第16話
地下から出たエレボスは、そのまま人目を避けるように王都の裏路地を進んだ。まだ夜は深く、街は眠っていたが、彼の心には眠る暇などなかった。背中に背負った書簡の封筒が、衣擦れとともにわずかに音を立てる。風が、東錬区からの冷気を運んでくる。
「“Λ”……」
仮面の奥で、唇がその名を呟いた。
表に記録の一切が残っていない、名もなき術者。“ラムダ”という仮称も、裏社会で流布しているあだ名に過ぎない。だが、書簡に残された指示の正確さ、術式の精密さ、そして何より、倫理観を無視した改造技術。その全てが、国家レベルの支援を疑わせるに足る内容だった。
エレボスは路地の陰に隠れ、手元の封書から書簡を慎重に取り出した。封印符で守られた表紙を開き、さらにその裏――細工の施された二重構造の内側に、もう一枚の文が隠されていた。
『実験体“第七”は、適合率87%を記録。改良の余地あり。次回は“知性”の統制を重視せよ。』
手の中の紙が、かすかに震えた。
これは、“偶然”ではない。誘拐された市民、失踪した子供、孤児院の支援打ち切り――すべてが、素材を集めるための準備だった。実験体、という言葉が示す通り、それらは命ではなく“部品”として扱われていたのだ。
そして、それらが組み上げられた先にあるのが――
「“戦闘特化型キメラ”の量産か……」
エレボスは苦く息を吐いた。術式の記述を読み込めば、そこに確かな知性があることは明白だった。ただの殺戮兵器ではない。知性と感情を保持したまま命令に従わせる技術。それはもはや、魔術の域を超え、兵器開発の領域に踏み込んでいる。
だが、なぜその技術が王都の地下に?
考えを巡らせていると、仮面の奥の視界に、わずかな影が映った。
屋根の上。人影がこちらを観察していた。
「……監視か」
エレボスは目を細めた。先ほどの結界の中に、監視術式は見られなかった。だが、別の手段で尾行していた者がいた可能性はある。軽い気配、だが確かにこちらを追っている。民間の傭兵か、それとも“Λ”の私兵か。
影が動くより早く、エレボスは壁を蹴った。
その瞬間、夜気を裂くように空を駆け、屋根の上へと跳躍する。手に宿した魔力は、追撃ではなく、あくまで追尾のための“捉え”だ。目を奪い、動きを鈍らせる短詠の《導影紋》。術式が描かれ、空中に薄い光の網が走る。
だが――影は、まるでそれすらも読んでいたように、身をひるがえした。
マントを裂くように振るい、体勢を低く保ちながら、屋根伝いに逃げる。速度は速い。訓練された動き。そしてその背には、短剣と巻物が複数。
「情報を持っている……!」
エレボスは即座に追走する。屋根から屋根へ、王都の夜空を駆け抜ける影が二つ。その後ろで、月が静かに雲間に消えていった。
やがて、逃げる者が急に動きを止めた。
死角に隠れた小広場。そこに設置されていたのは、またしても術式の罠だった。反応速度からして、もはや確信に変わる。
この者は、組織の中でも上層に近い存在。
追い詰められた者が、最後に取った行動は――
「――自壊か……!」
掌を地に叩きつけるようにして放たれた術式。それは、身体そのものを媒体として術を強制発動させる“自爆魔術”だった。情報を渡さぬよう、記憶すら灰にするための術。だが、エレボスはそこに間に合った。
右手を強く振り下ろす。
「《封緘・灰戻し》ッ!」
複数の印を一気に展開し、魔術の発動を強制遮断。術者の魔力に干渉し、発動を断ち切る古の術。力任せの破壊ではなく、繊細な構造を逆に利用した抑制。だがその代償は重く、術者の意識はその瞬間、燃え尽きるように絶たれた。
倒れた術者の傍らに、転がる巻物が一つ。
拾い上げたエレボスの瞳に、わずかに鋭い光が灯った。
