もう一度、プロローグ的な何か
朝の教室はしんとしていた。
ゆっくりとドアを開け誰もいない教室に入ったのは、マシュマロ系ふわふわ髪の女の子。教室のちょうど真ん中から少し後ろに下がった辺りという、ちょっと中途半端な彼女の席。その机に鞄だけ置いて、彼女はそのままの足で窓際へ。
目の前に広がるのは、三階の教室から望む青空と新緑の山々。ガラス越しの日差しが暖かい。女の子は華奢な腕を伸ばすと、少しガタついたクレセントを回し、大きな窓ガラスを開いた。この時期らしい瑞々しく爽やかなそよ風が頬を撫でる。
遥か彼方。街を取り囲む若草色の山並みを越えてやってきたであろう、少しひんやりとした空気。目に見えない闖入者からの挨拶に彼女は、はらはらと頬にかかる髪の毛を押さえる仕草で答えた。
聞こえてくるのは、学生達を降ろしたバスのエンジン、朝錬を終えて校舎に入っていく少女達の笑い声、駅の発車メロディ。初夏の始まりを告げる推定風速0.5メートルの風は、朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ窓際の少女に朝の音色を届けてくれる。
もう一度、気持ちよさそうに深呼吸する十五歳。彼女の名は、風見香純。
香純は隣のサッシに手をかけようと大きく腕を伸ばした。半袖のセーラー服がとても軽やかに感じられた。着替えたばかりの頃は肌寒くて心なしか頼りなかったこの夏服も、衣替えから二週間経った今では心地良い。
三人組のクラスメイトが教室に入って来た。香純はペコリとお辞儀すると、「おはようございます」と小さく呟いた。彼女の姿に気が付いた三人も笑顔を振りまき、可愛らしい声で挨拶を返した。
彼女は花瓶を手に廊下へと向かった。教室の後ろに飾られている生け花の水を変えるため。
教室を出ようとしたところで、登校してきた同級生と鉢合わせた。
「ごくろうさま」というねぎらいの声をかけられた香純は、少し顔を赤らめて「ありがとう」と答え、同級生の横を通り抜ける。
香純が自ら進んでこのお役目を買って出ているのも、当番を任されているとか、そういった理由ではなかった。たまたま学校の近くに住んでいて、そのせいで教室に一番乗りすることが多くて、何となく始まったというだけの習慣。
教室に戻ると、いつの間にかクラスメイトも数を増やしていた。皆、香純と同じセーラー服を身に纏い、思い思いのお喋りを楽しんでいる。
ここ、白梅女学院はお嬢様学校というのが世間での評判だった。
ただし、歴史と格式は有り余る程だけど、ちょっと落ち目の決して華やかとは言えない女子高。そのせいか、少しおっとりとした校風。だから引っ込み思案の自分でも、こんな風にクラスの中で何とかやっていける――。彼女はそう思っていた。
元あった場所に紫陽花の花瓶を戻しながら、香純は心の中で「この学校に入れて本当に良かったね」と自分に語りかけた。彼女がそう思ったのには、もう一つ理由があった。
香純はあの少女の姿を思い浮かべた。
教室の空気が変わったのは、その時のことだった。香純も教室の変化に気がついた。まさに今、心の中で思い浮かべていたその少女が、教室に入ってくるところだった。
教室中の目が彼女に集まる。香純の視線もその姿に釘付けとなった。
雲の切れ間から陽が射したような、それとも、高原の風が山百合の香りを運んできたような――他にどう表現すればいいのだろう。
少女は一身に注がれる視線を気にする風でもなく、さりとて気付かない風でも無く、注目を浴びるのが当然といった立ち振る舞いで歩いている。
その凛々しい姿は、山頂に気高く咲くエーデルワイスを彷彿とさせた。
均整のとれたスラリとした長身。一歩一歩、優雅に振り出される伸びやかな腕と脚。真っ直ぐ前を向く凛とした瞳。それらが全て、見る者の心を魅了するかのようだった。
自分のと同じはずの制服が、彼女の身を包んでいるというそれだけで、まるで違う物のよう。彼女の動きに同調するように揺れるスカート、そのプリーツひとつひとつまでもが、彼女の完全調和を、周囲に振り撒いていた。
歩くという、それだけの行為がこんなにも美しいことが不思議だった。
