第13話
崩れた天井の下に、わずかに残された魔力の痕跡──それは既に拡散し始めており、術者の性質や出力を読み取るには遅すぎた。だが、エレボスは立ち尽くすことはしない。ただ、ゆっくりと拳を解き、落ちた破片の中に埋もれていた“鍵”を拾い上げた。
小さな金属片。魔力反応は微弱だが、確かに“何か”の装置と連結されていた痕跡がある。
「……誘導だったか。あるいは、“観察”か」
仮面越しの声は低く、地を這うような響きを持っていた。戦いは勝利とは言いがたい。追い詰めた敵は逃れ、代わりに残されたのはこの無意味にも思える欠片と、わずかな情報。
彼はその金属片を掌で回しながら、天井を見上げる。既に開いた裂け目は、まるで最初から存在しなかったかのように塞がれていた。自然ではありえない再生の痕跡。何者かが意図的に隠した「道」──。
(地下の構造を変質させるほどの力……それも一時的ではなく、持続的に作用している)
つまり、それは単なる敵の逃走経路ではなく、「この地下自体」が敵にとっての“施設”であることを示していた。
「地図に記載のない地底網……。王都の下層構造ごと、何かが巣を張っているというのか」
その可能性は、途方もない広がりを持っていた。古の水路、封印された聖堂跡、旧王朝の遺構。王都の地下は、長き歴史の中で何層にも積み重ねられている。行政もすべてを把握してはいない。
エレボスはその場から身を返すと、崩れた通路を辿って出口へと向かう。
帰路の途中──ふと、気配を感じて立ち止まった。
「……隠れているつもりか」
陰の向こうから、わずかに足音が鳴る。だが、敵意はない。やがて姿を現したのは、フードを深く被った青年だった。地下で時折見かける、情報屋風の雰囲気を持つ者。
「エレボス殿。お噂はかねがね」
「誰の差し金だ」
「差し金? まさか。ただの“好奇心”ですよ」
笑うその目には、確かにそれ以上の知識が光っていた。警戒しつつも、エレボスは口を閉じて相手の出方を待つ。
青年は崩れた壁を指でなぞりながら、ふと呟いた。
「“あれ”は、王都のものではありません。もっと古く、もっと深い……地の底で生まれた“神格”に近いものだと聞きます」
「情報源は?」
「夢で見ました」
ふざけた答えだ。だが、どこかに“真実”が混ざっている。こういう者が、闇の中で情報を紡ぎ、やがて糸を引く者たちに通じていく。
「……君のような者が、まだ生きているなら助かる」
「それはどうも。では、一つだけ忠告を」
青年は背を向けながら、手だけを振って言った。
「地の底に触れすぎると、仮面でも隠せない“声”を聞くようになります。お気をつけて、仮面の騎士殿」
そのまま、青年は路地の奥に消えていった。姿も気配も、音も残さず。
──“声”。
あの羽根を残す者たちが語った、“神の声”と呼ばれる現象。それが地下に広がる何かと関係しているのなら──。
エレボスはもう一度、拳を握った。
「この闇の主は、“人間”だけではない……か」
夜はまだ深い。
仮面の騎士の歩みは止まらない。
王都の地下で蠢く何かは、次なる幕をすでに引き始めていた。
地下から地上へと戻る途中、エレボスは一度も立ち止まることなく歩みを進めていた。崩れた石段、湿った空気、そこかしこに残る生臭い魔の痕跡──すべてが彼に、ただの「犯罪」では済まされぬものを訴えている。
王都の夜風が、仮面の縁をそっと撫でた。深夜を越え、薄明が近づいていた。
「夜が明ける……だが、何も終わってはいない」
エレボスは、通い慣れた裏路地を抜け、王都の外縁部に位置する調査拠点へと足を向けた。そこは正規の衛兵団が知ることのない、彼だけの隠された報告所。地下で拾った金属片の調査や、集めた魔力残滓の解析に使われる簡素な小部屋がある。
机の上に設置された魔力測定機に、金属片を慎重に置く。歪んだ刻印、古びた素材、しかし一部に最新の工学結晶体を接合したような造り──
「……複合構造。旧世界の儀式具に、現代魔導具の技術を上乗せしている」
まるで、時代の断片を意図的に継ぎ接いだ“何か”だ。通常の技術者では作れない。おそらく、“信仰”を絡めた異端の技術体系。
この断片が示す意味は一つ。
敵は狂信者などではない。
確かな「技術」と「構造」、そして「目的」を持った組織、あるいは個。
だが、それを裏付ける証拠はあまりに乏しい。今はまだ、闇に手を伸ばしても、霧を掴むしかできない。
エレボスは目を閉じ、深く息を吸った。
(……ここから先は、地上の情報も活かさねばならない)
―――
その日の昼、仮面を外したデヴォン公としての顔が、再び陽光のもとに現れる。貴族街の奥、彼の屋敷にはすでに数通の報告書が届けられていた。全て、王都各地で最近起きた「失踪」と「異常発言者」の記録。