そこには、次の“搬送地点”と、記号で示された“管理者コード”が記されていた。
「ようやく……核に触れられる」
仮面の奥の声は、静かに闇を裂く。
王都の影が、核心へと形を成し始めていた。そしてその深部には、いまだ姿を見せぬ“Λ”が、次の一手を準備している。
だが、エレボスもまた、闇の底に手を伸ばしていた。
仮面の騎士は知っている。
闇を倒すには、闇の側に立たねばならないということを。
王都の空気が、いつもより冷たく感じられた。
巻物を懐に収めたエレボスは、意識を失った術者の身体を静かに調べ始めた。所持品の中には、符、破損したペンダント、そして小型の魔力結晶が一つ。結晶に触れると、微弱だが“命令波”の痕跡が残っていた。
「やはり……命令系統は“声”による強制支配。意思を持たせた上で制御する、というより、完全な服従に近いか」
口調に感情はなく、ただ事実を確認するための独白だった。
ふと、風が吹いた。広場に静寂が戻る。
そしてエレボスは、術者の身体を覆っていた装束の下――背中のあたりに奇妙な痕跡を見つけた。文字にも記号にも分類できない、まるで血管と融合したかのような“螺旋の刻印”。
それを見た瞬間、仮面の奥の瞳が細められた。
「また……“あの刻印”」
以前の事件で見たものと酷似していた。地下の研究施設跡、獣のようなキメラに施されていた同じ刻印。術者たちはその印を身に刻むことで、何らかの強化あるいは指令系統と接続されていた可能性がある。
「刻印と命令波……となれば、組織の中核には“魔術師”だけではなく、“紋章技師”がいる。しかも、かなりの技量だ」
情報が繋がり始めていた。
この術者は単なる実行部隊だ。だが、彼を動かしていた構造と支配の形式には、一貫した設計思想が存在する。そしてその思想は――命よりも“構造”を重んじる、非人道的な知性の産物だ。
「次は、“搬送地点”か」
巻物に記されていた場所は、東錬区のさらに南、産業廃棄物の集積場に近い地帯だった。人目が少なく、巡回も限られる。身元不明者が出入りしても気付かれにくい。
仮面を軽く指先で押さえた。
「……姿を変える必要があるな」
物資庫の影で装束を整え、エレボスは裏通りを通って再び闇の中へと消えた。
◇
翌日。陽の光が王都を照らす中でも、エレボスは仮面を外し、王都衛士“デヴォン公補佐”としての顔に戻っていた。
彼の姿は変わっても、眼差しの奥にあるものは変わらない。
正午過ぎ、王都の治安維持会議の一環で、各区域の治安状況と未解決事件の報告が行われていた。文官たちのやり取りの中に、先日の孤児の失踪事件や、妙に遺体の損壊が激しい野良獣被害といった、“それ単体では重大に見えない”事例がいくつも報告されていた。
デヴォンは黙って耳を傾ける。そして、ふと小さく呟いた。
「分割された全ての点が、“同じ線”上にある……それに気付ける者が、果たして何人いるか」
手元の報告書に、赤線を引く。
「次は、集積場だ」
声には、決意と共に微かな憐憫が混ざっていた。
それは、この先に向かう先で、また誰かの“尊厳”が踏みにじられているかもしれない、という直感。そして、自分がそれを止められる唯一の存在であるという自負。
夜はまた、近づいていた。
仮面は再び、王都の闇の下でその力を必要とされるだろう。
そして今度こそ、“Λ”の影に、確かな一撃を打ち込むために。
夕刻、陽が傾きはじめ、王都の影が長く伸びる頃。デヴォン公は静かに姿を消し、仮面を手に東錬区の外縁部へと向かっていた。
産業廃棄物が積み上げられた東錬集積場は、王都の発展の裏で見過ごされてきた場所だ。錆びついた金属と煤けたレンガが積層する空間には、風すらも躊躇うような淀んだ空気が漂っていた。
