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3 幕開け

 夏休みは瞬く間に過ぎていった。

 ただ勉強に打ち込んでいただけの夏。お盆の時に先祖の墓参りに行って、行きつけの店で食べた盛り蕎麦が美味かった。庵の思い出はそれくらいのものであった。

 残暑の厳しい通学路はそれだけでも辟易する。

 だから庵は、朝練がある運動部員とほぼ同じ時刻に登校するのが常だ。

 一番乗りで教室の鍵を開けておき、すべての窓を全開にして換気し、飾られている花瓶の水を替え、黒板のチョークの位置を整えておく。

 誰に言われたわけでもない。庵は学級委員長というわけでもなければ、日直というわけでもない。ただ、落ち着いて朝の予習ができる環境を整えているだけにすぎない。

 それでも、整然とした教室の風景は心地良かった。

 席に着き、しばらくは静かな空間での予習をこなしていた。そして時が進むにつれて少しずつ教室が慌ただしくなっていく。

 クラスメイトが次々に登校してくる。朝練を終えた部活動のメンバーがやってくる。他クラスの者たちも行き交い、談笑が始まる。

 夏休みに何をしていたのかの報告。あるいは夏休みの間に共に遊んだ者たちが思い出を語り合っている。

 庵には何もない。しかしそれを寂しいと感じることはない。

 何にも興味を向けることのない庵だったが、たったひとつ。

「お、最上」

「おはよう藤波くん」

 それだけは、鮮明に聞き取れた。聞き取ろうとしていた。

 庵は教科書に向けていた目線を上げて教室の入口を見やる。

 海斗が登校してきたところだ。時間は予鈴の10分前。適切。あまりに適切。

 海斗は早速、学友との歓談に興じている。

 庵の手が少しだけ汗ばみ、教科書を掴む手に力が込められた。

 庵はこの夏、必死に勉強に励んだ。高校受験の時と同じくらいに。すべては、一学期の期末考査での雪辱を晴らすため。

 海斗はこの夏、どうしていたのだろうか。彼もこの夏休みの間に知識に磨きをかけただろうか。彼との実力差はどうなったのだろう。縮まったのか、越えることができたのか、それともいまだに……。続きは考えたくなかった。

 庵は目線を教科書の文字列に戻して暗記に集中した。

「おーい、お前ら席着けー」

 けたたましい予鈴の音と共に担任の木村が入室してきた。チャイム音の雑みがこの学校の歴史の古さを物語っている。

 生徒たちは急いで自分の席に戻り、庵も今見ているページに栞を挟んでから教科書を閉じた。

 教室が静まったのを確認してから、担任は切り出した。

「みなさん、おはようございます! 久し振りだな。今日から二学期。夏休みでだいぶ気が抜けてしまっている者もいるかもしれないが、今日からまたがんばっていこう。これから始業式で体育館に向かうが、教室に戻ってきたら席替えをして、それで今日は下校だ」

「え、席替え!?」

「やだー!」

「やったー!」

 席替えという単語だけでクラス全体が盛り上がる理由が庵には分からない。どこに座ろうともやることなど変わりはしないというのに。

 強いて言うならば、教室のど真ん中の席は嫌だな、と。庵は考えていた。

 そしてふと、思い立つ。

 もうひとつ。

 あの男。最上海斗の隣だけは嫌だな、と。

「こらこら、静かに! 以上だ、すぐに体育館に向かえー」

 木村の号令で一斉にみんなが席を発つ。

 庵もそれに続いて立ち上がり教室を後にした。






 最上海斗の隣だけは嫌だな、と。

 つい一刻前ぐらいに考えていた。いたのに。

「よろしく、石館くん」

「…………」

 なぜこうもピンポイントでこいつが隣に来るのだ!

 庵は自分のくじ運のなさに項垂れた。そこまで信心深いわけではないが、神は薄情なものだとすら思った。

 だからと言って返事をしないわけにはいかない。くじの紙を折り畳んで、庵は海斗を一瞥した。

「……。……よろしく、最上」

「……!」

 庵からの挨拶に海斗は目を丸くした。

「よーし、全員机の移動は終わったな」

 木村の声が聞こえてきたので庵はすぐに正面に向き直る。だから海斗の驚いた顔を見ることはなかった。

「これから三学期まではその席で。誰か視力の悪い人とか要望はー……、……なさそうだな。よし、それじゃあこれでホームルームは終了だ。また明日からがんばろう。解散! みなさん、さようなら」

 誰もがその言葉で慌ただしく立ち上がり出す。これから市街に繰り出そうとする者、部活に向かおうとする者。みんなが様々な用事をこなそうとする中で、庵は早々に帰宅するべく立ち上がり教室を後にした。

