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招待状

「迷える子よ、来たれ。

 ここには屋根がある。パンの香りがある。

 冷たい雨を知らない暖炉がある。

 誰も置き去りにしない約束がある。


 翼を持たぬ者よ、伸ばせ。

 あなたの才能を、誰も嘲笑わない。

 あなたの光を、誰も消さない。

 ふさわしい器が、必ず用意されている。


 黒羊会は、あなたを待っている。

 門は開いている。

 優しい歌が聞こえる。


 ただし、歌が届くのは、中へ入った者のみ。」



 ――探索者奨学支援財団『黒羊会』入会案内・序文より



 ◇



 わたしの清らかな同居生活に、段ボールという形をした悪意が搬入されてきた。


 リビングの床を侵していくのは、どう見ても一般家庭の引っ越しには馴染まない代物ばかり。


 無駄に頑丈そうな黒いトランク。何に使うか分からないイカつい端末。用途が一ミリも想像つかない計測機材。とぐろを巻いた配線の束に、三脚へ乗った目玉みたいなレンズの群れ。


 極めつけは、どう見ても業務外の私物にしか見えない最高級のシルク毛布だ。



 ……引っ越しというより観測所の建設では?



「なんですかこれ」

「何って。見ての通り……お引っ越しだよ☆」



 諸悪の根源――橘シオンは、百八十センチの豊満な身体を軽快に揺らしながら、実におぞましいウィンクを投げてよこした。


 ガワだけは超一流の美女。なのに中身が救いようのない程性格が悪いクソピエロなので、動作のすべてが致命的に気持ち悪い。


 ……というか何、あの上から下まで無駄に発育のいい肉体は。


 身長。胸の質量。ウエストのくびれ。すらりと伸びた健康的な脚の長さ。


 2度見3度見して、その現実離れした容姿を持つクロエさんに対して、このクソピエロもとい、シオンは1目見たらずーっと目で追ってしまう美しさがある。腹が立つけど。


 下を向き、自分の貧相で凡庸な発展途上国の身体と比較してしまう。


 何ひとつとして一ミリも、これっぽっちも勝てている要素が見当たらない。完全敗北。悔しい。むかつく。なんだその無駄にデカい脂肪は。


 いやでも!︎︎クロエさんを想う気持ちの熱量だけは宇宙の果てまで行っても絶対に負けてないし???? 愛の深さならこっちが圧倒的完全無欠のナンバーワンだし???? 別にスタイルなんてどうでもいいが???? クロエさんだってちっちゃいのが好きって配信で言ってたし実質わたしの勝ちだが????


 わたしは内心で全力の負け惜しみを並べ立て、シオンの存在そのものに猛烈に「むっ」と眉を寄せた。


 別に虚しくなってないし。



「引っ越しじゃない。侵略です。なに我が物顔でリビングを物とその無駄にデカい脂肪で占領してるんですか」

「冷たいなぁ、ここちゃん。ボクだって、好きで女の子二人の秘密の花園に割り込んだわけじゃないんだよ? これは正式な『監視任務』。超過特級案件のクロエちゃんを、二十四時間体制で記録する、とっても真面目なお仕事なのだよ。それと途中私怨混ざってない???」

「その割に、さっきから機材のレンズが全部クロエさんの部屋に向いてる気がするんですけど。なんならクロエさんの姿も録画してる気がするんだけど」

「気のせいじゃないかなぁ。それと無視しないでぇ~」

「うるさいです。さっさとその時期外れに巨大化したかったいカボチャ二つを廃棄物処理場に捨ててきてください。そしてそのまま貴方もゴーです」

「わぁ〜☆︎︎あの可愛いここちゃんがグサグサ言葉で刺してくる〜☆︎︎羨ましいでしょ〜。でもクロエちゃんのおっぱいも相当おっきいけど、そこの所はどうなのぉ?」

「はっ!︎︎愚かです。貴女のフロントヘビーで品評会のカボチャみたいな下俗な肉を羨ましがる人はいません。ゴリラにでも捧げてきなさい。クロエさんのあの、首筋から鎖骨へ流れる白磁のラインを完璧に生かすための神山です。これぞ世界一可愛い自分自身を拝むために設計された『無原罪の神殿』の床座。余計な脂肪を削ぎ落としたからこそ、あの美乳があるのです。神です。エロいです。ユネスコの世界遺産です」

「なんだこのめんどくさいクロエ信者は」



 シオンはにこにこと、完璧に計算された『道化』の笑顔を崩さない。



「でもでも、ちゃあんとお仕事なんだよねこれが。対象の基礎代謝、睡眠周期、安静時の魔力波形。そういう微細な生活反応がぜんぶ、クロエちゃんの生態を解き明かすサンプルになるんだよねぇ……あ、これはボクの私欲じゃなくてね? ギルド本部から託された『必須回収データ一覧』っていう、ちゃんとした建前オーダーがあってさ」



