[78]姫様、ピンチ!(というかボロボロです……)
あれからどのくらい走っただろうか。すっかり息の上がったボクはもつれそうな足を止め、人の気配のまるで無い暗がりに向かって独り言を吐く。
「はあ、はあ……こんだけ走ってもまだ建物の中って一体全体……」
どんだけ広いんだ……呆れるばかりの豪邸。でも、何とかあの男を振り切ることが出来たようだ。呼吸を整えながら、手を握りしめたままの津島さんに振り返る。
ヒールのある靴を履いたままでの全力疾走はさすがに堪えたのだろう、彼女も大きく肩を上下させていた。その俯いた顔も上気していて、大胆に背中が見える艶やかなイブニングドレス姿と相まり、いつもとは違う色っぽさがあった。
そんな津島さんに見とれながら、ボクは気の抜けた声をかけた。
「でも、さすがにここまで来れば大丈夫かな。ね?」
「――え?」
ようやく顔を上げる津島さん。彼女は裏返った声を上げると、ピクリと身体を震わせた。ボクに引かれていた手を慌てて引っ込め、そのまま両手で真っ赤な顔を隠してしまう。やがて指の間から透かして見る両の目。その目は大きく見開かれていた。
「あ……あの……貴方……は?」
彼女は何か言いかけるけど。
「きゃああっ!」
あろうことか、そのまま可愛らしい悲鳴を上げ、パタパタと走り去ってしまった。
(嘘!? 逃げちゃうの?)
取り残されたボクは呆然と立ち尽くすしかできない訳で……虚しさ半分、寂しさ半分。
うーん、でもよくよく考えてみれば仕方無しかなー。そもそも津島さんは今の姿のボクを知らない訳だし。彼女からしてみれば今のボクは見ず知らずの男だし、ちょっと馴れ馴れし過ぎたかな? しかもいきなり腕を引っ掴まれて猛ダッシュをかまされたんだから、驚くなってほうが無理だよね――納得のいかない自分に折り合いをつけるため、そう思うことにした。
それどころか……思索を巡らせるうちに、とんでもない可能性に思い至ってしまった。もしも津島さんが生徒手帳のことを憶えていたとしたら、彼女にとってボクは、わざわざこんな所まで追いかけてきた性質の悪いストーカー男じゃないか!?
まずいぞ。要注意人物にカウントされちゃった?
まあ、何にせよ津島さんを魔の手から救うという与えられたミッションを遂行できた訳で、とりあえず浅見さんに顔向けはできそうだけど、その代償は大きかったかも……いや、ボクがやったことは逃げるというだけで、格好なんてまるで付いていないなぁ……かなり複雑。
でも、こればかりは仕方が無い。ボクはヒーローでも何でもないただの冴えない高校生、これ以外の選択肢は無かった。それに分相応という言葉もあるし。釈然としない思いを押し留めたボクは、充足感と無力感の両方を感じながら、この場を後にとぼとぼと歩きだした。さっきの男と出くわしたのでは堪らないので、ルートを変え遠回りで。
でも、それが大きな間違いだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
この辺りは使用人が使うエリアだろうか。薄暗くシンとした通路に非常用出口のぼんやりとした灯り。リネンがうず高く積み上がったカーゴの横を通った時、いきなり腕を掴まれ羽交い締めにされたまま、真っ暗な部屋へと引きずり込まれてしまった。
「――え!?」
気付いた時には遅かった。部屋の灯りが点った時、ボクを羽交い締めにしたままの奴を合わせ、合計三人に拉致られたことを悟った。その瞬間、氷より冷たい恐怖が背中を撫でる。
バタンというドアの音。その横にある照明のスイッチに手をかけている男が閉めたのだろう、そいつが二人目。
もう一人。目の前にいたのはさっきの男だった。その、男にしてはやけにけばけばしい色の唇が動く。
