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贈鎖

 贈り物には三つの鎖がある。

 与える鎖。受け取る鎖。返す鎖。


 もっとも美しく装われた鎖ほど、外そうとした時にはじめて首を絞める。



 ――マルセル・モース『贈与論』より



 ◇



 白咲が青白い火花を曳いた。


 胴を両断された機械仕掛けの人形が、腹の底から部品と火の粉を撒き散らして軋みながら崩れていく。わたしはその残骸を踏み越え、振り返りもせず次の影へ走った。


 踏み込みが荒い。自分でもわかっていた。息は疾うに乱れ、足の裏は石畳を蹴るたびに鈍い熱を孕み、足首の奥では骨とも腱ともつかぬ何かがひとつ、嫌な音を立てて鳴った。


 それでも止まらない。否、正しくは止まれなかったのだ。


 みっともない、と思う。たかが討伐数を競うだけでこんなに必死になって。いつもの「クールなここちゃん」はどこにもいない。今この瞬間も、配信の向こうの何万人かがこの惨めな疾走を瞬きもせず見ているはずだった。――それでもわたしは速度を緩められなかった。緩めたくなかった。


 ネオンの死骸みたいな看板が、頭上でちかちかと明滅している。壊れたホログラム広告が、誰もいない通路で延々と同じ笑顔を再生し続けていた。天井から垂れた配線の束。その隙間を、目玉みたいな配信カメラが音もなく追いかけてくる。


 秋葉原ダンジョン。電子の廃墟。そしてわたしの隣を、信じられないくらい涼しい顔で並んで走っている女が一人。



「ここちゃん、配信で見た時よりずいぶん飛ばすねぇ。体力ダイジョブそ?」



 橘シオン。


 長い指がひらりと宙を撫でると、紫の刃が三本、音もなく空間に生まれた。刃はそのまま魔物をホーミングし、群がってきた人形型を一息に串刺しにする。汗ひとつかいていない。退屈なゲームでも眺めているような顔で。



「あ。これで、ボクが――二十八。ここちゃんは、ええと……今ので二十、くらいかなぁ? あれぇ、差、開いてきてない?」

「……っ」

「いいねぇその顔。……気づいてる? ここちゃん、焦ると右の奥歯を噛むんだ。さっきからずーっと。必死で悔しくて、それでも追いつけないって顔。それをこんなに近くで見られて――ボク、得しちゃったなぁ。……でも、その可愛い顔だけじゃ『報酬』は手に入らないよぉ?」



 わたしは奥歯を噛んだ。この女、一挙手一投足がいちいち腹が立つ。でも、そんなに腹の立つ相手に今のところ何もかも負けてるのも事実で。そこだけは言い訳のしようがなかった。


 ユニークスキル『道化クラウン』。あの女を中心に、目には見えない円があるのだという。その内側では武器が生まれ、間合いが歪み、魔物の視ているものさえ書き換わる。円の中では、シオンの吐いた嘘がそのまま世界の法になる。


 現に、わたしのすぐ脇では、人形の群れがありもしない獲物へ向かって虚しく腕を振り下ろしていた。シオンが円の内に置いた、もう一人のわたし――白い髪をした嘘の少女へ。本物のわたしには指一本触れさせぬまま、偽りのわたしばかりを嬲らせて、あの女は涼しい顔で笑っている。趣味が悪い。悪趣味にも程がある。


 そういう芸当を、あの女は息ひとつ乱さず、わたしの限界速度に平然と並びながら片手間でやってのけていた。


 まあ当たり前だ。死線を潜り抜けてきたギルド直属の『上位調査官』。前線で囁かれる『Aランク最速』のふざけた異名は伊達じゃない。一瞬の隙に反応する瞬発力、異常なまでの空間知覚。あのへらへらした道化のツラの裏に、才能と血のにじむような研鑽を隠してトップランカーまで上り詰めた本物の強者だ。


 性格はどうしようもなく終わっていても、まだC級になって数年のわたしとは、立っている地平の高さが違いすぎる。



 “ここちゃん今日どうした?”

 “隣で煽ってるの橘シオンじゃね?”

