第14話
王都の朝は早い。
石畳に差し込む陽光が、まるで昨日の戦いなど幻であったかのように、通りの隅々を明るく照らしていた。
街角の市場では、野菜を詰めた籠を担いだ老女が、元気よく声を張り上げている。パン屋の青年が店先で焼きたての香りを漂わせ、子どもたちはその横でじゃれ合っていた。
そんな穏やかな日常のなか、ひとりの男が、ゆっくりと歩を進めていた。
「おや、デヴォン公。今朝もお早いですねえ」
通りの角、八百屋の男が顔を上げ、にこやかに声をかける。
デヴォン・バルザック公爵──仮面を脱いだ“エレボス”が、穏やかな微笑みを浮かべて帽子を軽く持ち上げた。
「早い者勝ちですよ、アルバート殿。良い野菜は、誰かが選ぶ前に買うものですからな」
「はっはっ、こりゃ一本取られた。今朝は人参が上物でしてね、奥様方が狙ってるんです。公のお宅にも一本どうです?」
「ありがたい。では後で取りに寄らせてもらいましょう」
そんなやりとりをしながら、彼は街を巡る。
顔なじみの子どもたちが駆け寄ってくると、何かと小さな飴玉を渡したり、簡単な手品を見せて笑わせたりしていた。
「デヴォンさま、今度のお祭りも来てくれる?」
「もちろんだとも。君たちが立派に歌をうたってくれるのならね」
誰もが彼を信頼していた。気品と優しさを備えた、理知的な貴族。
王都の高官の一人にして、住民に最も親しまれている人物。
だが、その笑顔の裏には──昨夜、命を懸けて闘っていた仮面の騎士の素顔が隠されていることを、誰ひとり知らない。
通りを抜け、彼は行政塔の一角にある執務室へと入る。
机の上には、昨日の事件に関連すると見られる資料がいくつか置かれていた。
死体の損傷具合、目撃証言、路地裏に残された不可解な刻印。
そのすべてを、彼は淡々と──だが、緻密に精査していく。
「やはり、あの脚は“後付け”の魔導器官だな……。となれば、改造された個体か」
ふと、目を細める。
証言者の一人が記した、妙な違和感。
“あの女は、声を発しなかったのに、笑っていた気がした”──それは、前夜に接触した女の印象と一致している。
──現場で見た、あの冷たい目。
人間としての輪郭を保ちながら、どこか“違うもの”になり果てていた存在。
「まだ始まったばかり、か……」
書類を静かに閉じると、彼は椅子から立ち上がり、窓の外を見やった。
街のざわめきは変わらず、子どもたちの声もどこかから聞こえる。
穏やかな日常の皮を被った、王都という名の巨大な“容器”。
──そしてその内奥に、確かに満ちつつある“何か”。
「私が笑っていられるうちに、終わらせねばな……」
誰にも悟られぬように、再び彼は街へと歩き出す。
声をかけられれば微笑み、肩を叩かれれば冗談を返しながら──
“昼”のデヴォン公爵は、今日も人々の信頼を一つずつ積み上げていた。
だが、その足取りの奥底には、確かに“闇”を追う者の覚悟が潜んでいた。
デヴォン公爵は、王都の中心からやや外れた、南地区の通りへと足を延ばした。
かつては貴族たちの別邸が建ち並んでいたこの区域も、今では多くが商業地として姿を変え、細い路地の合間には下町のような活気と雑多な空気が共存していた。
「おや、デヴォン様……!」
通りの先で声が上がる。腰の曲がった老婆が、小さな薬草屋の前で立ち止まっていた。
その顔には疲れがにじんでおり、呼吸もわずかに乱れている。
「お困りですかな、ユリア夫人」
「ええ、荷物を取りにいった帰りで……少し道が混んでいてな。まったく、若い者はこういうときに限って姿が見えん」
「少々お手をお貸ししても?」
にこやかにそう言うと、彼は重たそうな布袋を軽々と持ち上げた。
筋肉の線が目立たぬように仕立てられた上質なコートの下、その腕には人知れず鍛え上げられた力が秘められている。
「本当に、いつもいつも……こんなお偉いお方が、街を歩いてくださるなんて。王都もまだまだ捨てたもんじゃありませんねえ」
「私もこの街の一員。困っている人がいれば、手を貸すのは当然のことでしょう」
