第二章 あんたみたいなオッサンが居るから
翌日の午後、本社役員会議室。
磨き上げられた長机。革張りの椅子。壁に飾られた歴代の代表作――ダム、高速道路、超高層ビル。創業から百二十年、この国の地図を塗り替えてきた、ゼネコンの誇り。
その重い空気の中で、俺は神島の隣に立っていた。神島の手には、俺が作った工期短縮案のプレゼン資料がある。
神島はスーツの胸を張り、流暢な営業話法で語っていた。
「本案件における工期短縮の鍵は、クリティカルパスの再設計にあります。具体的には、地下躯体工事の鉄筋先行配筋工法を見直し、型枠工事との並行化を実現することで、全体工期を約二十二日短縮できる試算です」
役員たちが「ほう」と感嘆の声を漏らす。
「神島くん、これは見事だ。これだけの再構築を、よくこの短期間で」
「ありがとうございます。現場の田所くんにも、もちろん手伝ってもらいましたが、根幹のロジックは私が考えました」
俺は黙って頭を下げた。
手伝ってもらった。
その一言で、三ヶ月の徹夜が「手伝い」になる。
でも、それでいい。現場が回れば、それで。
「特にこの、クリティカルパスの再分析が秀逸だね」
「はい。やはり工程の急所を見抜くのは、経営センスが必要ですから」
神島は涼しい顔で答えた。
俺は天井の照明を見上げて、思考を止めた。怒りも、悲しみも、もう、どこにも置き場所がない。
会議の最後、専務取締役が俺の方を見て、軽く頷いた。
「田所くんも、補佐、ご苦労だった。神島くんを、しっかり支えてやってくれ」
「はい」
俺は短く答えた。
他に、何と言えばよかったのか。
会議が終わり、廊下に出る。
神島が俺の肩を叩いた。
「田所くんさあ、いい資料だったよ。やっぱり現場のオッサンが居るから、うちの会社は変われないんだよなあ」
神島の顔が、すぐ近くにあった。
彼の整髪料の匂い。少し汗ばんだ襟の白さ。健康的に焼けた肌。三十前の、何もかも持っている男の、余裕の笑顔。
「ああいう泥臭い数字、若い役員にウケないんだよ。次からはもうちょっと、こう、見栄えよく作ってくれる?」
「……はい」
「あとさ、俺、今夜接待で現場行くから。例の地下三階の打設前のとこ。お得意さんに『うちの現場』っていう感じで案内したいんだよね。よろしく」
「現場は、まだ仮設の電気もまばらで、足元が危ないですが」
「えー、大丈夫だろ。お前、現場長なんだから、安全くらい確保できるよな?」
俺の返事を待たず、神島はエレベーターのボタンを押した。
「あ、それと」と彼は振り返った。「今度の出世コース選考でさ、俺が課長になったら、お前を所長代理から所長に推薦しといてやるよ。これでも俺、お前のこと評価してるからさ」
俺の返事に、神島は満足げに頷いて、エレベーターに消えていった。
廊下に一人、取り残される。
すれ違いざま、同期の桐谷美咲が立ち止まった。
彼女は本社経理部にいる。原価管理の数字を通じて、現場の苦労を一番よく知っている人間だ。同期の中で、唯一、神島の振る舞いをはっきり「おかしい」と言ってくれる人だった。
桐谷は俺の顔をじっと見て、低い声で言った。
「田所さん。なんで、言わないんですか」
「何を」
「あれ、田所さんの仕事ですよね。三ヶ月、寝てなかったの、私、知ってますよ」
「いいんだ。神島さんが上にあげれば、上の人たちが動いてくれる。現場が楽になればそれで」
「楽になんてなってないですよ。田所さんは、いつも、自分のことを軽く見すぎです」
桐谷の声が、少し震えていた。
「私、田所さんと同期で入って、十二年です。十二年、ずっと見てきました。田所さんがどれだけ現場を支えてきたか、どれだけ、神島さんみたいな人たちのために、自分を犠牲にしてきたか」
「桐谷――」
「いつか、後悔しますよ。自分の価値を、自分で言わないと」
「俺の価値なんて」
「あります」
桐谷の目が、まっすぐに俺を見ていた。
「あなたが現場を回してきたから、私の作る帳簿に黒字が並ぶんです。あなたが安全管理をしてきたから、私たちは事故の連絡を聞かずに済んでるんです。それを、私は知ってる」
彼女はそれだけ言って、踵を返した。
俺は窓の外を見た。
ビルの谷間に、夕焼けが沈んでいく。
桐谷の言葉が、胸の奥に刺さって抜けない。
でも、俺は何も言わない。明日も現場に行く。安全帯を締めて、ヘルメットを被って、職人たちと朝礼をする。
それでいい。それで――。
ポケットの中で、現場からの着信が鳴った。
「もしもし、田所です」
『所長! 南面の支保工で異音が! 至急来てください!』
血の気が引いた。
俺は走り出していた。エレベーターを待たず、階段を駆け降りる。
その夜、俺の人生は、まだ知らない世界へ突き落とされることになる。