 シオンは手元の端末をパチパチとタップしながら、さも重大な任務を読み上げるように、酷く真面目くさったトーンで言葉を並べ立てた。



「ええと、なになに? 『寝起きの無防備な掠れ声』『ちょっと眠そうな目元のマクロ撮影』『ベッドから無防備に投げ出された素足の、できれば指先からかかとまでの脚線美ライン』『ぶかぶかのシャツの裾が揺れた瞬間に、全方位から完全透過するお腹や脇、および鎖骨周辺の立体陰影データ』……うん。組織の要求は相変わらず過酷だねぇ。ボクの盗撮術の腕がなるね!」

「完全にただの組織ぐるみで行われてる公式セクハラの趣味じゃん?! よくもまあそんな全身余すところなくきれいに変態の解像度で描写できましたねマジでシバキますよ!? ギルドの上層部って頭の病院に通った方がいい特殊性癖持ちのロリコンしかいないんですか!!」

「お仕事と趣味を分けるなんて人生の損失だよ?」

「その趣味が終わってるんだ!」

「うーん。……否定は、しないかなぁ」



 へらりと笑ったまま、シオンはそこだけ、答えを少し濁した。


 なんだこの女。


 何を考えてるのか一ミリも分からない。


 わたしは背筋を這い上がる寒気を誤魔化すように、壁に立てかけた愛刀『白咲』へ無意識に手を伸ばしかけていた。



「ここ。ご飯まだ~?」



 殺伐とした空気を文字通り一瞬で霧散させたのは、ソファから響いた気怠げな声だった。


 黒に赤の差した髪を揺らした小柄な少女――クロエさんが、ネットで買い付けたらしい高級焼き菓子をモグモグ咀嚼しながら、底のない黒い瞳をこちらへ向けている。


 頬が、ほんの少しだけ膨らんでいる。リスみたいだ。可愛い。



「あ、すみません。今すぐ作ります。……って、そこのピエロ。あなたに食わせるハンバーグはありませんからね」

「ひどいなぁ。ボクの分は端材でいいからさぁ☆」

「聞いてないです」



 けらけらと中身のない軽さで笑うシオンを睨みつけ、わたしは調理場へ向かう前に、最大の懸案を思い出した。



「待って。ご飯の前に、部屋割りです。部屋割り」



 この高級マンションには寝室がいくつかある。


 玄関を抜けた先には、東京の夜景を丸ごと壁に貼りつけたみたいなリビングダイニングがある。馬鹿みたいに広い。床も壁も白く滑らかで、継ぎ目というものがほとんど見えない。家具の多くは壁や床に埋め込まれていて、必要な時だけ静かにせり上がってくる。


 庶民の感覚で言う家ではない。未来の展示場か、金持ちが正気を捨てて作った白い箱だ。


 その中央の大空間を挟んで、東西に生活区域が分かれていた。


 東側はクロエさんの領域。


 リビングから生体認証付きの隔壁ドアを抜けた先に、クロエさんの寝室がある。広さは普通のワンルームよりずっと大きい。中央には、どういう原理か分からない浮遊ベッド。壁の一面は鏡張りで、もう一面には衣装を管理するホログラム式のクローゼットが並んでいる。ナルシストの聖域だった。


 可愛い自分を眺め、可愛い服を選び、可愛い自分として眠るためだけに設計された、倫理観以外は完璧な空間。


 そして西側が、わたしとシオンさんを押し込むゲストゾーン。


 わたしの部屋はまだリビングに近い。白咲を立てかけても邪魔にならないくらいの広さがあって、普通のベッドもある。生活する場所としては十分すぎるくらい整っていた。


 問題はそのさらに奥。


 廊下の突き当たり。北西の角。


 そこにある、窓のない部屋だった。


 長期保管庫か、使い道のないデッドスペース? 的な部屋だと思っている。日当たりはない。外の景色も見えない。壁埋め込み式の折りたたみベッドと最低限の照明、協会の支給端末を置いたらもうかなりそれっぽい。


