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 それから、僕はおじさんに連れられて二階の部屋にあがった。二階にはふたつ部屋があり、おじさんはそのうちのひとつに僕を通してくれた。部屋のなかに入ると、油絵の匂いがした。部屋の広さは八畳くらいで、その部屋のなかに無造作に、恐らくおじさんがこれまで描いてきた思われる絵が置かれてあった。自分の描いた絵のひとつひとつを大切に保存しているというよりかは、とりあえず置く場所がないから置いているだけといった印象を受けた。


「結構たくさんありますね」

 僕は感心して言った。

「これでもだいぶ処分した方なんだよ」

 おじさんは僕の科白に、苦笑して答えた。

「俺はどちらかというと、思いつきでぱっと描いちゃう方だからさ、作品の数だけは多いんだよ。有名な画家はわりと色々計算しながら描いてるみたいだけどさ、俺はそういうのが苦手というかね。だから、まあ、成功できなかったんだろうけど」


 僕はおじさんの科白になんて言ったらいいのかわからなかったので黙っていた。一番手前付近にあるのは、防波堤の上に腰かけて、どことなく物憂そうな表情で海を見つめる女の人を描いた絵だった。やわらかいタッチの、優しい感じのする絵。たとえば記憶のなかの情景を見ているような。

「この絵に描かれているのは誰なんですか?」

 と、僕は気になって訊ねてみた。僕の問いに、おじさんは手前の絵に視線を向けた。

「これは晶子さんだよ」

 と、おじさんは絵に向けていた視線を僕の顔に向けると答えた。


「晶子さん?」

 僕が反芻すると、

「そうか。名前だけ言ってもわかんないよな。俺の義理の妹だよ。つまり、理恵ちゃんのお母さん。ずいぶん前にモデルになってもらったんだ」

 と、おじさんは苦笑して答えた。

 言われてみると、確かに顔立ちが南さんに似ているような気もした。


「じゃあ、もしかして、南さん・・・つまり理恵さんがモデルの絵もあるんですか?」

と、僕は訊ねてみた。


 僕の問いに、あるよ、と、おじさんはなんでもなさそうに首肯した。そしてえーとどこに置いたかなぁとおじさんはぶつぶつ呟きながら、部屋のなかに無造作に置かれている絵を探しはじめた。

 南さんをモデルにした絵はかなり昔に描かれたものなのか、なかなかすぐには見つからないようだった。探し始めてから十分近くが経ってさすがに僕が申し訳なくてべつに無理に探さなくてもいいですよと言いかけたところで、


「あったよ」

 と、おじさんは僕の方を振り返ると、嬉しそうな笑顔で言った。おじさんは僕のところまで戻ってくると、画用紙くらいの大きさの絵を僕に手渡してくれた。見てみるとは、それは波打ち際に佇む少女を描いた絵だった。絵は、小学校高学年くらいの女の子を真横から捉えて描いていた。少女はどこなく寂しそうな表情で目の前に広がる空間を見つめている。時間帯は夕暮れで、淡い紅の光が、少女の、たぶん幼い頃の南さんの横顔をほんのりと照らしている。


「これが、理恵さんを描いた絵ですか?」

 僕は絵に落としていた視線をおじさんの顔に向けると一応確認してみた。おじさんは僕の問いに、そうだというように頷いた。


「なんか絵のなかの理恵さん、寂しそうな表情してますね」

 僕は言ってみた。

 おじさんは僕の科白に、僕が手元に持っている自分の絵を覗き込むと、

「そういえばそうだなぁ」

 と、自分の絵であるのに他人事みたいに言った。

「たぶん、その絵を描いたのが八月の終わりだったら、夏休みが終わるのが寂しかったんだろうな」

 と、おじさんはいくらか安易過ぎるだろうと思われる考えを述べた。


 僕はおじさんの意見を聞いたあと、もう一度手元にある絵を眺めてみた。このとき南さんは一体何を思っていたんだろうなと僕は気になった。


「まあ、俺の絵ってこんなもんだよ。べつに大したことないだろ」

 僕が絵に視線を落としていると、おじさんは勝手に結論付けて言った。僕は伏せていた顔をあげておじさんの顔を見ると、

「そんなことないと思いますよ」

 と、僕は言った。


 そう言った僕の顔をおじさんはじっと見つめた。そこにある表情は嬉しそうというよりかはぽかんとした表情だった。僕の言っていることがよくわからないといった様子だった。


「あの、もしできればもうちょっと色々南さんの描いた絵を観させてもらってもいいですか?」

 と、僕は不思議な生き物でも見えるような目で僕の顔を見つめているおじさんに対して続けて言った。おじさんはいくらか戸惑った様子で僕の言葉に頷くと、こんな詰まらない絵で良かったらいくらでも見てくれていいよと言ってくれた。俺は下の部屋でテレビでも見てるから気が済んだらまた声をかけてくれてと言っておじさんは階段をおりて行った。


 それから、僕は一時間ばかり、部屋に置かれている絵を観て回った。なかにはこれはどうだろうと首を傾げたくなるような絵もあったけれど、でも、基本的にはどれも好感の持てる絵だった。静かで、優しくて、懐かしい感じがする。そしてどの絵もほんの少しだけ悲しみの色素を帯びている気がする。あるいはただ単にそんな気がするだけなのかもしれなかったけれど、僕はおじさんの描いた絵を観ていて、そこに、悲しみや、喪失感といった感情を見出さないわけにはいかなかった。