その中心に、かつて工房だったと思しき廃屋がある。地図には記されていない建物で、報告書の巻物に記された“転送痕跡”のあった地点と重なっていた。
エレボスは、仮面を装着した。
空気が変わる。彼の背後で闇が音もなく沈み込み、殺気が満ちる。
廃屋の扉は鍵こそ掛かっていなかったが、魔術による結界が残されていた。触れれば即座に燃え上がる“警告炎”の痕跡が見える。だが既に解除されて久しい。内部は無人だった。
しかし、痕跡は残っていた。
床に刻まれた召喚陣の一部。使用された魔術素材の残渣。天井の梁に吊るされた拘束器具。そして、血液。新しくはないが、確かに人のものだ。
「ここで“変質”させられたか……」
その瞬間、足元の埃が僅かに揺れた。
気配。近い。
エレボスは声を発さず、足音もなく身を翻すと、倉庫の裏手――積まれた資材の陰へと音もなく踏み込んだ。
そこにいたのは、ひとりの少年のような影だった。
痩せ細った体。くすんだ布を纏い、手足を縮こませている。明らかに、逃げてきたか、あるいは捨てられた孤児のような印象だった。だが。
エレボスは仮面の奥で、目を細めた。
「……お前は、“そこ”にいるべきではない」
少年はこちらを見ない。首を小さく傾げ、震えていた。しかし、その呼吸が妙に浅く、一定のリズムを刻んでいることに、エレボスは気づいた。
まるで、計測された呼吸のように。
「その姿は、偽りだな」
静かな声。
次の瞬間――影が蠢いた。
少年の背から、何かが音もなく“生えた”。
蜘蛛の脚のような異形の肢。骨と節、甲殻と筋繊維がむき出しのまま、六本の脚が背中から展開する。それは生物としての“存在”を逸脱した、“創られた生き物”の姿だった。
「──キメラ、か」
言葉と同時に、床を蹴った。
エレボスの拳が、肉を砕く轟音と共に宙を切る。キメラの脚が甲高い金属音を立てて受け流し、反撃として毒の針を打ち出してくる。
だが、仮面の騎士は動じない。
拳が炎を帯びる。熱ではなく、封じの魔力。近距離戦闘に特化した“魔力式拳撃”――対象の動きを殺し、内部から魔力を断ち切るための技術。
キメラが一歩後退した。足元を崩し、天井に這い上がろうとする。だがその瞬間、天井を先回りしていたエレボスの脚が、真上から落ちるように振り下ろされた。
地面が揺れ、廃屋の梁がきしむ。
呻き声のような音を上げ、キメラは瓦礫の中に叩きつけられる。が、その体から血は流れない。ただ、表皮が割れ、露出した筋肉から魔素が漏れ出していた。
「……術式で構成された肉体構造。“器”を操作する系統の術法か」
仮面の奥の目が鋭くなる。
「だが、この程度で“作られた存在”を野に放つとは、どういう了見だ」
一歩、また一歩、瓦礫の中のキメラへと近づく。
だが、地面に転がっていたその身体が急に震えた。内部で起動したのは、転送術式の亜種――“肉体崩壊と痕跡隠蔽”を目的とした、自己破壊型の魔術だった。
「……っ」
間に合わなかった。
魔術が発動する寸前、エレボスは拳を放つ。その瞬間、術式の中心核に打ち込まれた魔力が過剰干渉を起こし、爆発は最小限に抑えられた。
煙が晴れたとき、瓦礫の中にはもう、何の形も残っていなかった。
ただ――
一枚だけ、焼け焦げた紙片が風に舞った。
それは、黒い印章と共に、ある文字列が刻まれていた。
《"Γ:第三区画"》
エレボスは静かにそれを拾い上げる。
「次の標的……いや、“次の実験場”か」
仮面の奥の目が、夜の奥へと細められていく。
「だが、もう逃がさない」
王都の闇は未だ濃い。だが仮面の騎士は、その中心へと一歩ずつ近づいていた。