 つまり。


 このクソピエロは、クロエさんの自室からもっとも遠い場所へ隔離できる。


 広大なリビングを挟み、隔壁を挟み、廊下を挟み、カードキー式のドアを挟み、さらに窓なしの北西角へ封印する。


 当然このクソピエロを、クロエさんの自室からもっとも離れた北側の薄暗い部屋へ文字通り監禁する予定だ。



「えー。ボク、クロエちゃんの部屋で一緒に暮らす感じでもいいよ?」

「何言ってんですかこのクソピエロ?? そんなの絶対に許可しません。ありえない。わたしたちの神聖な空間を汚すな」

「たち……?」

「いやぁ、でも。クロエちゃんの返事を聞いてないよ?」



 シオンが肩をすくめ、視線をソファの主へと滑らせる。

 彼女は長い脚を滑らせるようにソファの背後へ回ると、クロエさんの耳元へ、音もなく顔を寄せた。

 豊満な胸元が、クロエさんの白磁の肩に触れそうな至近距離。


「ねぇねぇ、クロエちゃん。どう思う?」

「嫌に決まってんだろ」

「でも、二人きりの方が……『アッチ』も楽しめるんじゃない?」

「……ほう?」

「な、な、なにを…?!」



 アッチ…?!

 なんだ、なんだあっちって!!


 ……はっ!!


 わたしの思考が、すぐに嫌な答えが浮かんでしまった。


 クロエさんは、配信で全世界に晒してしまっている。鏡の前でうっとり自分の美貌に見惚れる、

 極限のナルシストっぷりを。誰より『自分自身』を愛していることを。魔物が蔓延るダンジョン内でも、自分に見惚れるほど。


 そして、シオンのユニークスキル道化クラウンは、クロエさんと寸分違わぬ姿を具現化できる。


 つまり。

 もしクロエさんが、自分の姿そのものを最高のお、オカズ……に、しているなら――同じ顔、同じ身体を作れるシオンは、最高の交渉材料になってしまう。


 2人になったクロエさん…うへ、それはそれで……。



「……ふぅん」



 底のない黒い瞳の奥で、戦闘狂特有の歪んだ好奇心がぴくりと光る。「俺が二人いる」という状況そのものを、ちょっと面白がっている目だ。

 わたしには分かる。これは興味を持った顔。最悪だ。


 絶望するわたしを横目に、クソピエロはさらにその長い指先を、今度はわたしの顎のラインへと音もなく滑らせてきた。

 ぞっとするほど綺麗な美女の顔がわたしのすぐ目の前まで迫る。その紫の瞳が、ねっとりとした淫らな光を帯びて歪んだ。



「それにさぁ。ここちゃん。ボクがクロエちゃんの姿になってあげれば……君と一緒にお風呂に入ったり、二人きりの寝室であんなことやこんなこと、色々とシちゃうこともできるんだよ……?」

「っ……あ、あんなことやこんなことっ!?」



 待って。


 何それ。


 それはつまり、見た目は完璧に世界一可愛いクロエさんなのに中身だけは合法的に動いてくれるクロエさん(偽物)が湯気の中で濡れた黒と赤の髪を揺らしながら「ここ、背中流して」とか言って、白い肌を密着させて、狭い浴槽の中で太ももとか胸とかがべったり隙間なくねっとり触れ合ってうへへ。


 夜のベッドでは「お前、俺のことが好きなんだろ」とかダウナーな掠れ声で囁きながらわたしの耳元で熱い吐息をかけながらわたしの──。



 ハッ。



 駄目だ。


 なにを考えてるのわたし!!



 危うくクソピエロの差し出してきた極上のハニートラップを、両手でがっつり掴んで貪り食うところだった。シスター。わたしは無実です。わたしのピュアな防衛壁が、邪悪な幻術によって一瞬だけドロドロのハッピーセットに改造されただけです。さすがはAランク道化師だ、人を惑わしやがりましたね!



「ぜっっったい駄目ですよ!!」



 かわいさのゲシュタルト崩壊で沸騰しきった顔のまま、わたしはセンターテーブルを飛び越える勢いで二人の間に割り込んだ。



「この人、協会から派遣された調査官ですよ! 自分で監視任務って言いました。絶対にナニカ企んでます。その薄汚いピエロの皮を剥いだら、中から何が出てくるか分かったもんじゃないんですからね。絶対に駄目。絶対に!」

「…うるさ」



 クロエさんは特に動じる様子もなく、いつものダウナーな調子で、わたしをあしらった。


 寝込みを覗かれようが、裏で何を企まれようが、彼女にとっては羽虫が顔の周りを飛んでる程度のうざさでしかない。自分の命を脅かす存在なんて、この世界には一匹もいないと確信しているから、何もしないのだ。


 ただ、目の前で顔を真っ赤にして息を荒くしているわたしが、なぜそこまで必死に止めるのかは彼女には理解できないらしい。


 この人の倫理観は、いつだって合理的な最短距離を選ぶ。



「じゃあ、ここも一緒に寝ればいいだろ。ベッド無駄に広いし」

「わーお。だいたーん♡」

「はぇ……?!」

「お前も、俺がコイツと二人きりになるのが嫌なんだろ?︎︎なら、お前も一緒にいれば解決のはずだ。見張りもできるし、文句はないだろ」



 白を通り越して、頭の中がピンク色の爆煙で満たされていく。



「さ、さすがに段階すっ飛ばし過ぎです!!」



 そ、そんなの心臓が持たない。


 毎日が限界突破無限コメディなのに、これ以上密度の高いイベントをぶち込まれたらわたしの精神が暗黒進化を遂げてしまう。


 これ以上摂取は、歯止めが効かなくなる!



