第17話
夜は更けていたが、エレボスはその足を止めなかった。
《Γ:第三区画》――それは王都内でも特に調査が進まぬ区域。地図に残る行政区分の影に隠れて、記録上では用途未確定の“空白地帯”として管理されている場所だ。通常の巡察官や執政官でさえ立ち入る機会は少なく、治安維持の対象からも外されがちな灰色地帯。
だが、その“盲点”こそが、何かを隠すには最適だった。
エレボスは静かに、第三区画の外縁へと足を踏み入れる。区画境界を示す石標すらも風化し、灯り一つない道には、かつて人が通っていた痕跡だけが残されていた。
歩を進めるごとに、空気が変わる。魔素の流れが微かに捻じれ、地の下から不自然な鼓動が伝わってくる。それは生き物の鼓動ではない。むしろ、何か“術式”が動いている時の、不協和な振動だ。
「……潜っているな」
呟いたその声が、湿った石壁に吸い込まれていく。
区画の中心には、かつて工房だったと見られる建造物群が並んでいた。だが、そのいずれもが崩れかけ、屋根も壁も朽ちかけている。その荒れた姿の奥――ただ一棟、保存状態の異なる建物があった。
二階建ての低い構造。扉は施錠されておらず、あたかも廃墟のように偽装されている。だが、床の埃は薄く、物音を立てずに歩けば足跡すらも残る。
静かに足を踏み入れると、室内は不自然なほど静かだった。
最奥、書棚の裏に偽装された扉を発見する。金属で封じられた扉には、簡素な印章が刻まれていた。魔力感知式の鍵、しかも複数の呪文式で構成されている。
エレボスは仮面の奥で息を整えた。
「……ここが、“核”に近い場所か」
指先に魔力を灯し、封印に干渉する。
やがて“音”が変わった。石造りの通路が、地下へと続いているのが見えた。明らかに人の手で拡張された空間だが、どこか“儀式的な意図”を孕んだ構造だった。
その通路の奥、微かに香が漂っていた。腐臭ではない。むしろ、精練された魔術用香材が焚かれているのだ。儀式の準備、あるいは継続中の可能性。
視界を遮る影。
奥の広間に、誰かがいる。
複数の気配――だが、明らかにそれは“生者”ではなかった。
仮面の奥の瞳が鋭く細められる。空気中の魔素の流れにわずかな乱れが生じ、術式の残滓が壁面に浮かび上がる。
キメラ化された者たちの気配。
「……失敗作の“廃棄地”か」
床に転がるものの一部は、既に人の形をしていなかった。ただの“魔物”ではない。どれもが、“かつて人だった”という痕跡を僅かに残していた。
彼らの姿を見て、エレボスは口を引き結ぶ。
「見逃してきた“過去”の連なりか……」
だが、悔恨の中に留まっている暇はない。
通路の奥に、まだ“術者”の気配が残されていた。
壁際に一つ、魔術の発動痕跡を発見する。転送術式。だが不完全――出口先の座標指定に揺らぎがあり、痕跡から逆算すれば、移動先の座標は……
エレボスは小さく息を吐く。
「北端、祭儀廃堂区画。逃がしたつもりか」
仮面の奥で瞳が燃えた。
「だが、もう“先回り”できる」
闇の深淵を裂いて、仮面の騎士は再びその脚で罪を追い始めた。
王都の夜は、未だ、終わらない。
北端、祭儀廃堂区画――。
そこはかつて、聖王家の血筋が神託を受けたとされる古の聖域だった。
だが今では、すでに廃墟と化し、一般人はおろか、役人ですら足を踏み入れることのない“空白地”である。
石畳は砕け、柱は苔に覆われ、祭壇は鳥と風の巣窟と化していた。けれど、その奥に広がる地下聖堂だけは、どこか異様な保存状態を保っていた。
自然の時間だけでは説明のつかない“管理の手”が、明らかにここへ届いている。
エレボスは崩れかけた回廊を抜け、無言のまま地下への階段を下っていった。
音もなく、まるで地そのものが息を潜めているかのような深さ。
そこには明確な気配があった――それも、二つ。
一つは、逃亡した術者。
もう一つは、さらに“深い存在”だ。
仮面の下で、エレボスの目がわずかに細まる。
「……やはり、術者は“独り”ではないか」
薄暗い回廊の終点にある扉。その向こうから漂ってくる魔力は濃密で、まるで生き物のように扉の隙間から這い出てくる。
それはかつて、王都のどこにも存在しなかった類の魔だ。
一度も表に現れたことのない、“裏の”呪術。
扉を押し開くと、そこに広がっていたのは儀式の空間だった。
石の祭壇、血で描かれた陣。
無数の術式記号が縫い込まれた布と書板。