 “出た。協会所属の探索者でトップ争うレベルで性格が悪いことで有名な人”

 “大阪支部長おちょくり倒してしばらくダンジョン周回の罰くらってたのに余裕の顔してたあのシオン”

 “しかもその素材全部ギルド収益で実質タダ働き。自業自得で草”

 “でもちゃんと強いんだよね。救難信号あったら休日でも助けに来るしな。性格はあれだけど”

 “子供には優しいんだよ。性格は……一万歩譲ってトントンかな”

 “で、そんな性格クソ野郎とうちらの天使が討伐数の競い合いしてるのか?”

 “まず出会いはどこ??”


 “ここちゃんC級でシオンA級だぞ。勝負になるんか”

 “四年でC級にのし上がったけど、ランク二つ上に挑むの無謀では…?”

 “でもここちゃんさっきから普通にBと同じぐらい俊敏というか”

 “前よりも強くなってる気がする?”

 “それは逆になんでだよ”


 〈百合提督〉:“女同士の勝負……取り合い……今夜どっちが添い寝するかの勝負か?!”

 〈兄勢〉:“落ち着け提督。自分の性癖妄想を周囲にまき散らすな。だが、百合三人前までなら問題ない”

 “提督と偽兄がご乱心です”

 “お前も落ち着け??”

 “三人……クロエちゃんどこよ?”



 ふと前を見る。


 さっきまでは三人で戦っていた。けど途中でクロエさんが「お前ら遅いから先行く」と言い残して、少し前のほうで暴れているはず――なんだけど。


 ……あれ。クロエさんがいない。


 ずっと先のほう。通路の奥から、何か巨大なものが圧し潰される音だけが、途切れ途切れに響いてくる。岩が砕け、床が揺れ、そして次の刹那には、嘘のような静寂が落ちる。あの人が通り過ぎた後にはこういう、もののけじみた静けさばかりが残される。



 “クロエちゃんどこ行った”

 “もう先行ってて草”

 “姿すら見えないのウケる”

 “バイク?”

 “いや人型ジェット機だろ”

 “これ攻略配信じゃなくて追跡配信なんよ”

 “秋葉原ダンジョンくん、泣いていいぞ”

 TRANSLATED:“ワタシ ノ ヨメ ガ ニゲテ イク”

 “お前……面白れぇ冗談言うんだな、殺すぞ?”

 “あかん外国人肯定する人、血管プッツンしてない?”



 わたしは思わず叫んだ。



「クロエさん!? 配信中です! 配信中ですからね!? ちゃんと映ってください!」



 通信に、気だるい声が一つだけ返ってくる。



「おせぇんだよ。雑魚ばっかで、ちっとも歯ごたえがねぇ」



 “言い分が自由すぎる”

 “協調性の欠片もない女。イイ”

 “もうこの子止められる人類おらんやろ”

 “ここちゃん頑張れ。追いつけるとは言ってない”



 ……どうして。どうしてこんなことになったんだろう。


 白咲を握り直しながら、わたしはほんの数時間前のことを思い返していた。



 ◇



 話は、数時間前に戻る。


 わたしの、ささやかでラブラブだったはずの同居生活に、クロエさんをNTRした(してねぇよ)あのクソピエロと、白い封筒が届いたのは、その日の昼のことだった。


 クロエさんのマンション。リビング。テーブルの真ん中に、その封筒は置かれていた。上質な白い紙。封蝋には黒い羊の角を象った小さな紋章。宛名は「如月ここ様」。差出人は、探索者奨学支援財団『黒羊会』東京支部。


 わたしが封を切ろうとペーパーナイフを手に取ると。



「はい、ストップ」



 横から伸びてきた長い指が、封筒の端を押さえた。



「……わたし宛なんですけど」

「だから止めてるんだよ、ここちゃん」



 シオンは封筒を、わたしの手からそっと抜き取る。そこから先は無言だった。


 端を指の腹でなぞり、封蝋の紋章を灯りに透かし、紙の厚みを確かめる。便箋の角に、ぴ、と爪を当て、鼻先に寄せて匂いを嗅ぎ、指先に薄く魔力を通す。一度だけ目を細めた。最後に封筒を耳のそばで軽く振って――それで終わり。