香純は思った。彼女と比べると――自分の歩き方なんてきっと、とても滑稽で、ギクシャクしているんだろうな、と。
うっとりとした表情で香純が見とれている中、その少女は思いもよらない行動を起こした。
あろうことか、少女は香純のところへと真っ直ぐにやってきた。いつの間にか、少女はすぐ目の前に来ていた。少女が微笑む。教室中の視線が、香純と少女に集まっていた。
香純は、はっと我に返った。少女の、桜貝のように淡い色の、形の良い唇が動いた。
「香純ちゃん、ごきげんよう」
少女は、一流の音楽家が奏でるフルートのような美しい声で香純に語りかけた。聞いているだけで心安らぐような、そんな声だった。
「ご、ごきげんよう……果無さん……」
やっとのことで香純は声を絞り出した。その声を聞くと、少女は満足そうに顔をほころばせた。香純は、心臓がドキドキと自己主張を始めるのを感じた。まるで時間が止まったかのようだった。
約五十フレーム分のストップモーションが訪れる。香純はどうしたら良いか分からず、ぼうっと立っているだけだった。
「あら、香純ちゃん?」
一瞬、思案するかのような表情を浮かべると、目の前の少女は香純の胸元に手を伸ばした。香純はそれをぼんやりと見つめていた。彼女は持ち前のクールな声で言った。
「リボンが曲がっているわ……」
彼女の細い指が胸元のタイを結び直すのを、香純はじっと見つめていた。純白の釉薬をかけた薄い陶器で出来たかのような、穢れを知らない無垢で白い指だった。
「はい、これでいいわね」
満足気に言うと、少女はもう一度優しげに口元を緩め、心地良さそうにはにかんだ。
どちらかというと小柄な香純が少し視線を上げると、宝石のように澄んだ瞳が、愛おしげに、じっとこちらを見ていた。
品格とあどけなさが同居した端正な顔立ち。まるで北欧の女神のような美しさの中に、憂いと、まるで少年のような溌剌さと、暖かい人懐っこさと、気高さと、おっとりした表情が同居していて、そこに無邪気な好奇心と。
そして彼女が高貴な家のお嬢様という証しでもある、ほんの一摘みのつんと澄ました放漫さがトッピングされていた。
目の前にいる少女の名は、果無美彌子。
香純の目は釘付けとなっていた。手を伸ばしても届かないのに、思わず触れてしまいたくなる誘惑に囚われてしまうような、そんな近寄り難さと親近感を同時に感じながら、香純はまるで熱にうなされたかのように、うっとりと見とれていた。
一カ月前。香純は美彌子のことを一目見た瞬間に、何か特別なものを感じ取っていた。その予感は当たっていた。それをどんな言葉で表現したらいいか思いつかない。でも、美彌子が不思議な何かを持っているのは確かだ。
凛とした立ち振る舞い。時として周りのもの全てを拒絶するような孤独を見せたり、かと思えば、誰に対しても気さくだったり。あるいは、時々あっけらかんとして、まるで自身を飾らない言動を取ったりもした。そんな時の無邪気な笑顔が印象的だった。
でも何時だって、彼女の言動の節々には、高貴な家の出の娘だけが持っている独特の品格が漂っていた。いくらおどけて見せても、育ちの良さを隠しきれなかった。
香純は、自分から進んで友達を作ったことが無かった。でも、転校してきた美彌子が自分の後ろの席に来た時、何か特別な運命を感じた。だから、思い切って声をかけた。自分から見知らぬ誰かに声をかけたという、そんな簡単なことさえ、生まれて初めてのことだったかもしれない。あの時、その勇気を出した自分を誇りたかった。
まだ入学してから三カ月も経っていないというのに、香純は濃密な学園生活を送っていた。中学までの自分には、とても想像も及ばなかったであろう日常が。だが、それら全てさえが美彌子との出会いへの、伏線だったような気がする。
美彌子は、香純が思った通りの理想のお姫様だった。
何故なら彼女は、本物の、魔法の国の王女様なのだから。
前回からかなり間が空いてしまったのと、物語的にも区切りがついているので、プロローグ的な回を入れました。それにしてもポエミーな恥ずかしい書き出しですね。ギャグの一環だと思ってください。次回、きっかりと落とし前をつけます。