中央に立つ人物は、逃亡した術者に間違いなかった。だがその姿は、もはや“人”とは言い難い。
顔の下半分が崩れかけ、背には骨のような突起が走っていた。
仮面の奥で、エレボスの目が鋭く光る。
「……キメラ化を、自らに」
男は笑った。
「王都はもう、終わっている……。それでも、お前のような旧世代の“秩序”に、抗う者が現れないとでも?」
エレボスは答えない。
ただ一歩、足を踏み出した。
その瞬間、術者が背後の術式に手を翳した。
陣が咆哮を上げる。
突如として空間がねじれ、祭壇の石床が浮き上がった。
そこから現れたのは、実験に使われたであろう被験者の“混合体”。
複数の生物を混ぜ込まれたキメラの巨体が、咆哮と共にエレボスへと牙を向ける。
だが、エレボスの身は揺るがない。
脚を地に沈め、左腕に魔力を集中させる。筋肉がうねり、骨の内側から魔力が軋む音を立てた。
「貴様の歪みが、王都の根を腐らせる前に……潰す」
キメラが吠え、爪を突き出して襲いかかる。
エレボスはわずかに身を沈め、斜め下から拳を放つ。
拳に宿した魔力が放つ閃光が、獣の顎を吹き飛ばす。
が、それでもキメラは止まらない。
口元から霧を吐き、尾のような部位を変形させて鉄のような突きを繰り出す。
エレボスは肩を捻って受け流し、わずかな隙間に逆突きで脇腹を抉る。
深く突き刺さる感触と同時に、手応えが消える――術者が逃亡を始めた。
陣の中央が再び揺らぎを見せた。
空間転移の術式。
それを狙い、エレボスは前蹴りでキメラを後方へ吹き飛ばす。
術者の首元まで、わずか三歩。
だが、転移はその寸前で完了してしまう。
残されたのは焦げたような転移痕と、半壊した祭壇のみ。
エレボスは立ち止まる。
息一つ乱さぬまま、祭壇を見下ろした。
「――また、逃したか」
声に怒りも焦りもない。ただ、静かに事実を受け入れる声。
だが、戦いの中で得たものは確かにあった。
術者が残した封印痕、その符号の一部には“上位印章術式”が含まれていた。
王都内部、限られた機関にしか知り得ない技法。
つまり、これはただの“反乱”ではない。
王都のどこか深部にまで、術者たちの根が食い込んでいる。
エレボスはひとつ、息を吐いた。
仮面を撫でながら、再び夜の静寂へと身を沈めてゆく。
「……次は、根を断ち切る」
王都の闇は、いよいよ核心に近づいていた。
王都の夜は静かだった。
だがその静けさは、決して安らぎではない。
むしろ、音を潜めた恐怖が、石畳の隙間から、瓦礫の陰から、壁のひび割れから、まるで血脈のように脈動していた。
エレボスは祭儀廃堂を背に、回廊の出口で一度だけ立ち止まり、振り返った。
崩れかけた天蓋の向こうに、夜空の星はない。
あるのはただ、闇。
そしてその闇の奥に、また新たな影が確かに“息づいている”ことを、彼は感覚で理解していた。
「今度こそ……掴む」
その呟きとともに、彼の影は再び王都の路地へと溶けていった。
──
翌朝、中央官庁区。
陽光が高く昇り、白い石造りの建物がきらめいていた。
王都の“顔”とも言える場所。その一角、行政記録局の一室で、ヴァルスは一枚の紙を前に、静かに眉根を寄せていた。
そこには、昨夜の調査で得た情報――術式痕と符号の断片が記されている。
王国の術典と照らし合わせ、さらに過去の紛争記録までさかのぼっても、この符号は“本来知る者が限られている”高位機密だった。
「……内部協力者がいる可能性が高い、ということか」
低く呟いた声に、誰も応えはしない。
だが、彼の視線は明らかに“その先”を見ていた。
ふと、壁際の本棚から古い書類を一冊引き抜く。
それは十年前の“魔技術導入計画”に関する記録。
王国が一度だけ、魔導技術を軍事応用するために開いた実験区画──今では凍結され、立入禁止となっている。
ヴァルスの手が止まる。
「……東錬区か」
静かに椅子から立ち上がると、記録の一部を革袋に収め、外套を翻して部屋を出た。
彼が向かうのは、誰も寄り付かぬ東錬区。
そして、そこで再び“夜の仮面”が何を見つけるのかを、彼だけが知っていた。
──
その夜。
再び、王都の影にエレボスの姿が溶けていた。
術者の痕跡を追った先、辿り着いたのは“儀式”の副痕が残る痩せた地下道だった。
小さな引っ掻き傷のように、壁の一角に術式の起動痕が残っていた。
そこに刻まれた印は、十年前に凍結された“東錬区”の封印術と一致していた。