「あ、石館くん……っ! ……行っちゃったか」

 あまりの手際の良さと素早さに、すっかり海斗は声を掛ける機会を失してしまった。

 仕方ない。明日からも会えるのだし。と、海斗は気を取り直す。

「おーい、最上」

「あ、藤波くん」

 海斗のもとにやって来たのは中学の時からの海斗の友人である藤波(ふじなみ)駿(しゅん)。気さくな男で、進学校であるこの学校にスポーツ推薦で入ってきた稀有な存在だ。海斗と共におおらかなことで有名となっている。

 駿はさきほどまで庵がいた席に行き椅子を引きそこに座って窓からの眺めを堪能した。

「良い席だよなー、窓際のいちばん後ろとか特等席じゃん。誰だっけ、ここ」

「石館くんの席だよ」

「……、……あー……あいつね。おとなしくてあんま目立たないやつだよな」

「そうだね」

 窓の外を見るのをやめて、駿は海斗の方に目線をやる。肘を突いて顔を支えるついでに首を傾げた。

「海斗。なんか、嬉しそう?」

「まあね。仲良くなれるかもしれないと思うとさ」

「体育祭の時もわざわざ石館を連れてきてたもんな」

「いや、あの日も言ったけど本当に石館くんしか思い付かなかったんだって」

「それに、あれだっけ? 一学期の期末テスト。そいつ2位だったんだろ?」

「藤波くん、石館くんに興味なさすぎ。いつもは1位なんだから」

「いやー……あれだけ目立たなくてその上で誰も近寄るなっていうオーラを出してるやつ、興味もなにも、なぁ……」

「確かに取っ付きにくさはあるけれど……」

 海斗は今後も庵が世話になるであろう机を見つめ目を細める。

「不器用なだけなんだよ」

 そんな海斗の姿に駿はというと。苦笑いを浮かべるしかなかった。

「海斗、その無駄にイケメンなのどうにかならない?」

「ん? 顔の造形なんてどうにもならないよ。そもそもイケメンじゃないし」

「ケンカ売ってんのか」

 軽口を叩き合いながら笑い合う。

 駿にとって、海斗はとても気の合う友人だ。

 海斗は昔からしっかりしていて、それでいて人当たりも良く、成績の良さを鼻にかけることもなく、他者への面倒見も良い。本人に自覚はないが顔も良い。

 その点、石館庵は。残念ながら駿にはどうとも評価ができない。接点、交流、いずれにおいても少なすぎる。

 海斗がやっと庵と深く関われることに喜んでいるのが、駿には意外でもあり、どこか想定内でもあり、妙な光景だ。

「で、石館の何がそんなにお前を惹き付けるわけ?」

「何って言われても……」

 言葉を濁してしまった海斗の姿は珍しいものだった。海斗は昔からあまり曖昧なことを言わないからだ。

「おいおい、分からずにちょっかいかけるのか?」

「ちょっかいじゃないよ。仲良くなりたいんだ」

「だから、何で?」

「何で……だろう」

 堂々巡りだ。駿は明確な答えを諦めた。

「まぁいいや。帰ろうぜ、海斗。あ、でも……廊下で女子たちが待ってるぞ」

「うーん……。……どうにかして諦めてもらえないかな」

「えー……」

 確かにあの女子生徒の群の中に入ればしばらくは解放されないだろう。互いに方々に人気なのも大変だ。

 彼女たちが嫌いなのではないが、毎日こうではさすがに疲労困憊となってしまう。

「いつものよく回る頭でなんとかしてくれよ」

「僕を何だと思ってるの……。あ、でも。たぶん、もう少ししたら」

 海斗が黒板の上部に設置されている掛け時計を見たまさにその時。

 廊下がにわかに騒がしくなった。

「な、なんだ?」

「生徒会の副会長が見回りに来たんだよ」

 駿の動揺とは逆に海斗は落ち着いている。

 廊下の女子生徒たちは黄色い声と共に我先にといった具合でどこかに行ってしまった。それを見計らって海斗は鞄を持って立ち上がる。

「よし、行こう」

「え、お、おう。すごいな海斗。よく分かるな、副会長が来たって」

「いつものことだからね」

「そうだったか?」

「そうだよ」

 つくづく駿は海斗の観察眼に感心する。

 海斗は人をよく見ている。だからこそ、おそらく海斗には庵の何かが分かっているのだろう。

「不思議なやつだよ、お前は」

「そんなこともないんだけどな」

 ふたり連れ立って廊下に出てみれば奥の方が騒がしい。あの女子生徒たちの群の中心に、おそらく生徒会の副会長がいるはず。

 海斗は迷わず逆方向に向かって歩き、駿もそれに続いていった。

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