 恐らく、意図的にそうしているわけではなくて、普段おじさんが意識のなかに抱えている感情が知らず知らずのうちに、描く絵のなかに溶け出しているんだろうと思った。そしてもしそうだとしたら、おじさんの意識のなかに眠っている、たとえば淡い水色の色素を帯びたような感情の根源のようなものはどこから来るのだろうと僕は気になった。


 僕は一通り絵を観終えると、階段を下りて行って、一番最初に通されたリビングまで戻った。リビングではおじさんがソファーに腰かけてテレビを見ていた。テレビでは朝のワイドショーがやっていた。最近有名になりはじめた若い女優の恋人がどうとかこうとか言っていた。おじさんはそんなテレビを見るともなく見ていた。おじさんは僕が部屋に入ってきたことに気が付くと、それまでテレビに向けていた視線を僕の顔に向けて、

「結構、長いこと見てたね」

 と、感心しているというよりかは呆れたように言った。


「色々興味深い絵が多くてつい夢中になっちゃいました」

 僕は苦笑して言った。

「そんなお世辞なんて言ってくれなくてもいいよ」

 と、おじさんは軽く笑って言った。

「べつにお世辞じゃないですよ」

 僕は笑って言った。


 それから、僕はちょっと躊躇ってからおじさんが座っているとなりのソファーにまた腰を下ろした。僕はまだ絵のことについて色々おじさんに訊いてみたいことがあった。おじさんは僕の方に向けていた視線をまたテレビに戻していた。テレビでは四十代後半の眼鏡をかけたコメンテイターが、真剣な顔で女優の恋人について何かコメントしていた。


「南さんの描いた絵って、どの絵も、なんか懐かしい感じがしますね」

 僕はテレビを見ているおじさんの横顔に向かって言った。

「それからちょっとだけ悲しい感じもします。ずっと昔に失ってしまった何かを思い出しているような…上手く言えないですけど、たとえば色彩で言うと、半透明の青色というか、そんな感じで、観てると、綺麗だなと思うと同時に、なんか切ないような気持ちにもなります」


 おじさんはそう言った僕の顔を、いくらか怪訝そうに見つめた。一体何を言っているんだ、こいつは?というような顔つきだった。


「もしかして何か原体験みたいものがあるんですか?ずっと昔に何かすごく辛いことがあったとか、何か大切なものを失ってしまったとか」

 僕はいくらかぶしつけ過ぎるかもしれないと思いながらも、つい、そんな言葉を口にしてしまっていた。


「・・・いや」

 と、おじさんは困惑しているように首を傾げて答えた。

「ああ、でも」

 おじさんは少し間をあけてから何かに気が付いたように続けた。

「たまにそういうこと言われることはあるかなぁ。なんか哀しい感じする絵だねって。自分では得にそういうことを意識して描いたつもりはないんだけどね」

 おじさんはそう言ってから、自嘲気味に口元を綻ばせた。


 それから、おじさんは何か思案するように宙に視線を彷徨わせると、

「・・・ああ、でも、もしかしたら」

と、何かを思いついたように少し小さな声で言った。僕がおじさんの言葉の続きを待って黙っていると、

「もしかしたら、小さい頃に母親を失ってるのが、何かそういうことの原因になってるのかもしれないなぁ」

 と、おじさんはいくらか首を傾げるようにして言った。


「お母さん?」

 と、僕が小さな声で反芻すると、おじさんは短く顎を縦に動かした。

うちのお袋って身体の弱いひとだったらくしてね…俺がまだ三つか、四つくらいの頃に病気で亡くなってるんだ。そのときの記憶はぼんやりとしてるんだけど、でも、やっぱり哀しかったっていう感覚は残ってて、だから、もし、藤田くんの言っている通りだとしたら、そのことが原因になってるのかもなぁ」

 おじさんは考えながら話すようにゆっくりとした口調で言った。


「ちなみに、俺が絵に興味を持つようになったのも母親の影響なんだよ。母親も絵を描いたみたいでさ。ある程度大きくなってから母親が絵を描いてたんだって知って、それから自然と絵の世界に惹かれていった」

 おじさんは付け加えるように言った。僕はまだ幼い少年が、母親の描いた絵をじっと見ているところを想像した。


「なるほど。そうなんですね」

 と、僕は頷きながら、おじさんの絵のなかに溶け出している、あの水色の色素を帯びたような感情の正体はそういうことだったのかと理解できたような気がした。早くに亡くなったしまった母親を想う気持ち。それがあの哀しいような優しいような色合いを絵に与えていたのだと思った。


「でも、母親の絵のことなんて、久しぶりに思い出したよ」

 おじさんは苦笑するような笑顔で言った。

「なんか哀しいことを思い出させてしまったみたいですいません」

 僕は謝った。


「べつに謝る必要はないよ」

 おじさんは僕の顔を見ると、微笑して言った。

「子供の頃の話だし、今となってはそんな哀しいっていう感覚も残ってないしね。自分の描く絵にそんな秘密があったのかって意外な発見があって面白かったよ」

 おじさんは言ってから、少し口元を綻ばせた。

 僕もおじさんの笑顔に誘われるように少し口元を緩めた。


「質問は以上かな?」

 おじさんは僕の顔を見ると、からかうような口調で言った。僕はそうですねと言って微笑して頷くと、それまで座っていたソファーから立ち上がった。そしておじさんにお礼を言いかけて、ふとまだ肝心な質問を忘れていたことを思い出した。おじさんが毎年夏になると絵を描いている理由と、その描いた絵をいつもどこに送っているのかについて。南さんに訊いてきて欲しいと頼まれていたのだ。


「すいません。まだあとひとつ大事な質問を忘れていました」

 そう言った僕の顔を、おじさんは訝しそうにじっと見つめた。


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