第一話 後悔してますか?
雨の火曜日だった。
昼を少し過ぎた時間。
店内にはジャズが静かに流れている。
客は一人だけ。
窓際の席でコーヒーを飲む若い男だった。
俺はカウンターの中でカップを磨いている。
六十歳。
白髪は増えた。
老眼鏡も手放せなくなった。
それでもこうして毎日店を開けている。
店の名前は「停車場」。
駅から少し離れた住宅街にある小さな喫茶店だ。
儲かる店ではない。
だが、十分だ。
この歳になると、十分という言葉の価値がよく分かる。
若い男が口を開いた。
「マスター」
「ん?」
「人生って、後悔しますかね」
俺は少し笑った。
ずいぶん大きな質問だ。
「何かあったか」
「転職しようか悩んでて」
男はカップを見つめたまま言う。
「今の会社に残っても不安なんです」
「ほう」
「辞めても不安です」
「そりゃそうだ」
俺は新しいコーヒーを淹れ始めた。
お湯を落とす。
豆が膨らむ。
その様子を眺めながら答えた。
「後悔してるかって聞かれたらな」
「はい」
「後悔してたら店なんかとっくに畳んでる」
男が顔を上げる。
「え?」
「人生なんて失敗ばっかりだ」
湯気が立ち上る。
「もっと勉強しとけばよかったと思う」
「はい」
「もっと金貯めとけばよかったとも思う」
「はい」
「痩せとけばよかったとも思う」
男が吹き出した。
「それは今からでもできるんじゃ」
「できないから困る」
店内に少し笑いが広がる。
俺はコーヒーをカップへ注いだ。
「でもな」
男が続きを待つ。
「その失敗込みで今だからな」
「……」
「違う人生だったら、この店は無かったかもしれん」
窓の外では雨が降り続いている。
「じゃあ後悔してないんですか?」
「してるぞ」
男が首を傾げた。
「どっちなんです?」
「後悔と否定は別だ」
「別?」
「もっと良いやり方があったなと思うのは後悔」
俺はカウンター越しにコーヒーを差し出した。
「でも、その人生を無かったことにしたいかって話になると別だ」
男は黙った。
しばらくして小さく笑う。
「なんか少し楽になりました」
「それは良かった」
沈黙が戻る。
ジャズだけが流れる。
やがて男が聞いた。
「マスター」
「ん?」
「昔、何やってたんです?」
俺は少し考えた。
だが答えはいつも同じだ。
「いろいろ」
「絶対ごまかしてますよね」
「ごまかしてない」
男は苦笑した。
その時だった。
店内を見回していた男の視線が壁で止まる。
カウンターの奥。
古い木枠の額縁。
色褪せた集合写真。
大きなトレーラーの前に数人の男たちが並んでいる。
皆若い。
皆笑っている。
「これ、マスターですか?」
男が写真を指差した。
「そうだな」
「若い」
「昔だからな」
「トラック乗ってたんです?」
「まあな」
「運送会社?」
「そんなようなもんだ」
男は写真を見つめる。
俺もつられて写真を見る。
正直なところ。
あまり見ない写真だ。
飾ったのも俺じゃない。
亡くなった女房が勝手に置いていった。
集合写真の真ん中には若い頃の俺。
その右隣には大柄な男。
左には細身の男。
後ろには腕組みをした女がいる。
みんな笑っている。
今どこで何をしているのか知らない奴もいる。
もう会えない奴もいる。
俺は視線を戻した。
「仕事なんてな」
「はい」
「その時食うためにやるもんだ」
男は頷いた。
何か考えているらしい。
たぶん転職のことだろう。
その時だった。
カラン。
ドアベルが鳴る。
見慣れた老人が入ってくる。
七十を過ぎているくせに妙に元気な男だ。
「よう、マスター」
「おう」
「いつもの」
「はいよ」
老人はカウンターへ座るなり言った。
「そういやお前、大型まだ更新してんのか」
「してるぞ」
「じゃあ来週トレーラー運んでくれ」
「嫌だ」
「なんでだ」
「もう六十だぞ」
「若い若い」
「お前よりはな」
老人が豪快に笑う。
若い男は呆れたような顔をしている。
たぶんこのやり取りの意味は分からない。
二十年三十年付き合った連中なんて、大体こんなものだ。
昨日の続きみたいに話を始める。
俺がコーヒーを置くと、老人は一口飲んで言った。
「ああ、そうだ」
「ん?」
「この前な」
老人が何気なく続ける。
「三十年ぶりにアイツ見たぞ」
その瞬間。
俺の手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
老人は気付かない。
若い男も気付かない。
だが俺だけは分かった。
雨音が少しだけ遠くなる。
壁の集合写真。
その中の誰かの顔が頭に浮かんでいた。
「……そうか」
それだけ答えて、俺はコーヒーカップを磨き始めた。
だが。
その日の雨は、なぜかやけに長く感じた。