 その手つきには道化の影も差していなかった。獲物の腹を裂く前に、その肉づきを丹念に検める――そういう、酷薄なほど丁寧な所作だけがそこにあった。へらへらした道化の女じゃない。ギルド直属の上位調査官の、本物の手つきだった。


 クロエさんは、ソファの上からそれを興味深そうに眺めている。何をしているのかはたぶん理解していない。ただシオンの様子から「害にならない」とだけ判断したらしく、また焼き菓子に手を伸ばしていた。……ちょっとお菓子、減らそうかな。


 シオンは検査を終えると、封筒をわたしへ返した。



「はい」

「……はい、って」



 それ以上、シオンは何も説明しない。


 わたしは渋々、封を切った。中から出てきたのは、数枚の便箋と一枚の面談案内。


 便箋の一枚目は、わたしへの賛辞から始まっていた。ただしその文体は、賛辞というより検品票に近かった。


『如月ここ氏。孤児院出身者でありながらC級到達という稀有な経歴を有し、若年層への波及力、配信媒体における訴求力、ならびにユニークスキル「拒絶」という極めて希少な特性を併せ持つ。当会はこれを、育成対象として高い価値を認めるものである』


 育成対象。高い価値。


 そういう言葉で、わたしは頭から爪先まで丁寧に値踏みされていた。


 そのうえで、わたしを『特別育成枠』へ招待したいと書かれていた。装備の支援。活動費の補助。配信契約の管理。法務と収益の代行。そして――非公開治療研究プログラムへの、適性確認のお願い。



『如月ここ様が特別育成枠として正式にご招待をお受けくださった場合、貴女のご出身施設への支援につきましても、当会が全面的に協力させていただきます』



 ……出身施設。わたしの、孤児院。


 その四文字を見た瞬間、便箋を持つ指に、知らないうちに力が入った。


 ああ、これはよくないやつだ。


 こう見えてわたしにだって警戒くらいはできる。身寄りのない施設育ちの子供。そういう人間のところには、昔からやたらと甘い話が寄ってくるものだ。優しい顔をして、こちらの一番柔らかいところへ迷わず手を伸ばしてくる大人を、わたしは何人も見てきた。


 というより――一度、ある。ずっと前に。差し出された手を疑いもせず握り返して、ひどい目に遭ったことが。あのときのことを思い出すと、今でも背中が冷たくなる。


 あの時はまだ『姉』がいたから、何事もなく終わった。


 だからあれ以来、この手の話に対するわたしの勘は、昔よりずっと過敏になっていた。


 だからわかる。これもきっと、その手のものだ。


 だから断る。断ろう。そう思って、もう一度だけ文面を読み返して――指が、止まった。



『なお、ご出身施設への支援につきましては、先取りでの開始を予定しております』



 ……順序がおかしい。おかしいぞこの文面。


 わたしが招待を受ける。それから支援が始まる。そういう話だったはずだ。


 なのに、この文面の中ではもう、支援が始まろうとしている。いや、もう始めていると言わんばかりの文面で色々と破綻している。


 頭の中で、嫌な想像がゆっくりと広がっていく。寄付金。設備の補修。医療費の補助。食費の支援。そういう話がもうとっくに、あの孤児院の――シスターたちの前に、差し出されているのかもしれない。


 断ったらどうなる。孤児院に迷惑がかかる。もしもう、あの子たちに期待させてしまっていたら。


 断りたいのに、断る方法が急にわからなくなった。


 ずっと黙っていたシオンが、わたしを見た。いつもの軽い調子じゃなくて、ほんの少しだけ声を落として。



「なんかいろいろ葛藤してるけど。行く気なら、これは一人で行っちゃだめだよ」

「それは、どういう……」



 言いかけたところに、ソファから雑な声が割り込んできた。



「じゃあ断ればいいだろ」



 クロエさんだった。膝の上の黒うさぎを抱えたまま、心底どうでもよさそうな顔で。



「だ、駄目です。孤児院のことも書いてあって……!」

「だから、断ればいいだろ。嫌なんだろ、それ」



 クロエさんの理屈はいつだって一直線だ。嫌なら断る。危ないなら捨てる。邪魔なら潰す。それでたいていのことを片付けてきたんだろう。でも今回ばかりはそう簡単じゃなかった。この手紙は、わたし一人の話じゃない。わたしの家族まで巻き込んでいるんだから。


