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現場監督が異世界転生してクリティカルパスで魔王軍を解体する  作者: もしものべりすと


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第一章 現場のオッサンの夜

深夜二時。


 俺は工事黒板を片手に、誰もいない建設現場の地下階を歩いていた。


 地下三階。最終形ではホテルの機械室になる空間だ。剥き出しの鉄筋とコンクリートの匂い。ハロゲン灯の白い光が、湿った床に伸びる自分の影を切り取っていた。


 明日のコンクリート打設に向けた最終確認だ。型枠の精度、鉄筋の被り厚、配管との取り合い。一つでも見落とせば、後工程の数百人が止まる。


 現場用語で「被り厚」というのは、コンクリートの表面から内部の鉄筋までの距離のことだ。これが薄いと、雨水が鉄筋を錆びさせ、建物の寿命が一気に縮む。逆に厚すぎても、構造計算上の問題が出る。要するに、ミリ単位で守らなくてはいけない、地味で、しかし命に関わる数字。


 胸ポケットからメジャーを取り出し、柱の鉄筋間隔を確かめる。


 よし、図面通り。


 俺は黒板に日付と工区を書き込み、写真を撮る。


 この写真は、後で施工記録としてアルバムに綴じられ、施主に提出される。完成後の建物では絶対に見えなくなる、コンクリートの中身を「ここはちゃんとやりました」と証明する唯一の証拠だ。誰も見ない。けれど、もし将来、地震でこのビルが揺れた時、この一枚が誰かの命を守る。


「田所所長、まだいたんですか」


 声をかけてきたのは、警備員の小柳さんだった。


 六十二歳。元は別の現場で職人をやっていて、腰を痛めて引退後にこの仕事に就いたと聞いている。深夜の現場で、彼の靴音だけが、いつも俺の孤独に寄り添ってくれていた。


「ええ。明日の打設、量が量なんで」


「もう三日連続だって聞きましたよ。家族、心配してませんか」


 俺は曖昧に笑って、黒板を下ろした。


 心配されているのかどうかも、もうわからない。妻と娘の顔を、最後にちゃんと見たのはいつだったか。


 小柳さんは「無理しないでくださいよ」とだけ言って、地上階の警備室へ戻っていった。


 俺はもう一度、地下の闇に向き直った。


 ゼネコン――総合建設業の作業所長、田所健司。三十五歳。


 現場の一切を取り仕切る責任者であり、誰よりも早く来て誰よりも遅く帰る男。それが俺の肩書きだ。


 地上に上がると、東の空がうっすらと白み始めていた。


 俺は事務所に入り、コーヒーをいれた。机の上には、ぼろぼろになった工程表が広げられている。


 全工種、全工区、全資材の納期が縦横に並んだ巨大な表。これを毎日睨み、毎日書き直すのが、現場監督の仕事だ。


 俺は赤いペンを手に取り、工程表の一点に丸を描いた。


「クリティカルパスは、ここ」


 独りごとが、誰もいない事務所に消える。


 クリティカルパスというのは、建設業界の言葉だ。


 ひとつの建物には、数百種類の作業がある。鉄筋、型枠、コンクリート、内装、外装、設備。それぞれが互いに依存し合い、複雑なネットワークを作る。


 その中で、「ここが一日遅れたら、竣工日が一日遅れる」という最重要の経路――それがクリティカルパス。


 逆に言えば、それ以外の工程はどれだけ遅れても、ある程度のバッファ内なら竣工日は守れる。


 工程表を睨むということは、つまり、その一本の道を探し続けるということだ。


 俺はこの作業が、嫌いではなかった。むしろ、好きだった。


 あちこちに分散して見える混沌の中に、たった一本、勝ち筋を見つける。

 現場の朝、職人たちにそれを指差して「今日はここに人を集めよう」と告げる。

 そのために、毎晩、一人で工程表を睨む。


 誰も褒めてくれなくても、別に構わない。


 明日もまた、コンクリートが打たれ、柱が立ち、誰かの家や、誰かのオフィスになっていく。それで、いい。


 パソコンの画面に、メールの通知が浮かんだ。


『田所くん、明日の役員プレゼン、俺が代わりにやっておくから。資料は俺の名前で出しておいた。神島』


 俺はマウスを止めた。


 今度の役員プレゼンは、俺がこの三ヶ月、ほとんど寝ずに練り上げた工期短縮案だった。


 提案資料も、原価計算も、施工計画書の修正も、すべて俺が書いた。


 神島翔太。本社営業本部のエース。創業家の遠縁で、入社三年目にしてすでに次期執行役員候補と囁かれる男。


 彼は、いつもそうだった。


 俺の作った資料を「自分の発案」として上にあげる。俺は、いつもそうしてきた。


 黙って、頷いて、「現場が回ればそれでいいです」と言ってきた。


 最初の頃は、悔しさもあった。


 入社十年目、初めて任された大型再開発プロジェクトで、俺は予算を二割削減する施工計画を立てた。役員会議で、その案を発表したのは神島だった。当時、彼は俺の三年下の後輩だった。


「これは、神島くんのアイデアか。さすがだな」


 役員のその一言で、俺の三ヶ月は、神島の手柄になった。


 俺は会議室の後ろで、ただそれを聞いていた。


 その夜、俺は家に帰り、妻にだけ話した。


「悔しいけど、まあ、現場が動くなら、それでいいかな」


 妻は何も言わず、麦茶をついでくれた。


 翌朝、俺はまた現場に出た。


 それからの五年、俺の手柄は、すべて神島の名前で報告されてきた。


 俺はメールを閉じ、もう一度工程表に向き直った。


 赤い丸の中で、ペン先がかすかに震えている。


 外で、夜明け前の鴉が一声、鳴いた。


 俺はふと、引き出しを開けた。


 その奥に、家族写真が一枚、入っている。三年前、娘の小学校入学式。妻と娘と、新調したスーツの俺が、桜の木の下で笑っている。


 あの日以来、家族で写真を撮っていない。


 娘はもう、四年生だ。来年は五年。再来年は六年。


 その時、俺は何をしているだろう。


 また、深夜の現場で、誰かの手柄になる工程表を書いているのか。


 俺は写真を引き出しに戻し、立ち上がった。


 窓の外で、東の空が、淡く染まり始めていた。


 その声が、これから始まる長い長い物語の、最初の合図だったということを――この時の俺は、まだ知らなかった。

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