「ご、ご飯作ってきます!!」



 わたしはフライパンを武器のようにひったくり、逃げるように台所へダッシュした。


 背後で、橘シオンの腹を抱えた爆笑が響き渡る。



「あはははは! 冗談だよ冗談☆ 流石に初日でそんなことしないよ! いやぁ、ここちゃんって本当に反応が美味しいねぇ」



 シオンは楽しげにトランクの取っ手を掴むと、指定された一番遠い部屋へ歩き出していった。


 リビングには、結局何が問題だったのか一ミリも理解していないクロエが首を傾げたままぽつんと取り残されていた。



「……アイツ、俺のことロリっつったなそういえば」



 ◇



「ここちゃん、ボクの卵焼きだけ、明らかに端材の寄せ集めじゃない?」



 三人分のハンバーグと副菜が並んだ食卓で、シオンが箸の先で黄色い塊を突いた。


 湯気の向こうで、黄身の断面が、やけに不揃いに光っている。



「個性です」

「クロエちゃんのだけ、ケチャップで可愛い猫の絵が描いてあるのは?」

「個性です」

「別に猫好きじゃないんだが」

「この家の個性、ボクに対してだけ氷河期並みに厳しくない?」

「当然です」



 わたしは生活防衛担当。あいつは敵。それだけの話だ。


 わたしが冷たい視線を維持していると、クロエさんがいつも通り、ハンバーグを迷いなく口へ運んだ。


 もぐもぐ。小さな唇の端に、ちょっとだけソースがついている。


 ……可愛い。



「ん、イケる」

「っ……ありがとうごじゃいます!!」

「それってほめてるの???」



 如月ここ、本日何度目か分からない尊死。


 それと黙りなさいピエロ。何も分かってないくせに余計な口を挟むな。


 あの人はもともと口数が少なくて表情もほとんど動かないんです。しかも食事中なんてこの前デートした時だってずっと無口が基本だったあのクロエさんが。わざわざ。わざわざ声に出して「イケる」と口にした事実がどれほど歴史的な大事件かお前みたいな有象無象に理解できてたまるか。



「よかったねぇ、ここちゃん。とりあえず胃袋だけは完璧に掴めてるみたいだよ?」

「変な、変な言い方しないでください。ただの同居人としての義務です」



 シオンのねっとりした煽りに、わたしは必死で顔の熱を下げようとした。


 クロエさんは、首を傾げたまま箸を動かす。



「胃袋は掴めないだろ。物理的に握り潰すなら別だが、あれはそんなに柔らかい臓器じゃないぞ」

「そういう話じゃないんですクロエさん……!!」

「それは俺のことをロリって言ったことと関係あるか?」

「さっきご飯前までそれでちょっと拗ねてたもんねぇクロエちゃん」

「は?︎︎んな訳ねぇじゃん。殺すぞ」

「待って、許しの段階がエレベーターみたいにどっか飛んでっちゃってる」

「煽らないでください、アホピエロ」



 クロエさんのこういうところだけ、純粋無垢な子供より危うい。

 それが、どうしようもなく愛おしくて。同時に、たまらなく不安だった。





 食後。リビングに満ちていた、弛緩した空気が、ふっと消えた。


 パチン、と小さな音がした。


 シオンが、それまで人差し指の先でくるくる回していた道化の三角帽を、テーブルの上に静かに置いたのだ。



「――さて」



 声の調子が変わった。


 さっきまで下品な冗談を撒き散らしていた女の軽さが、一瞬で抜け落ちる。


 わたしは背筋を走った緊張に、思わず姿勢を正していた。


 橘シオンの顔。唇の端はまだ笑みの形をしているのに、その奥の紫の瞳だけが、すっと凍てついている。


 これが、国際探索者管理協会の上位調査官という超エリートの、本物の顔。



「ボクが君たちの調査をしに来たってことは、言ったよね︎︎もともと隠れて細々と調査しようと思ってたんだよね、最初」



 シオンは、手鏡の中の自画像をうっとり眺めはじめているクロエさんを、淡い目で見やった。



「まぁ、無理でしょって」

「クロエさんの目をかいくぐって、バレないのは無理がある、と?」



 わたしが問い返すと、シオンは軽く肩をすくめた。



「まぁそれもある。しかもそのうえ、性格は配信で見た限り、マイペース☆――なーんて可愛い言葉じゃ全然足りない。自分勝手、自己愛過多、天上天下唯我独尊の塊。さらに、あの子は馬鹿じゃない。むしろ判断は笑っちゃうくらい合理的」