老婆は何度も礼を述べ、店の奥へと戻っていった。
それを見送るデヴォンの横を、数人の子どもたちが走り抜けていく。
「おじさーん! 昨日の手品、もう一回見せてよ!」
「おじさんはちょっと用事があるんだ。でも……ほら、これを持っていきなさい。あまり走りすぎると転ぶぞ」
懐から取り出した飴玉に子どもたちが歓声を上げると、彼は小さく手を振って歩き出す。
──穏やかで、誰からも好かれる貴族。それが昼のデヴォン公爵だ。
だが、その足の向かう先には、別の目的があった。
南地区の一角、使われなくなった倉庫が並ぶ一帯。
行政資料では「再開発予定区域」とされているが、実態は空き家や廃墟が増え、不法占拠や密輸が横行する、王都の見えざる“影”だった。
デヴォンは静かに建物の一つに近づいた。
扉の鍵は壊され、内部には古びた木箱と、散らばる藁くず。だが、何より目を引いたのは、奥の壁にこびりついた“灰色の粉”。
彼は指先でそっとそれをぬぐい、鼻に近づける。
「……死花の燃え滓。しかも、加工済みのものか。やはり、ここにも手が伸びているな」
死花とは、違法薬物の原料とされる魔力性植物。禁制品でありながら、密かに流通しているという噂は絶えなかった。
それが、こんな市民の目に触れぬ場所で扱われている──しかも、昨夜の敵と同じような痕跡を残して。
「……“夜”にも、この情報を伝えなければならんな」
彼の声は誰にも届かない。
だが、仮面の裏の戦士は、昼の光のなかでも眠ってなどいなかった。
彼の目は既に、次なる“出入口”を探している。
そして、その目はやがて、ある男の姿を捉える。
──黒衣の若者。南地区の巡回でも見かけたことのない顔。
だが、視線の動かし方や足取り、群衆の中での姿勢──すべてが「見られること」に対する異常な訓練を思わせる。
「……興味深いな。さて、貴殿はどちらの者か──?」
帽子の影で表情を隠しつつ、デヴォン公爵は新たな“疑念”に向けて、静かに歩を進めた。
その笑顔の裏に潜む仮面の騎士が、再び目を覚まし始めていた。
人の往来もまばらな路地裏に、柔らかな午後の光が射していた。
だが、その陽光の届かぬ陰に、ひとつの小さな影がうずくまっていた。
デヴォンは足を止めた。
瓦礫と木箱が積まれた裏路地の奥、そこに蹲っていた“孤児”は、最初こそ無垢な存在に見えた。
痩せた肩を震わせ、汚れた布を身体に巻きつけ、声も発さず顔を伏せていたその姿は、まさしく王都の片隅で生き延びようとする哀れな命のように見えた。
だが──エレボスとしての眼は、その輪郭の内側に潜む“不自然さ”を見逃さない。
(静かすぎる……呼吸のリズムが機械的だ。体温も……妙に均一)
デヴォンの姿のまま一歩踏み出したそのとき、“それ”は、顔を上げた。
無機質な瞳。人間の少年にはあるまじき、異様なまでに整った比率の顔。
──いや、“顔の模倣”。
「君は……誰に作られた?」
問いに応えるように、“それ”の皮膚が裂けた。
瞬間、腐肉を裂くような音と共に、皮膚の内側から異形の筋肉と獣の腕が迸るように飛び出す。
破裂するように拡張されたその肉塊は、かつての「人間」の姿を剥ぎ捨てていく。
「──ッ!」
デヴォンの指先が仮面を握る。視界が闇の輪郭を強調し、思考が冷たく研ぎ澄まされる。
一歩後ろに跳躍しながら、仮面をその顔に被せた瞬間──
「……エレボス、出る」
濃密な魔力が全身を走る。衣服が瞬時に黒衣へと変わり、掌に魔力が凝縮される。
異形のキメラは咆哮と共に突進した。
その腕は牛のように巨大で、鋭く硬化した骨の鉤爪を備え、振るわれるたびに石壁が裂けた。
「速い……が、粗い」
エレボスは一度地を蹴り、垂直に跳び上がる。頭上すれすれを鉤爪が裂いた。
宙で身体をひねり、空中から魔力を纏った拳を叩きつける。
直撃。
轟音と共にキメラの巨体が地にめり込んだが、動きは止まらない。
血飛沫もない。──生体反応が薄い。痛覚が遮断されているか、もとより備わっていない。
(肉体反応だけで動く。……この個体、魂の“核”が不安定か?)
