第二十一章 竣工式の前夜
元の世界に戻る日まで、あと三日。
俺はヴェスタリア辺境伯城で、最後の準備をしていた。
各種族の長たちに、別れの挨拶を済ませた。
ガロン親方とは、辺境伯城の中庭で、最後の朝に会った。
彼は、いつものように低い声で、しかしその目に、深い感情を湛えて、俺に向かって深く頭を下げた。
「田所殿。わしらは、あんたから学んだ。これからは、人族と協力して、王国を支える。安心してくれ」
俺は、彼の頭を、何度も上げてもらいながら、ただ、頷いた。
「ガロン親方。あなたと積んだ城塞は、生涯、忘れません」
「わしも、あんたの工程表を、生涯、保管する。わしの孫の代まで、それを伝える」
「孫……いらっしゃるんですか」
「来年、生まれる」
ガロンは、初めて、笑った。
「『田所』、という名前を、つけようかと、思っとる」
「えっ」
「他の人族たちから、変な目で見られるかもしれんが、わしの孫だ。わしが決める」
俺は、何も言えなかった。
ただ、ガロンの皺の刻まれた手を、両手で握り、深く、深く頭を下げた。
エルフ族長アルテラは、銀の弓を譲ってくれた。
千年、エルフ族の最高位の弓手だけが扱えるとされる、伝説の弓。
「異界へ持って参られるが、よろしいのです」
彼女は、優雅に微笑んだ。
「弓は使えませんが、大切に保管します」
「貴公が使わずとも、弓自身が、貴公を守ります」
獣人族長は、雪豹の毛皮を贈ってくれた。
北の山岳地帯にしか棲まない、希少な雪豹の、特上の毛皮。
「貴公は、我ら獣人を、初めて『人』として扱ってくれた、人族でした」
「私は、皆さんを、特別扱いしたわけではありません」
「だからこそ、です」
彼の目に、涙が浮かんだ。
ドワーフ王からは、銘入りの鎚が届いた。
巨大な、両手用の戦鎚。
柄には「田所」の名が、ドワーフ古代文字で、刻まれていた。
俺はそれらを、丁重に断ろうとした。
でも、皆、首を横に振った。
「異界に持って帰ってください。私たちが、あなたを忘れないように」
俺は受け取った。
その夜、グレンの妹ミリヤが、辺境伯城に来た。
彼女は、十八歳。
兄と同じ、栗色の髪。
ヴェスタリア領で、機織りをして暮らしている、と聞いていた。
俺は彼女の前に出て、深く一礼した。
「ミリヤ殿。お兄様のグレンを、お守りできず、申し訳ありませんでした」
ミリヤは、首を横に振った。
「田所様。兄は、あなたの副官として死ねたことを、誇りに思っていました」
「いえ、私が、もっと――」
「いいえ」
彼女は、優しく、強く、遮った。
「兄からの、最後の手紙を、お渡ししたくて」
彼女は、汚れた羊皮紙を、俺に差し出した。
戦地から送られた、グレンの最後の手紙。
俺の元には届かなかったが、ミリヤには届いていた。
手紙には、こう書かれていた。
『ミリヤへ
俺は今、田所殿の副官として、北の戦線にいる。
もし俺が戻らなくても、悲しまないでくれ。
田所殿の傍で、人として最も尊い時間を、過ごせた。
もし俺が戦死したら、田所殿に、こう伝えてくれ。
「あなたに副官として仕えられたことは、私の人生の、誇りでした」、と。
兄、グレンより』
俺は、その手紙を、震える手で、読んだ。
涙が、止まらなかった。
ミリヤは、俺の傍で、ただ、静かに立っていた。
彼女は、最後に深く一礼し、機織りの作業に戻っていった。
その後ろ姿が、城門の闇に消えるまで、俺は、見送り続けた。
最後の夜。
辺境伯城の物見台に、俺は一人で立っていた。
月が、城塞を青く照らしていた。
完成した城壁。俺が指揮して、ガロンたちと共に積み上げた、人生で一番、誇れる仕事。
胸壁の上に、月光が落ちる影。北東角の、あの最初に積み直した石組み。風化に強い石材で、ガロンと丁寧に組んだ箇所。あれは、千年、ここに在り続けるだろう。