 シオンはけらけらと、わざとらしいお道化のトーンで語りながら、指先で器用に端末をパチパチとタップした。



「ただし。その合理の中心にあるのが、常に自分の欲から始msる。可愛い服が欲しいから配信する。甘いものが食べたいから稼ぐ。強い敵がいるなら潜る。邪魔なら殺す。気に入ったものは自分の檻《手元》に置く……そこにさ」



 ふっと、シオンの指先が止まった。パチパチという電子音が消える。



「善悪とか。社会通念とか。他人の都合が挟まる余地が、最初から一ミリも存在しないんだ」



 声からさっきまでの薄っぺらい笑いが消えていた。



「だから探索者というより、王……それも強さによるものだから、覇王ってのに近い。自分の前にあるすべてのものを、敵か、玩具か、資材か、気に入った所有物かでしか分類していない。たぶん、本人には悪意すら存在しないよ。……《《ルールそのものが違う世界から来たみたいにね》》」



 シオンは、そこでほんの少しだけ目を細めた。紫の瞳の奥が、ぞっとするほど冷たく研ぎ澄まされる。



「配信のアーカイブを何度スロー再生しても分かる。あの子は、人を殺す時に躊躇しないタイプだね。怒って殺すんじゃなく、恨んで殺すんでもない。必要なら息をするみたいに処理を施す。歩く邪魔な枝を折るくらいの軽〜い感覚でね」



 喉の奥が詰まった。呼吸が止まる。


 シオンの唇の端は、まだ三日月の形に歪んでいた。その紫の瞳は笑ってはいなかった。



「――な~んてね☆ たった数時間リアルであの子を見てきただけの自分が、勝手にそう結論に至っただけの憶測だよぉ☆︎︎そういうのがすぐわかるように、死線《現場》を潜って脳みそを鍛え直してるのもあるけどね」



 シオンはそこで、ゆっくりと視線を上げて、わたしの目を真っ正面から射抜いてきた。


 すべてを見透かすような、冷酷な上位調査官の目。



「それでも。ここちゃん。君ならもう、本当はとっくに分かっているはずだよ」



 指摘された瞬間、わたしの指先が、小さく跳ねるように強張った。



 ――分かっている。


 分からないはずがない。



 わたしは知っている。あの日、ダンジョンの下層で瀕死のわたしを拾った時の、あの人の底のない黒い瞳を。

 わたしを「外に置いとくと盗られるから」という理由だけで、自分の『マーキング』をつけて強引にこの檻《家》に閉じ込めた、あの平然とした顔を。


 あの人はいつだって、自分の欲と自分の意志だけを世界の中心に据えて、他人の都合なんて一ミリも視界に入れないまま、ただ最短距離で邪魔なものを壊して進む。


 悪意がないから。


 ただお菓子をモグモグするのと同じ調子で、世界のすべてを自分ルールで上書きしていくから。



 だからこそ、どうしようもなく美しくて。


 だからこそ、骨の髄が凍りつくほどに恐ろしい。



 シオンの言うことは、何一つとして間違っていなかった。


 わたしは膝の上のスカートを、爪が手のひらに食い込むほどの強さで握りしめることしかできなかった。



「クロエちゃんは可愛いよ。とびきりね」



 シオンはわたしの沈黙を肯定と受け取るように、冷たい笑みを唇に戻した。



「でも、可愛い顔をしたまま、人間を人間として見ない瞬間が確実にある。……ここちゃん。そこを見落としたら、たぶん死ぬよ。物理的にも、社会的にも、精神的にもね」



 氷の塊を喉の奥に押し込まれたみたいに。息が、詰まる。


 シオンの言うことは全部正しい。正しいのに。


 わたしは膝の上のスカートからゆっくりと手を離した。震える指先を、今度は自分の胸の真ん中へ、強く、確かめるように押し当てる。



「それでも」



 声は掠れなかった。



「たとえ、あの人にどんな打算があっても。なにか別の目的のついでに、わたしという存在を助けてくれただけだとしても。……わたしが、あの人に一目惚れしてしまったこの想いだけは、絶対に嘘じゃないから」