次の瞬間、地面を滑るように身を起こしたキメラが、背中から無数の骨の槍を生やした。
標的は──エレボス。
一斉に放たれる骨の雨。それは精密な狙いというよりも、圧殺するような密度の暴力だった。
「──蒼環《盾化》」
魔力の円環が彼の周囲に展開し、骨槍の連撃を受け止める。
だが、全弾を受けきるには火力が重すぎた。円環がきしみ、いくつかの骨槍が間隙を突いて肩を掠める。
(……盾では押し切れん。ならば──)
防御を断ち、前へ出る。
裂かれた肩口から血が滲むのも構わず、エレボスは足を地に叩きつけた。
「──零式《震顎》」
魔力を込めた蹴りが地を穿つ。その衝撃は波紋のように路地裏の石畳を裂き、膝をついていたキメラを下から突き上げた。
地面ごと吹き飛ばされた異形の身体が空中で浮かぶ。
そこへ、追撃。
跳躍と共に拳に纏わせるは雷霆の奔流。
重力を殺すような無音の中、一閃。
「──墜雷」
直撃。
稲妻が闇を裂き、キメラの身体が大きく弾け、瓦礫の山へと激突する。
肉の一部が焼け焦げ、動きが鈍る。
それでもなお、キメラは起き上がった。
片腕を失いながら、なお足を引きずり、咆哮をあげてエレボスに突っ込んでくる。
「……哀れだな。逃げ場も、痛みも、意思すらもない」
エレボスは構えを解いた。次の一撃で終わらせる覚悟だった。
眼前に迫るキメラの顔、その瞳に、ほんの一瞬“恐怖”の色が浮かんだ気がした。
だがもう、引くつもりはなかった。
「せめて、苦しみは長引かせぬ」
魔力が螺旋を描く。
拳──否、魔力そのものを収束した一点をキメラの胸部へ叩き込む。
「──終の印」
全ての動きが静止したかのような一瞬。
次いで、内側から爆ぜるように、キメラの身体が弾けた。
動きが、止まった。
煙の向こうに、ただ瓦礫が積もる音だけが残った。
エレボスは黙って仮面に手をかけ、取り外す。
その視線は、まだ蒸気の立ち昇る骸の傍らへと向けられる。
そこには、焦げた布の一部。かつて“人”であった痕跡が──ひとつ。
──「アッシュ」。
歪んだ声帯から、戦闘中に一度だけ、呼びかけた名前。
「……意思は、あったのか」
彼の瞳に沈む影が、夜と同じ濃さで揺らいでいた。
そして、静かに背を向ける。
この“兵器”を生み出した何者かが、今も王都のどこかで見下ろしていると確信しながら。
闇を穿つ拳は、まだ折れてはいない。
煙が収まりきらぬ瓦礫の中、エレボスは一歩ずつ足を踏み入れた。
骨の残骸、焼け焦げた肉、異様に硬質な皮膚の断片──いずれも人のものではない。
だが、それらの中に、明らかに“人の手による”異物が紛れていた。
彼の視線が止まる。
焦げた布の奥に、黒く焼けた鉄片が埋もれていた。
手を伸ばし、慎重に掘り出す。
それは、掌に収まるほどの金属片だった。表面には、焼けただれながらも微かに文様が残る。
歯車と錠前のような意匠。中央に打ち込まれた、十字を歪ませたような刻印──。
「……これを“技術”と呼ぶのなら、余りに背徳だ」
仮面の奥で、声が低く沈んだ。
裏返してみると、金属片の内側には細密な細工が施されていた。
魔導回路。しかも、通常の流通技術とは異なる、封印術と錬金術が混在した高度なもの。
(こんな回路構成……王都の“東錬区”でしか見たことがない)
そこはかつて、王国魔術省の研究所があった地域。
だが数年前に“事故”を起こして閉鎖され、今は立ち入り禁止の区域となっている。
「──生きてるな、まだ。研究が」
彼は残骸の中から、さらに一片の金属管を拾った。
それは小型の魔力供給装置──“胎動管”。本来ならば人造生命の初期起動用に用いられるもの。
“アッシュ”と名乗ったキメラは、おそらくこの装置を用いて目覚めたのだ。
擬態した姿、痛覚の欠如、そして断末魔に漏らした名前……どれも、創造者の意志を反映した結果に他ならない。
「自我すら、道具に組み込んだか」
怒りは、仮面の下に沈めたまま。
しかし彼の手は、拳を握るごとく固く結ばれていた。
そして、胎動管の底部──封蝋のように貼られていた赤い刻印を見て、彼の目がわずかに細められる。
「……“沈黙の印環”……ッ!」
それは、彼が過去に追っていた地下組織のもの。
かつて潰えたはずの、王国の科学と魔術の境界を歪めた禁忌集団の象徴だった。
──彼らがまだ、息をしている。
しかも今度は、より深く、より巧妙に“人の形”を作り替える術を完成させて。
「……ならば、根を断たねばならぬ」
彼は胎動管を布で包み、黒衣の内へ仕舞った。
そして視線を上げる。
王都の影が、再び彼の背を包み込む。
すべては、まだ始まったばかりだった。