 シオンが、手紙の端を指先で、とん、と叩いた。



「多分、ここちゃんならもう分かったけど、この手紙は『順序ぶっ飛ばしまくった脅迫手紙』なんだ」



 その声から、いつのまにかへらへらした湿り気が抜けていた。



「普通は、ここちゃんが招待を受けて、契約して、それから施設への支援が始まる。――でもこれは、先に施設のほうへ手を出そう、いや、出してるね」

「……それって」

「うん。要するに人質の仕込みだよ。ここちゃんが断っても、ここちゃん一人じゃ済まないように。断れない材料のほうを、向こうから先に揃えにきてるってわけ」



 わたしは、言葉を失った。



「……もう、行ってると、思いますか」

「この書き方なら。その可能性は高いねぇ」



 シオンは笑わなかった。それから便箋から視線を上げて、今度はわたしの目をまっすぐ見た。



「ていうかさ。ボクが正直、いちばんゾッとしたのはそこじゃないんだよねぇ」

「……え」

「ここちゃんがここにいること。向こうは、もう知ってる」



 シオンは、封筒の宛名を、とん、と指で叩いた。



「この住所に迷わず届いてる。つまり、ここちゃんがクロエちゃんの家に移ったことまで、もう掴まれてるってこと」



 言われて、初めて気づいた。宛名はわたし。届け先はクロエさんのマンション。当たり前みたいに、そうなっていた。



「ここちゃん、ここに越してきてまだ数日でしょ? 外部の財団が個人の引っ越し先をそんな早さで掴むなんて、本当ならできないんだよ」



 シオンの声から、ふっと軽さが抜けた。



「ってことはさ。今回の話で慌てて調べたわけじゃない。ずっと前から見てた。最初からここちゃんを狙ってた。――今回はたまたま、とんでもなく物騒なオマケまでくっついてきちゃっただけ」



 とんでもなく物騒なオマケ、と言いながら、シオンの視線がちらりとソファのクロエさんを撫でていく。


 背筋が冷たくなった。わたしがクロエさんに拾われるより、ずっと前から。もう、誰かに見られていた。そう考えた瞬間、足元の床がぐらりと傾いた気がした。



「無視すれば、もう一度来る」



 シオンは、淡々と続けた。



「断れば、まず孤児院に『確認』の連絡がいく。善意で始めた支援を続けていいものかどうか、心配そうな声でね。寄付は一旦保留。補修の話は立ち消え。担当の人が本当に困った顔で、シスターたちに頭を下げにくる。『せっかくのお話だったのに残念です』ってね。――そうやって誰も悪者にならないまま、ここちゃんが断ったせいで全部が止まった、っていう空気が出来上がっていくんだ」

「……それって」

「うん。どこを切り取っても、ただの親切。脅迫だって指させる場所がひとっつもない。むしろ親切にされた側が断るわけだから、ここちゃんのほうが薄情者みたいに見えちゃう。――そういうふうに、ぜんぶ計算して作られてるんだよ。気持ち悪いくらい丁寧に、ね」



 シオンは、一瞬だけ口をつぐんだ。その奥に、まだ何か言いたいことがあるみたいに。でもそれは飲み込んで、肩をすくめてみせる。


 そして、と、シオンは指を一本立てた。



「一人で行くのは論外。これは絶対」

「な、なんでですか」

「相手の用意した場所だよ。何をしてくるかわからないし、ここちゃんは孤児院っていう弱みを握られてる。丁寧な言葉でじわじわ詰められたら――ここちゃん、根が優しいからさ」