 シオンの紫の瞳が、わずかに見開かれる。


 わたしはソファの端っこで手鏡を覗き込んでいる、あの小さくてどうしようもなく不条理な背中を見つめた。



「わたしは、あの人にどこまでもついていきます。いつか……いつか、また、二人で同じ景色を見たいから」

「ふぅん?」



 わたしの発言に、シオンは一瞬だけ探るような視線を向けてきた。ただ、一瞬だけで、見間違いだとわたしは判断した。



(また……? この子たち、前にもどこかで会って――いや、それともまさか情報のリーク? 本部のデータベースが黒羊会か灰冠財団あたりにハッキング……でも如月ここにはそういう技術や伝手がないのは把握済み。別ルート…施設長、知り合い、孤児院……駄目だ、まだ情報が足りないねぇ)



 思考の海にドロップした、いくつもの最悪な仮説。だが、どれだけ演算の流路を回そうと、今この場で確定できるピースは何ひとつ存在しなかった。



(ま、今はいいか。後回し後回し☆ 謎解きは檻の外に出てからでも間に合うしねぇ)



 シオンの表面を覆う『道化の仮面』は、その不穏な違和感を秒速でおちゃらけた湿度の中に呑み込んでみせた。彼女はすぐにいつものにやにやとした意地の悪い笑顔を浮かべると、大げさに両手を頬に当てる。



「ん~☆ 性春だねぇここちゃん! 尊すぎてボクの汚い中身が浄化されちゃいそうだよぉ♡ ああいう甘酸っぱいエゴ、ボクも人生で一度くらいは味わってみたいねぇ……でもさぁ、さすがに本人目の前にしてそんな告白紛いのセリフ、ボクならもし恋をしたって恥ずかしくて口から吐けないかなぁ☆」



 ――は。


 本人。目の前。


 わたしは全身がぴしっと、完全にガラス細工みたいに硬直した。


 恐る恐る、錆びついた人形みたいな動作で視線をソファのほうへスライドさせる。


 クロエさんは、いつの間にか手鏡を机の上に置き、お菓子をリスのようにモグモグと両頬を膨らませて咀嚼しながら、底のない黒い瞳でじっとこちらを見ていた。


 最初から最後まで、わたしの限界突破なポエムを全部生々しい距離で聞き届けていた。


 は、恥ずかしすぎる…!!!


 わたしが顔面からマグマを噴き出させて消滅しかけていると、クロエさんは特に呆れるでもなく、怒るでもなく、もぐ、と口の中に残っていた高級焼き菓子の最後の一欠片を器用に嚥下した。



「ふぅん。隣に立つ、ね」



 低くて、ちょっと掠れた、世界で一番好きな声。


 クロエさんは気だるげに手鏡をテーブルのプラスチックの上に放り出すと、ジト目のまま、ぶっきらぼうに言い放った。



「ま。せいぜい頑張れば?」

「ひゃ、ひゃいっ……!!」



 頑張る。頑張ります。全神経をすり減らして毎日おいしい卵焼き作ります。


 フラフラと限界状態のまま、わたしが一人で茹でダコになっていると、シオンがコホンとわざとらしい咳払いをして肩をすくめた。



「なんかここちゃんの告白で話それちゃったけど☆」

「だ、誰のせいで話がそれたと思っ――」



 言いかけて、わたしは辛うじて言葉を喉の奥で噛み殺した。


 これ以上このクソピエロに反論して、さらに燃料を投下されたら、今度こそわたしのピュアな精神のコアがオーバーヒートを起こして大気圏外まで蒸発してしまう。これ以上の戦況の悪化は絶対に回避しなければならない。



「…………っ」



 わたしは口をきつく一文字に結び、ぴしっと固まった体勢のまま、橘シオンのふざけたツラだけを猛烈な殺意を込めて睨みつけた。目が合ったら網膜ごと白咲でぶった斬るくらいの目で。


 シオンはわたしの視線などハエをあしらうように受け流すと、テーブルの上の端末をにやにやと眺めながら、話を本筋へと戻した。



「とりあえず、そんな歩く災害級の怪物を前にして、どうやって上層部に『問題ありません、ただの野生の迷子です』なんて報告書を書けと? 無理無理。だからボクが、こうして直接、ここに入って中身を検分することになったわけ」

「なる、ほど?……それ、わたしに大半話している気がするんですけど、話してもいいんですか」

「機密の芯には触れてないからねぇ。外側だけ、外側だけ」



 クロエさんは、自分の長い睫毛の角度を鏡に映して呟いている。



「今日も可愛いな、俺。さすが俺だ」

「ほらね?」



 シオンが苦笑した。



「対象本人がこの調子だよ。結構ボククロエちゃんのことボロクソに否定してたのに、国家レベルの秘匿案件、緊張感の欠片もない。隠す方が馬鹿らしいでしょ」



 わたしは、何とも言えないものが胸の奥をぎゅうっと締めつけるのを感じた。


 クロエさんは、あまりにも強すぎる。そして、あまりにも世界のルールからズレている。


 本人がそれを全く気にしていないからこそ、彼女を取り巻く世界の歪みのほうが、余計に薄ら寒かった。



「じゃあわたしのことも、調べてるんですよね。協会は」

「ここちゃんはついでだよ~。サブミッション☆」



 シオンはあっさりと、慈悲のない事実を置いた。



「正確には、君が彼女と一緒にいる『理由』を調べろって話。なんで等級測定不能のカオナシの隣に、C級でしかない如月ここが居座れてるのか。誰の支援も弾く『拒絶』持ちのくせに、なんであの怪物にだけ懐いてるのか。協会の上層部としては、そこが一番、薄気味悪いわけ」

