」
神崎は続ける。
「一等が当たる確率なんて知ってる」
「ええ」
「でも買う」
「夢を見るから」
「その通り」
神崎は写真の天城を見る。
「この男は夢を売っている」
「だから厄介なんです」
「ええ」
神崎は頷いた。
嘘をつく詐欺師は簡単だ。
嘘を証明すればいい。
だが。
真実しか言わない詐欺師は違う。
人間の欲望そのものを利用している。
「会わせてください」
神崎が言った。
「誰に?」
「被害者に」
黒崎は少し驚いた顔をした。
「天城じゃなくて?」
「先に被害者です」
「理由は」
「敵を知りたいなら」
神崎は笑う。
「まず信者を知るべきでしょう」
黒崎は数秒考えた。
そして。
「分かりました」
そう答えた。
その時だった。
神崎のスマホが震えた。
画面を見る。
知らない番号。
「出ます?」
「ええ」
神崎は通話ボタンを押した。
「もしもし」
『初めまして』
男の声だった。
落ち着いた。
穏やかな。
不思議と警戒心を抱かせない声。
『神崎悠真さんですね』
「そうですが」
『お会いしたことはありませんが』
男は笑った。
『あなたのことは知っています』
神崎の目が細くなる。
「誰ですか」
数秒の沈黙。
そして。
『天城誠です』
空気が変わった。
黒崎が顔を上げる。
神崎はスピーカーにはしない。
ただ黙って聞く。
『驚きましたか?』
「少しだけ」
『嘘ですね』
神崎は笑った。
面白い。
本当に面白い。
『警察と接触したそうですね』
「情報が早い」
『人脈が広いので』
「そうですか」
『お願いがあります』
「何でしょう」
『私を調べないでください』
神崎は吹き出した。
「それは無理だ」
『でしょうね』
「なら何故言う?」
『試しただけです』
天城は笑った。
まるで旧友と話しているような自然さだった。
『ところで神崎さん』
「はい」
『あなたは今、私を危険人物だと思っていますね』
「そうかもしれない」
『それも嘘です』
神崎は黙る。
『本当は』
天城の声が静かになる。
『私に興味を持っている』
「……」
『違いますか?』
図星だった。
だから神崎は笑う。
認める代わりに。
笑う。
『やはり面白い人だ』
天城は言う。
『では一つだけ忠告を』
「聞くだけ聞きましょう」
『今回の件』
声が変わった。
初めて。
ほんの少しだけ。
冷たくなった。
『最後まで調べると後悔します』
通話が切れた。
店内に静寂が落ちる。
黒崎が聞いた。
「本人ですか」
「たぶん」
「録音を」
「必要ない」
「何故」
神崎は立ち上がった。
そして。
人生で久しぶりに感じた感覚を言葉にする。
「ワクワクしてるから」
天城誠。
嘘をつかない詐欺師。
そして。
自分から接触してきた男。
このゲーム。
想像以上に面白くなりそうだった。
その嘘に気付いた時。
物語の見え方は変わるかもしれません。
また次話でお会いしましょう。