エレボスの目が仮面の奥で細められる。
「……繋がっている、か」
不気味な静寂。
だが、空気は確かに“生きている”。
術式を使った者がつい先ほどまでここにいたと、空気が訴えていた。
彼は腰に差した巻物を取り出し、残留術痕を簡易的に抽出する。
視界の端に、かすかに揺れる“黒い線”――魔力の痕跡。
それを辿れば、次の標的へと至るはず。
エレボスは立ち上がると、闇へと歩を進めた。
風は動かない。夜は静かにその歩みを見つめていた。
だが――その静けさの中、遠くで何かが割れるような音が響いた。
それは予兆だ。
次なる戦いの、歪みの始まり。
エレボスは静かに足を止めた。
仮面の奥、眼差しは冷たく前を見据えていた。
「次は……必ず仕留める」
王都の闇が、さらに深く蠢き始めていた。
王都の南東、錬金術師たちの実験場だった東錬区は、今や誰も近づかぬ廃墟と化していた。かつては輝かしい研究の地であったその場所は、ある日を境に封鎖され、記録すら改竄された。だが、エレボスの足は迷わなかった。
仮面の奥の瞳が、崩れた石壁や魔術障壁の痕を一つ一つ追っていく。
壁のひび割れには、抑圧しきれなかった魔力の残滓が、未だ脈動の痕跡を残していた。足元の石畳には、踏みしめられた形跡があり、それはごく最近のものだ。
“誰か”が、確かにここを通った。
そしてその“誰か”が、王都の闇を操る一端であると、エレボスは直感していた。
廃棄された錬成窯の裏手。
物音ひとつない薄暗がりの奥に、隠された階段が口を開けていた。
封印結界の崩れ跡からして、最近になって解除されたものらしい。かすかに流れ込んでくる風には、血と硫黄の匂いが混じっていた。
静かに地下へと降りていくエレボスの足取りは、まるで過去をなぞるようだった。
十年前。王国が魔導融合兵器の研究を進めていた時代。
無数の人間が“素材”とされ、幾重もの命が無為に砕かれたという“影の計画”。
それが、今なお息を吹き返そうとしているのだ。
地下通路はねじ曲がった神経のように、無秩序に伸びていた。
苔むした石壁に指を這わせると、指先に染みつく微かな感触。
血だ。時間が経ってもなお、魔力と結びついた血液は異常なほど鮮明に残っていた。
「……間に合わなければ、また犠牲が増える」
その言葉を胸中で呟いた瞬間、風が変わった。
警戒の念が、仮面の奥で鋭く走る。
すぐ先の通路、突き当たりの部屋から、かすかに響く微細な“音”。
水を一滴垂らしたような音。だが、それは明らかに“不自然”だった。
エレボスは腰を低くし、闇に身を溶かしながら接近する。
そして、視線が部屋の奥へ届いたとき――見た。
祭壇の前に、奇怪な術具を並べた男が立っていた。
全身に黒い帯のような模様が走り、背中にはまるで“他の何か”と融合したかのような、異形の器官が脈動している。
そしてその傍らには、すでに“半分”キメラ化した犠牲者が、眠るように横たわっていた。
「――そこで止まれ」
低く、静かな声が石室を震わせる。
男が振り向いた。目はすでに人間のそれではない。
裂けた瞳孔、口の端に異様な筋肉の隆起。
そして、笑う。
「やはり来たか。“仮面の騎士”……エレボス」
その名を、奴は知っていた。
瞬間、エレボスは一歩踏み出し、魔力を身体に纏わせた。
足元の石が軋み、闇に包まれた腕が、紫電のような輝きを宿す。
敵は笑いながら背を逸らすと、後方の壁に触れた。
術が発動し、空間が揺れる。
転移術だ――!
「逃がさん」
叫ぶと同時に、エレボスは全身に魔力を走らせる。
魔法陣の中心へ拳を叩き込んだ。
だが術は未完成ではなかった。
男の身体が霧のように揺れ、転移とともに消失する。
残ったのは、変質した血の匂いと、僅かな残滓のみ。
エレボスは残された犠牲者の傍に跪き、そっと額へと手を置いた。
呼吸は浅く、だがまだ“人”の輪郭を保っている。
間に合ったか――いや、まだわからない。
彼は即座に治癒術を展開し、最小限の生命維持を施す。
「必ず元に戻す……お前だけは、取り戻す」
静かに呟いたその声は、誰に届くでもなく、地下の闇に溶けていった。
だが、エレボスの視線は既に次を見据えていた。
逃げた術者は、ただの手駒ではない。
“知っている”存在――つまり、何者かの“核”に近い者。
王都の闇は、また一段と深さを増していく。
仮面の下、冷えた瞳が静かにその中心を見据えていた。