「薄気味悪いって……」

「でもさぁ、ボクが実際に会ってみたら、あぁ……ってなったんだよね」



 シオンが、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべる。



「今の時代は多様性だからねぇ。女の子同士のそういう重苦しい感情、ボクは嫌いじゃないよ? 全力で応援しちゃう。なんならさっき告白してたし(笑)」

「っ……」



 心臓の裏側を直接、指先でなぞられたみたいで、うなじがぞわりと粟立つ。



「顔、真っ赤だよ? ここちゃん」

「……斬りますよ。本当に」

「こわぁい☆」



 シオンは、いつもの道化の笑いに逃げた。


 けれど、その奥の紫の瞳は、微塵も緩んでいない。


 クロエさんへの、自分でも認めたくない独占欲。依存。誰の手も弾いてきたわたしが、なぜかあの怪物の隣にだけは立ててしまう、その歪み。


 シオンが嗅ぎ回っているのは、たぶん、そこだ。


 彼女はわたしを、『ただ巻き込まれた不運な一般人』だなんて、これっぽっちも見ていない。それだけははっきり分かった。


 本当に、Aランクとしての威厳もあって末恐ろしい。



「ま、ボクがここに居座る理由は、それだけじゃないんだけどね」



 シオンが、そこで少し声を落とした。



「まだ調査中の段階だけどさ。近いうちに『黒羊会』が、君たちに接触してくるかもしれないよ」

「黒羊会……って、あの探索者支援財団の?」



 わたしは首を傾げた。


 黒羊会。孤児院育ちのわたしにとって、その名前は決して馴染みの薄いものじゃない。


 低所得の探索者へ装備を融資したり、ダンジョン被害の遺族へ慈善活動をしている、表向きは非常にクリーンな大手組織だ。



「何それ」



 クロエさんが鏡を置いて、「旨いのか」と口を開いた。


 どんだけお菓子美味しかったんですか。



「美味しくはないかなぁ。表向きはとっても綺麗な慈善団体。孤児院への寄付金、未成年探索者の育成プログラム、治療費の補助。看板だけなら、神様の次に優しい連中だよ」



 シオンが肩をすくめる。



「そうだねぇ。言うなれば『タダで配られている、最高級の超濃厚チョコレート』かな。貧しくてお腹を空かせた子供たちに、優しいおじさんが『これ美味しいよ、好きなだけ食べなさい』って無償で差し出してくれるんだ。看板だけなら、神様の次に優しいよね。でもね、それには一度食べたら二度と逃れられない、脳みそを溶かす合法の薬物(契約)がたっぷり練り込まれてる。気がついた時には、もうそのおじさんの檻から一歩も出られなくなってるんだよ。怖いでしょ?」

「不味そう。ゲロ味だな」

「言い当て妙だねぇ」

「じゃあ、どうしてその人たちが、わたしたちに……」

「人に値札を貼るのが大好きな、ただの人材ブローカーだからだよ。ま、可能性の話だけどねぇ。まだ牙を剥くと決まったわけじゃない。でもさ。少ない所持者のユニークスキル探索者。登録者百万人を越えた、ホットな配信者。そして何より、あの超過特級案件の隣にいる、唯一のサンプル。……条件だけ並べると、白札市場の連中には、ちょっと眩しすぎるんだよね。君っていう存在が」