 シオンは、そこで一瞬、言葉を切った。



「……優しい? まあ、優しいから。たぶん変なところで、ぐっと飲み込んじゃうでしょ」

「今、ちょっと疑いましたよね!?」

「いやぁ。戦闘中のここちゃんを思い出すと、『優しい』って言葉が一瞬だけ迷子になるんだよねぇ」

「失礼ですクソピ…シオンさん」

「ここちゃんも大概だけどね???」



 ひとしきり笑ったあと、シオンは結論を置いた。



「だからさ。一番安全なのは、三人で行くこと」



 調査官として顔の知れた自分。超人気配信者のわたし。そして――。



「調査官のボク。超人気配信者のここちゃん。それから、天災……規格外の怪物が一体。この三つが揃ってたら、向こうも、少しは考えるよ」

「意味変わってない…」



 シオンの視線が、ソファのほうへ滑る。わたしもおそるおそるクロエさんを見た。クロエさんも、ジト目でわたしを見返してくる。



「……なんだよ」

「いや……暴れないでほしいな、と」

「お前は俺を、なんだと思ってる」



 クロエさんが、むっと頬を膨らませた。シオンがけらけら笑う。



「天災って言ったのは、ボクだけどねぇ」

「お前もあとでぶっとばすぞ」

「暴れないでって言われた直後に、それ言う?」



 ぐったりして、わたしが手紙の上に突っ伏したくなっていると、クロエさんが思いついたみたいに口を開いた。



「……めんどくせぇな。なら、配信で他のアホどもに相談すりゃいいじゃねぇか」「え?」

「なんのために配信やってんだ」



 クロエさんいわく。三人で手紙を睨んでいても答えは出ない。わたしが一人で考えすぎて、勝手に空回りしている。なら配信して、いろんな反応を集めればいい。全部を喋る必要はない。適当に誤魔化して相談すればいい。……ついでにダンジョンへ潜れば気も紛れる、というのが、たぶん本音だ。さっきからうずうずしているのが見えてしまっている。


 一理ある、気はする。でも、すぐに不安になった。



「でも、これ、あんまり広めないほうが……」

「まあ、そこは誤魔化せばいいんじゃない?」



 シオンが、軽い調子で乗ってきた。



「“友達の合コンに誘われたんですけど、行くべきですか〜?”みたいな感じで?」

「例えがひどいです」

「じゃあ、“怪しいお食事会に招待されました。行くべき?”とか」

「もっと悪いです!」

「似たようなもんだろ」

「違います!」



 結局、わたしは納得しきらないまま、流れに押し切られた。クロエさんが気に泣てたという、秋葉原ダンジョンへ配信をしながら潜る。気を紛らわせてコメント欄から世間の反応を見て――その間、たぶんシオンはわたしを見張れて、クロエさんは退屈しない。全員にとって都合がよくて、わたしにとってだけ、ちょっと不本意な結論だった。


 そうして配信の準備を整えて、いざ秋葉原ダンジョンへ向かおうとした、その時。シオンが「そうそう、それでね」と、何か思いついたみたいに、ぱちんと指を鳴らした。



「どうせなら、なにか競争をしないかい?」

「また、変なこと言い始めた……」



 わたしは思わず呟いた。まだこの人の中身はよく知らないけど、『道化師』シオンの噂は、探索者の間でそれなりに聞く。掴みどころがなくてろくでもなくて、人を煙に巻くのが得意な女。今のこの顔も、絶対に碌でもないことを思いついた顔だ。



「競争って、何をですか」

「簡単だよ。このダンジョンで、魔物の討伐数が多かったほうが、少なかったほうに、一つだけ『お願い』ができる。それだけ」



 たった一つの、シンプルなルール。普通の探索者なら、たぶん「面白そう」ってだけで二つ返事に乗るんだと思う。でも。ここには。Sランクの魔物すら、瞬きの間に挽き肉へ変える規格外の怪物が一体いる。



「……無謀すぎませんか??」



 わたしは半眼でシオンを見た。あの人の討伐数を、どうやって上回れっていうのか。スタート三秒で、勝負は終わっている。


 すると、シオンはにやりと唇の端を持ち上げた。



「だからさ。クロエちゃんを勘定に入れないなら。――いい感じに、面白くなると思わない?」



 ……なるほど。クロエさんを除けば、たしかに勝負にはなる。でも、わたしは首を横に振った。



「わたし、そういう勝負は、あまり好きじゃないんです」



 ずっとソロで潜ってきた。誰かと討伐数を競ったことなんて、一度もない。それに――わたしが育った場所では、誰かを蹴落として何かを勝ち取る、なんて考え方はあまり教わらなかった。数を競うために刃を振るうのは、なんだか、わたしにはしっくりこない。