「よう? さっきはよくもやってくれたな?」
男は目を怒らせたままニヤリと口角を吊り上げ、身体を落とした。身動きの取れないボクはその動きを漠然と見ることしかできない。そして次の瞬間、奴の握りしめられた拳はボクの腹にめり込んでいた。
「ぐはッ」
情けない声を道連れに、吐き出した息が一瞬にして喉を通り抜ける。一瞬遅れて激痛と、腹の底から湧き上がるようなジリジリとした不快感。肺の中が空っぽになったまま、息が出来ない。呼吸困難になりかけたボクは半ばパニック状態になっていた。
全身から力が抜けたボクは倒れ込む。羽交い締めにしていた奴は手を離したらしい。
「情けねえな。もうダウンか? それでも男かよ」
奴は吐き捨てるように言った。うずくまるボクはその声をまるで遠くのことのように聞いていた。だが考えるまでもなく、そんなボクをこのまま許すはずもなく。
手下の男達は両脇から腹を押さえるボクの腕を引き剥がし、無理矢理立ち上がらせた。涎と涙で情けない顔をこいつに見せたくないという思いと、もう助けて欲しいという情けない思いが交錯する中、残虐な表情を見せる男はドスの利いた声で吠えた。
「さっきのは一体何だ? どういう了見だ、おい?」
くそっ。金持ち喧嘩せず――上流階級の人間は上品なものだと、勝手な幻想を抱いていた。だけどそれは誤りだった。目の前の男。その厭らしい笑顔さえ貼り付けていなければ、貴公子と呼んでも良いような整った顔のそいつは、信じられない位に攻撃的な男だ。ボクの人生の中で、これまで逢ったことの無いくらいに。
こいつ、一体これまで何人の人間をこうやって、直接的な暴力――それとも金や社会的地位による力だろうか――で抑え付けて来たのだろう。そんなことを頭の片隅で思い描きながら、このタキシード姿の残虐な紳士が、次にどんな罵詈雑言を吐いてくるか身構えた。
しかし言葉より前に出てきたのは更なる暴力だった。次の瞬間、視界が飛び、目の前にあったはずの男の顔が消えた。奴が横殴りに頬を打ったのだ。さっきのより、さらに直接的な痛みと、口の中に広がる血の味。
「本当に情けねえなあ。されるがままか? 情けなさ過ぎて涙がちょちょ切れるゼ」
げらげらと下品な笑い声を上げる手下共。
「おい、何か言ったらどうだ。王子様気取りが聞いてあきれるぜ。あんな真似をするまえにやる事があるだろう? もっと鍛えるとかさぁ? 喧嘩、初めてか? 馬鹿じゃねえの? この軟弱野郎。少しは分をわきまえろや? おら、泣いてねえで何か言えよ!」
状況は最悪。ポンポンと出てくる卑下た言葉。奴の怒りが収まることは無さそうだった。むしろこの野獣、自己完結で勝手に憤怒を増幅させているんじゃないか? 打つ手なし。きっとこのまま、暴力の連鎖が終わることは無いだろう……絶望的な状況。
ところが、恐怖に覆い尽された心の奥底で、この理不尽な仕打ちに対する怒りの感情が生まれたことにボクは気付いた。チロチロと燃え始めたそれは徐々に大きくなる。
事を穏やかに収めたいという一心で空回りする脳味噌とは関係なく、ボクは口を開いた。
「はは……随分と下品な人だね。まさか自覚が無いんだ? オメデタイ人だ」
「なに?」
恐怖に歯を打ち鳴らしているだけの残念な子羊の口から漏れた言葉。その唐突な言葉に多少は面食らったのだろうか、眉をひそめたまま男は口の動きを止める。一方、言うことをきかないボクの口は動き続ける。
「彼女、君のことを心底嫌がっていたようだよ? まるで腐った肉の上でのたくる蛆虫を見るような目でね。そのことに気付かない君があまりに哀れで見てられなかったから、彼女を連れて立ち去っただけ。正義感でも何でもない」
