工場
注意、農家さんじゃありません
9月に入り、台風クラスの暴風雨にさらされたその男は逃げるように工場の門をくぐった。
あの日、仕事に行っていた人の多くは何も持たずに弱肉強食の世界に放り出された。
男は何日も洗っていない薄汚れた軍手を脱いで、寒さにかじかんだ指を息で暖めた。
いくつもの湿気ったタバコの吸い殻が折り重なった煙缶から、まだましな1本を探して口に含む。
震える手でライターをつけようとするがうまくいかない。もうガスが残っていなかった。
生きるというのはとても大変なことだ。
特に食べることにおいては、人一倍の努力をしなければならない。
誰にいうでもなくそう呟き、坂井康祐は薄汚い工場のドアを潜った。
空腹だった。
食料品店は暴徒が支配し、物資を独り占めし始めてもう一年になる。懇願しにいったのはもう、数百回に及び、その度に賞味期限切れの腐った生鮮食品を投げて寄越され、溝鼠のようにすする毎日だ。
康祐は、昨日手に入ったばかりの肉があることを思い出して思わずほくそえむ。明かりの消えた工場の中で天井から吊るされた鎖がゆっくりと揺れ、鈍い音を立てた。反射的に音のする方を見る。
その肉は頭からズタ袋を被り、逆さ吊りでクレーンに引っかけられていた。そして、痩せ細った身体には無数の真新しい傷跡があり、血が滲んでいた。
指で腹をつつくと、ぐねぐねと狂ったように暴れだした。
1日絶食させた。そろそろ食べ頃である。ここでは新鮮な肉は貴重だ。
最後に外の空気を吸いたいと言うので袋を取ると30代位の男の顔が出てきた。
砂鉄に磁石をくつけたような、バリバリとした髭ずらの、これといって秀でたものの無いような顔。
上半身の服は既に剥がされ、薄汚れたズボンは股間が濡れている。
人間は死ぬと分かったとき取る行動は二つある。命乞いか、あるいは抵抗だ。
ただ黙って、動物園の猿を見るみたいに観察する康祐は男の首を見た。
逆さまに吊るされたことで頭に血が登り、首の血管が赤黒く隆起している。男が唾を飲み込む度に、首の中にはい回る芋虫が蠕動運動をするように、喉仏が上下した。
「た、たのむ、死にたくない……」
男は予想通り命乞いを始めた。康祐はいつも通りハンマーを背中に隠して額に触れる。
家畜を殺すときには頭をハンマーで殴る。これに限る。固い頭蓋骨を割って、脳みそを破壊する。一発で死ななければもう一度だ。
「待ってくれ、娘がいるんだ」
「俺にもいる」
にっこりと営業スマイルで答える康祐。
彼の元職業からすれば、笑顔は武器であった。客を油断させ、商品を買わせるための武器。今もこうして、罠にはめるために役立っている。
人間は賢い。だが、簡単に騙される。
命乞いは良くあることだ。恥ずかしいことではない。きっと康祐も自分の番が来れば同じことを言うのだろう。
「じゃあ、そろそろ終わりにしようか」
「ま、まってくれって!!とっておきの情報がある!!」
「……情報?」
「そうだ!まずは下ろしてくれよ!」
康祐はクレーンの根本まで行って留め具を緩めた。重力に従って肉の塊が床に転がる。足の拘束はそのままだ。
「そうだ……話が分かるじゃねぇか。一緒に襲ってもいい。これはな、とっておきなんだ。へへ。農家ってしってるか?」
「あの、農家? 野菜とか作る? それが?」
「あんた農家さんしらんのか!! でけぇ畑とデカイ家を持ったごうつくなやろうで、食いモンが家中溢れてるって話だ!!みんな狙ってるんだぞ!……それをな、俺らでかっ払えばいいんだ。なに、ちょっと分けてもらうだけで1ヶ月、いや、1年は遊んで暮らせるだけの物資の山だって言うんだ!」
「そうか。そいつはどこにいるんだ?」
「ああ。そうこなくっちゃな。あのな、アイツは……」
男が洗いざらい吐いた後で、工場に鈍い音が二度響いた。