「えぇ〜」



 シオンが大げさに肩を落とした。かと思えば、するりとわたしのほうへ距離を詰めてくる。長い睫毛が、すぐ目の前まで近づいた。そして、その唇が、わたしの耳のそばで囁いた。



「でも――もし、ボクに勝ったら。クロエちゃんに、『命令』、できるかもしれないよ?」



 ぴくっ、と。わたしの肩が跳ねた。


 ……命令。クロエさんに。わたしが。


 頭の中で、いろんな映像がものすごい速さで再生されては消えていく。膝枕してください、とか。お菓子を半分こしてください、とか。一日だけ、わたしのお願いを聞いてください、とか。いや、もっと――いやいやいや、何を考えてるんだわたしは。


 でも。もし、それが本当にできるなら。


 頭の片隅はちゃんと冷めていた。相手はAランクで、わたしはまだC級。まともに数を競って勝てる道理なんてない。九割九分、いやそれ以上の確率で、負けるのはわたしのほうだ。そもそもこれが、わたしを乗せるための餌だってことも見え透いている。今のわたしは、シオンの手のひらの上で気持ちよく転がされているだけ。――そんなこと、全部わかっている。


 わかっていて、それでも。


 あの人にひとつだけ、わがままを言えるかもしれない。その甘ったるい響きの前では、勝率も相手の魂胆も、きれいにどうでもよくなってしまった。負けるとわかりきっている賭けの、ほんの一欠片の可能性に、わたしのほうから『欲』へ手を伸ばしてしまう。


 数秒、わたしは本気で考えて――そして、負けを承知で顔を上げた。



「……二言は、ありませんね?」



 わたしの目を見て、シオンがぴたりと動きを止めた。それから、にこぉ、と。道化の女が満面の笑みを浮かべる。



「よし、決まり!」



 ソファの上でその一部始終を眺めていたクロエさんが、焼き菓子をモグモグやりながら、ぽつりと呟いた。



「……つうか。なんで俺が、勝った奴の言うこと聞く前提になってんだよ」



 至極まっとうな疑問だった。けど誰も、それには答えなかった。



 ◇



 ──というわけで。


 現在、わたしは秋葉原ダンジョンの通路を、人生で一番納得のいかない速度で駆け抜けている。


 黒羊会の手紙。孤児院にもう伸びているかもしれない手。断ることも無視することも、どっちも怖い。そのうえ、妙に事情に詳しいシオンが、すぐ隣で涼しい顔をして走っている。もやもやした全部を、わたしは白咲の刃に乗せて、片っ端から魔物へ叩きつけていた。


 ――それに。勝てば、あの人に何か一つだけ命令できるかもしれない。その権利が、この討伐数のすぐ先にぶら下がっている。……いや、集中。集中しなきゃ。なのに、ふとした拍子に頬が勝手に緩みそうになる。だから速度が上がる。シオンへの対抗心と、ちょっとした下心で、さらに上がっていく。


 シオンは相変わらず涼しい顔で、わたしの半歩だけ前を走っていた。その余裕が、その性悪な笑みが、今日はとびきり癪に障る。



「ねぇ、ここちゃん。さっきからそんなに必死でさ。――もしかして、ボクに勝って、クロエちゃんに命令、したかったのかなぁ? ねえ、どんな命令? あの子に、なにを、してほしかったの? ほら、言ってごらんよぉ」



 うっ、と喉が詰まる。



「命令して、何させる気だったの? 膝枕してもらう? 頭、ずーっと撫でてもらう? ふふ。健気だねぇ、可愛いねぇ。――あ、これ今、世界中に配信されてるけど。大丈夫そ?」

「だ、黙っててくださいっ!」

「可哀想に。そんなに好きで、そんなに必死でも――今の君じゃ、ボクの『領域』には絶対、届かない。指の先っぽもかすりやしないんだよ。今ので討伐差、十二体。あはは」



 そこで、シオンの声の調子が、ほんの一瞬ずれた。



「……あぁ。でも、いいなぁ。そうやって、君が顔を真っ赤にして、悔しがって、それでも諦められないでいるの。――見てるとボク、なんだかすごく安心するんだよねぇ♡」



 その一言だけ、笑い方がどこか変だった。



「……っ、上等です。絶対、勝ちますから」



 わたしの宣言に、シオンは、にこにこと楽しそうに目を細めた。本当に、性根の腐った笑い方だと思う。



 “ここちゃんで完全に遊んでて草”