「また、“羽根”を見たと叫んだ老人がいたそうだな。場所は……聖フルデン礼拝堂の旧区画」
彼は報告書をテーブルに並べながら、古地図と照らし合わせていく。現代の地図では切り取られた領域──
(……地下の構造と繋がっている)
明確な接点がある。地下で戦ったあの場所は、地上で廃区画とされている聖堂の下層部と符合していた。王都の宗教施設、あるいは神殿の跡地に、敵の巣が拡がっている可能性。
そして、失踪者の中にあったひとつの名──かつて宮廷魔導技術の研究に携わっていた、失職済みの男の名がそこにあった。
「技術を持つ“異端者”か。やはり単なる魔術師の集団ではない」
資料を整理し終えた彼は、衛兵隊への巡回指示を簡潔に残し、外套を羽織った。
午後の市街は、人々の笑い声と商人の叫び声が行き交う。だがそのすべてを、彼は別の「層」として見ている。道端で果物を売る少女、建物の陰から見えた擦れた手袋、修道士の袖口に見えた染み──その一つひとつに、彼は“兆し”を読み取っていく。
そして──午後の終わり、衛兵たちの目が届かぬ裏通りで、再び「羽根の痕跡」を発見する。
古い木扉の裏。誰にも気づかれないように描かれた異端の印。指を近づけると、ごくわずかな魔力が指先を弾いた。
「──新たな“巣”だな」
その場で手早くマーキングを行い、デヴォン公としては何も気づかなかったかのようにその場を去る。
夜が来れば、再び仮面を被る。
そして、今度こそその“印”の先へ踏み込む時が来る。
王都の闇は、未だ終わらぬ。
王都の闇は、未だ終わらぬ。
それは、ただ夜が訪れるという意味ではない。
太陽が昇ろうとも、石畳の裏、信仰の影、法の届かぬ地下には、今も確かに“何か”が息づいている。
仮面の騎士──エレボスにとって、それはもう確信に変わっていた。
彼は再び闇を裂いて、昨日目印を残した裏通りの扉へと向かっていた。街の灯が落ちるころには、人の気配はこの一帯から消える。だが、魔力の流れは消えない。むしろ夜になって強まる気配がある。
古びた扉の前で、彼は左手の甲に魔力を集中させた。触れた瞬間、静かに軋む音と共に、魔力障壁がほどけていく。
「侵入者を拒むつもりなら、もう少し工夫が欲しいところだな」
扉の向こうは、かつて地下貯蔵庫として使われていた石造りの空間。だが、内部は異様に整理されていた。所狭しと置かれた木箱の中には、刻印入りの金属板、未使用の血呪符、そして何よりも目を引いたのは、壁に並べられた数十枚の「羽根」だった。
白く、けれども微かに黒く染まりかけた羽根。
そのいずれにも、同じ魔力の残滓が感じ取れる。おそらく、魔術的な儀式に用いられた痕跡だ。何らかの“存在”を媒介にして、信仰あるいは意志を伝える道具として使われている。
「これは……通信装置のようなものか。いや、“神託”を受け取るための器だな」
そのときだった。
床板の一枚が、わずかに軋む音を立てた。
気配──速い。
「出ろ」
言葉よりも先に、身体が動いた。瞬時に身を翻し、背後に飛び込んできた影に肘打ちを放つ。相手は反射的に受け流したが、直後、壁へ叩きつけられた。
黒装束。顔は覆面。目だけがぎらついている。
「……騎士か。だが遅いな」
相手の声は女のものだった。だが、その語調には落ち着きがあった。ただの実行犯ではない。
「何者だ。これを使って何を企んでいる」
「我らは“声”を聴く。貴様のような沈黙の剣には、理解などできまい」
次の瞬間、彼女は両手を広げた。羽根が舞い上がる。どれもが一斉に淡い光を放ち始めた。空間が揺らぐ。
「“声”よ。我に力を──!」
「させるか!」
エレボスの拳が、空間を裂くように放たれた。魔力を帯びた打撃が、女の詠唱を寸断する。だが、女は即座に身を翻し、手にしていた細身の刃で反撃してくる。
金属が火花を散らす。狭い室内での攻防。エレボスは重く鋭い近接打撃、女は速度と刃で応じる。
──だが、力の差は明らかだった。
「“声”を聴いた者が、必ずしも強者とは限らん」
エレボスの一撃が、女の腕から刃を叩き落とした。
息を荒げながら、女は壁に背を預けた。血が頬を伝う。
「……我らが敗れても、“声”は止まらぬ。次が来る……やがて、“神”が目を開ける……」
「そのときまでに、お前たちの巣は全て潰しておく」
返されたその言葉に、女は僅かに笑った。薄く、哀しげに。
「間に合えばいいがな……仮面の騎士」
その直後、彼女の胸元が淡く光る。刻印──自壊の印。自らの体を呪詛に変えて爆ぜる魔術。
エレボスは反射的に距離を取った。直後、部屋の一角が崩壊するような爆音に包まれる。
火と煙の中、彼は静かに立ち上がった。
「“声”……その正体が見えてきたな」