「なん……だと?」
「ひょっとして気付かなかった? 可哀想に、とんだ想像力の欠如だ。まあ、ボクが邪魔をするまでもなかったとは思うけど」
「どういうことだ?」
「おまけに鈍いときている。度し難いとはこういうことを言うのかな?」
破滅願望だろうか。挑発するような言葉がポンポンと出てくる。男の顔が赤くなり、そして青黒くなった。本当に怒りでこめかみの血管がピクピクと浮き上がるということを、ボクはこの時初めて知った。
「面白いことを言う奴だな――」
自分を落ち着かせるように言葉を区切り、奴は声のトーンを落として言った。
「――そうか、まさかお前、あの女に惚れているのか? 残念な奴だ。てめえが誰だか知らないが、あのお嬢様は、てめえには分不相応ってこと知らない訳じゃないだろ? それともまさかあれか? 横恋慕ってやつか?」
「さあね。君には関係ないんじゃない?」
ああっ、何てこと言うんだこの口! 火に油を注ぐばかりじゃないか。ごめんなさい! 津島さんに惚れてなんていません! 恋を邪魔する気なんて端っから無いです! ただ、津島さんが男嫌いだって知っているだけなんです!
「関係無いって来たか。そういや見ない顔だな、てめえ。どうせ成金野郎のボンボンだろ? ますます面白くなってきたぜ」
不思議なことに、怒りの感情が高ぶるにつれこの男は冷静になっていく。不思議な反応だった。まるで逆じゃないか? これがきっと、敵にしてはならない人間というやつなのだろう。
やにわに男は拳を振り出した。顔を背け思わず目を瞑るボク。だが奴の一撃は来なかった。反応を楽しんでいるのだ。満足したのだろうか、凄味を効かせた表情を押し付け、奴は舌舐めずりをして言う。
「面白い趣向を考えついた。てめえに、じっくりと見せつけてやろう……あの女を俺の物にするまでのプロセスだ。嫌がっている?……望むところだ! いや、そうでなくちゃな。最高の女を俺色に染め上げていく、最高じゃねえか! そしてそれを、てめえは成す術もなく見ているしか無い……どうだ、出しゃばり野郎? 最高の趣向だろ」
重くねちねちした声がチリチリと脳を焦がす。言ってやらなければ気が済まなかった。
「それはどうかな?」
「は?」
「妄想は脳内に留めておいた方がいいよ? 恥ずかしいものなら尚更ね」
「へっ、余裕じゃねえか。言っておくが足掻いても無駄だぜ? 俺にはてめえを、てめえの家族を、てめえの恋人でさえ簡単に破滅させるだけの金も権力も人脈もある。経験してみるか? 惨めだぜ……てめえら庶民など、どうやったって抗えないんだ」
「そうかもね……ボクには金も権力も人脈もない……その気になれば簡単に破滅させられるだろうね。だけど、君が彼女を物にできる可能性はゼロだ」
「ほう? 何故だ」
「何度も言わせないで。彼女が君のことを心の底から嫌っている。そして、たとえ破滅しようともボクはあらゆる手段を使って邪魔し続ける。金も権力も人脈も無くても、それ位は出来ると思うよ?」
「てめえ!」
死より冷たい氷の表情。
ボクは直感した。奴は本気だ。もし仮にボクをここで殺したとして、それを事故に見せかける金も権力も人脈も、奴は持っている。そのねじくれた口をより一層歪ませ、ボクより拳二つ分は大きいこの男は、大きなアクションで振りかぶってきた。
最初の一撃で骨が折れるだろうか――そんなことを考えながら、奴の拳が襲いかかるのを為す術もなく見つめていた。奴の怒りが収まる頃には、ボクはきっとボロ雑巾のようになっているのだろう――再び恐怖と後悔がボクの心を覆い尽くす。
しかし、男の拳が再びボクの身体に襲いかかることは無かった。