 “性悪お姉さんの本領発揮じゃん”

 “正直大好き”

 “そのまま踏まれて煽られたい”

 “ほんで分からせたい”

 “欲望に忠実すぎるだろこいつら”

 “『ボクの領域には届かない』とか真顔で言うな”

 “いや事実では? 相手A級だぞ”

 “ここちゃんC級なんだから勝負自体が無謀なんよ……でも応援したい”

 〈考察P〉:“討伐差十二は、ランク差を思えば寧ろここちゃんが異常。なんでAの人とちょっとの差しかないのだ”

 〈百合提督〉:“性悪お姉さんに玩具にされる雪の妖精……ひらめいた”

 “はい起訴”

 “判定:有罪ギルティ。死罪。死んでくれ”

 “てか今の『安心する』ってとこ、一瞬ゾッとしたの俺だけ?”

 “考えすぎだろ……たぶん”

 “で、結局なんの勝負なん?”

 〈兄勢〉:“理由はどうあれ、うちの子が泣かされてる。万死に値する”

 TRANSLATED:“ワルイ オンナ ダ。デモ スコシ スキ”

 “お前……分かってんじゃねぇか!!”



 わたしが白咲を握り直して、もう一度前を睨んだ、その時。ふと、視線を感じた。


 シオンが、わたしを見ていた。さっきまでの笑みは、少しだけ薄い。まるで、わたしがまだ知らない何かを、もう見てしまった人みたいに。


 でも、わたしと目が合った瞬間には、もう、いつものふざけた性悪の顔に戻っていた。



「ほぉら、白雪ちゃん。手が、留守だよぉ?」

「っ、わわっ……!」



 一瞬の隙を突いて、機械人形の腕が薙ぐように迫り――横から伸びた紫の刃が、それを根元から切り落とした。



「ふふ。あぶないあぶない。ボクがいなかったら、今ので二十九体目、もらってたのになぁ」

「わざと助けて恩を売らないでください!!」



 通路の先が、ふいに開けた。広い空間。その真ん中に、見慣れた小さな背中が退屈そうに突っ立っているクロエさんだった。



「遅い」



 振り返りもせずに、クロエさんが言う。



「クロエさんが、速すぎるんです……!」

「いやぁ、これはもう、人類側の問題じゃないねぇ」



 肩で息をするわたしと、けろりとしたシオン。そんなわたしたちの正面で、それは静かに起動した。


 それは、人の背丈の何倍もある巨大な「何か」だった。


 崩れたネオン看板を無造作に寄せ集めた頭部――いや、違う。寄せ集めたのではない。内側から噴き出した「それ」が、たまたま手近にあった看板や配線を、皮膚のように纏っているだけ。そう考えた途端、嫌な汗が背中を伝った。


 いくつもの広告の笑顔が、ばらばらの方向で明滅している。どれもこちらを見ているようで、そのくせ、どれ一つ何も見ていない。剥き出しの配線が太い腱のように束ねられ、その奥で、本来この街にあるはずのない、もっと古くてもっと大きな何かが、ゆっくりと身じろぎした気がした。


 秋葉原ダンジョン40Fの階層主。


 その怪物を見上げて、クロエさんがつまらなそうな目をすうっと細めた。



「んにゃ。これ、先にぶっ壊したほうがなんでも命令できるってことにしてやるよ!!」

「えぇ!?」



 思わず、間抜けな声が出た。その隣で、シオンが心底愉しそうに、ぱちん、と手を打つ。



「おっと。そうきちゃったか!」



 ぴかぴかと光る巨大な異形。それを見上げながら――でも、わたしの胸の奥にこびりついて離れないのは、目の前のこの怪物でも、この馬鹿げた騒ぎでもなかった。


 頼んでもいないのに、もう始まっているという優しい支援。


 その文字の白さのほうが、目の前のどんなものよりも、ずっと深く胸の奥へ食い込んでいた。

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