 わたしは言葉を失った。喉の奥が、ひりつく。


 クロエさんは、退屈そうに自分の爪を眺めながら、鼻で笑った。



「来たら潰せばいいだろ。そんな有象無象」

「そういう、暴力だけで解決できる相手ばっかりなら、ボクも楽なんだけどねぇ」



 シオンのその一言で、リビングの空気がわずかに重さを増した。

 法。書類。契約。寄付。

『善意』の顔をした、殴り倒せない合法的な拘束具。

 それらが、わたしの過去や、大切な孤児院の子供たちを人質に取るようにして、この部屋へ近づいてくるかもしれない。


 拳は、紙には届かない。


 わたしがそう思ったその瞬間だった。



「――は?︎︎お前ら、さっきからなにぶっ飛ばす前提の話で勝手進めてんだ」



 ソファの背にだらしなく身体を預けたまま、クロエさんが鼻で笑った。

 底のない黒い瞳が、ひどく退屈そうにこちらの顔を順番に見つめている。



「紙だの契約だの。来たならその組織の最高責任者の喉元を書類の不備で締め上げればいいだけだろ」



 クロエさんは、退屈そうに爪を眺めながら続けた。



「人質を取るなら、先に向こうの資金経路と親族関係を洗う。逃げ道を潰して、裏で尋問して、二度と同じ真似ができないようにする。基礎だろ、そんなもの」

「……え」



 わたしの思考が止まった。



「……おや」



 にやにやと笑っていた橘シオンすら、その時ばかりは完全に笑顔の形をぴたっと凍りつかせ、紫の瞳を見開いていた。



「……え、待って。クロエさんってそういう……法律とか、契約書の穴を突く戦略とか、知略戦みたいなことも、できるんですか……?」

「何がだ。できないわけないだろ。防壁のパッチを1枚当てるにだって、契約書の文言をミリ単位で精査しなきゃ、コンマ1秒後にシステムごと全財産を強奪されるような世界ディストピアだぞ。法務も尋問も、生き残るためのただの基礎技術だ」



 嘘でしょ。

 わたしとシオンは、完全に同じ顔をして、お互いを見合わせた。


 この人、今までの戦闘が全部規格外のゴリラ姫だったから、中身も完全に筋肉百パーセントの脳筋バーサーカーだとばかり思ってた。

 全部物理だけで解決してたんじゃないのか。

 やろうと思えば、いつでも裏社会の人間を合法的に社会の藻屑にできる悪魔の頭脳ロジックを標準搭載してたんですか。


 わたしたち二人の、語るよりも雄弁な「ドン引きの視線」を同時に浴びて、クロエさんは本気で気に食わなそうな顔をして、思いきり眉をひそめてジト目を向けた。

 怒気の刺が、ピリッとリビングの白壁を震わせる。不機嫌MAX。



「んだよ。別に俺だって、こういう搦め手は手際が面倒だから得意じゃねぇが……やれって言うなら、できるし。なんだその目は。ぶっ飛ばすぞ」

「ひゃ、ひゃいっ……!」



 できないからやらないんじゃない。ただ、物理で殴り潰した方が「速くて合理的だから」そうしていただけ。王の論理が、あまりにも全方位に無敵すぎて、わたしの処理能力はふたたび限界を迎えた。



「やっぱりクロエさんすごい…」

「ギリギリバカにしてない、それ?」



 ◇



 その夜。リビングの郵便受けに、一通の封書が落とされていた。


 差出人の欄に、金箔押しの、美しい紋章。



 ――探索者奨学支援財団『黒羊会』。



 上質な白い紙でできた封筒の裏には、柔らかな字体で言葉が並んでいた。


 『未成年探索者保護プログラムのご案内』。『孤児院出身者に対する、特別育成枠の適用について』。


 どれもわたしには、無視しづらい言葉ばかりだった。


 孤児院育ちのわたしには、それはただの裏社会の陰謀には見えなかった。自分と同じ場所にいる子どもたちを救うための、本物の善意の形に見えてしまう。


 だからこそ、わたしは反応が遅れた。


 ペーパーナイフを手に取り、封を切ろうとした指先が途中でぴたりと止まる。


 止めたのは、わたし自身の意思じゃない。


 横から音もなく伸びてきた、橘シオンの長い指が、封筒の端をそっと押さえていた。



「ここちゃん」



 声だけは、いつもの軽薄な調子だった。


 けれど、顔が違った。


 唇の端は、三日月の形に笑っている。なのにその紫の瞳だけが完全に笑い方を忘れていた。



「まだ開けないでね」



 ソファの上で、ぶかぶかの白シャツをまとったクロエさんが、手鏡から初めて、明確に視線を上げた。



「なんだそれ」

「招待状だよ。たぶんね」



 シオンは、軽く肩をすくめた。


 言い方だけなら、明日の天気が少し崩れそうだと告げる程度の何気なさ。


 でも、白い紙の端を押さえた指先は、決して離れようとしない。爪が食い込むほど強く、封筒をテーブルへ縫いつけたまま、シオンはほんの少し目を細めた。



「案外、あの人たちの予想も当てにするべきだね」



 白い封筒には、柔らかな、美しい字体で、こう書かれていた。



 ――如月ここ様。貴女のこれまでの歩みに、深い敬意を込めて。



 ただの綺麗な紙のはずなのに。今のわたしにはそれが、喉元へ突きつけられた、ひどく薄い刃にしか見えなかった。

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