千年。
俺が居なくなった後の、千年。
その間、ここに居る人々が、この城塞のおかげで、生きていく。それだけで、俺の人生は、十分だった。
後ろで、足音がした。
振り返ると、リーンハルトが立っていた。
彼女は白い夜着の上に薄い肩掛けを羽織り、両手で胸を抑えていた。月光に銀髪が、川面のように揺れていた。
俺は、彼女のその姿を、目に焼き付けようとした。
明日には、もう、会えなくなる。
「田所殿」
彼女の声が、震えていた。
「どうしても、お聞きしたいことが、ございます」
「はい」
「向こうの世界に、ご家族が、おられるのですね」
「妻と、娘が」
「……そう、ですか」
リーンハルトの目に、涙が浮かんだ。
「お名前、を、お聞きしても」
「妻が、由香里。娘が、桜です」
「ゆかり、さま。さくら、さま」
彼女は、その名前を、ひとつひとつ、宝物のように繰り返した。
「素敵な、お名前ですね」
「……はい」
「お嬢様は、おいくつですか」
「十歳です。来年は、五年生」
「五年生」
「ええ。物覚えが早くて、口の達者な子です。母親に似ました」
俺は、思わず笑った。
その笑顔を、リーンハルトは静かに見ていた。
「田所殿が、お嬢様の話をされる時のお顔は、初めて見ました」
「え」
「あんなに、優しいお顔をされるのですね」
俺は、答えに詰まった。
リーンハルトは、目元を拭った。
「私は、貴方を、お慕い、申し上げて、おりました」
彼女は震える声で告げた。
「初めて、街道で、貴方が石垣について語られた、あの時から」
「リーンハルト様」
「私は、貴方の傍にいたかった。共に城を築き、共に領地を治め、共に、人生を歩みたかった」
「私も、何度も」
俺は、低く、答えた。
「私も、貴方の傍に居続けたいと、思いました」
「……」
「貴方のために、城を築きたい。貴方の領民のために、橋を架けたい。貴方が老いるまで、その隣で、工程表を引きたい。何度も、そう、思いました」
リーンハルトの目から、ぽろぽろと、涙が零れた。
「でも、私には、向こうに、待っている人がいます」
「……はい」
「私が、行かなかったら、由香里と、桜の、人生が変わります。たとえ私が居なくても、あの二人は生きていける。でも、それは私の、責任放棄です」
「……はい」
「私は、向こうで、もう一度、ちゃんと、夫として、父として、やり直したい」
「……はい」
リーンハルトは、何度も、頷いた。
涙が、雫となって、彼女の白い手に落ちていく。
俺は手を伸ばして、彼女の頬の涙を、指で拭った。
彼女は、その手を、両手で握り締めた。
冷たい手だった。でも、その奥に、確かな温度があった。
彼女は、毅然と顔を上げた。
「行ってらっしゃいませ、現場監督殿」
彼女は深く一礼した。
「貴方のおかげで、私たちの世界は、救われました。貴方は、元の世界でも、きっと、素晴らしい人生を、築かれます」
「リーンハルト様、俺は――」
俺は、初めて、自分の心の中の言葉を、口にしようとした。
でも、彼女は、優しく首を横に振った。
「言わないでください」
「……」
「言わないでくださいませ。私が、貴方を、引き止めてしまわないように」
彼女の目に、新しい涙が浮かんだ。
「でも、いつか、もし、もう一度、扉が開かれたなら」
「はい」
「もう一度、貴方の、工程表を見せてくださいませ」
「約束します」
月が、彼女の銀髪を照らした。
あの、街道で初めて見た、銀髪。
俺は、その光景を、生涯、忘れないと決めた。
リーンハルトは、最後にもう一度、深く一礼し、踵を返した。
彼女の細い背中が、物見台の階段の闇に、消えていく。
階段の途中で、一度だけ、彼女の足が止まった。
でも、振り返ることはなかった。
俺は、その場で、長い間、月を見上げていた。
頬を、冷たい風が、撫でていった。