敵は逃げなかった。むしろ、自らの命を使って、“声”の存在を強調してきた。
王都の闇は、ますます濃くなっていく。
だが、仮面の騎士の足取りは止まらない。
幾重にも重なった陰謀の下層へ、彼は着実に迫っていた。
崩れた石壁の隙間から、わずかに冷たい空気が漏れ出しているのを、エレボスは見逃さなかった。
魔力が揺らいでいる。この空間は、ただの隠れ家ではない。その奥に、まだ“続き”がある。
彼は瓦礫を押しのけながら進み、地面に刻まれた歪な魔法陣の縁をなぞった。中央には小さな受け皿のような窪み。血のような乾いた赤黒い色がこびりついている。
「これは……封印ではない。“通路”だな。生きたまま、向こうへ通すための」
陣の構造は古代語に似ていたが、明らかに現代の手で再構成されている。異端の研究者か、それとも教会から離反した者たちの仕業か。いずれにせよ、この場所は誰かの“実験場”だった。
周囲の壁には、破損した羽根の標本が吊るされていた。中には、人工的に加工されたものも混じっている。羽根の根元には微細な刻印。魔力の通り道を制御するための精密な術式だ。あの狂信者たちが所持していた羽根は、どこかから供給されていた。──いや、ここで“作られていた”。
「やはり……王都の地下に“工房”がある。羽根は、信仰の象徴などではない。“道具”だ。神の声も……おそらくは」
思考を巡らせる彼の背後で、再び冷気が強まった。
視線を向けると、魔法陣の中心が静かに脈動していた。淡い青光が浮かび、まるで何かが“向こう側”から見ているかのような気配を放っている。
「……来るか」
エレボスは静かに構えた。仮面の奥の眼光が鋭く細められる。
次の瞬間、陣から溢れ出すように、漆黒の腕が伸びた。触れた空間が歪む。まるで空間そのものが拒絶反応を起こしているかのようだった。
「召喚体か……いや、“依代”」
浮かび上がったのは、巨躯をもった異形の存在。だが完全な形ではない。肉体は不安定で、肩からは数枚の黒羽根が乱れて垂れ下がり、顔の位置には“仮面”のような器具が装着されている。
「名を問うつもりはない。お前の目的は明白だ」
異形は応えない。ただ、獣のような咆哮を上げながら、壁を砕き、床を抉って突進してくる。速度は重力に逆らうほど速く、質量に似つかわしくない。
エレボスはその一撃を紙一重で躱しつつ、地を蹴って距離を詰めた。拳に魔力を纏わせ、腹部を撃ち抜く。爆ぜるような衝撃が内部に走り、異形の体が僅かに軋んだ。
──だが、止まらない。
「なるほど、命令ではなく“憎悪”で動いているな」
反撃の爪が襲い掛かる。エレボスは肩を削られながらもカウンターで肘を叩き込み、続けざまに背へ蹴りを見舞う。空間が振動する。だが、異形の体からは痛みの気配が薄い。理性なき猛進。それでいて、無視できない魔力濃度。
「この個体……ただの兵器ではない。意志を持っている」
その言葉を裏付けるように、異形の仮面が小さくひび割れた。その奥、かすかに光る“瞳”があった。そこには、人間のような感情が──否、かつて人間であった何かの、絶望と呪詛が残っていた。
エレボスの拳が、仮面を砕く。
轟音と共に、異形が崩れ落ちる。その体は魔力の霧となって徐々に消えていく。
「……誰かが、意図的に人を“ああする”手段を持っている。ならば、その術式を編んだ者がいる。羽根も、儀式も、すべてはそのための前段階」
仮面の騎士は静かに立ち上がった。
魔法陣の光は既に消え、あたりには沈黙だけが戻っていた。
「次は、“編んだ者”の名を暴く番だ」
彼の背後で風が吹き抜ける。
深夜の王都は静かだったが、その静寂の底にある“本当の音”を、エレボスは確かに聴き取っていた。
エレボスは崩れた石材の上に足をかけ、魔法陣の残滓がまだ淡く燻るその中心を見下ろした。かすかに焦げた空気。だが、それよりも不穏なのは──この場に「観測者」がいた気配。
「……記録されていたな」
何者かがこの戦闘を“見ていた”。魔力の痕跡はわずかだが、遠隔視や観測魔法の名残が壁の高所に微かに残っていた。術式の癖がある。精緻すぎる直線の繋ぎ方、魔力の流し方……“彼”だ。
「ならば、奴はこの一件を“試験”と見ていたか」
自分の反応、戦い方、魔力の性質──すべてを観測し、記録するためにこの異形を差し向けたのなら。目的は明らかだ。
仮面の奥で、エレボスの視線が鋭くなる。
それは怒りではない。むしろ静かな、研ぎ澄まされた意志の刃。
彼は一度、足元の瓦礫を蹴って魔法陣の周囲を崩し、再利用できないように封じた。指先を滑らせて描いた簡易の呪符が、残留魔力を吸収しながら光の帯となって崩れ去っていく。
「試験は終わった。ならば次は、試験官の顔を見せてもらおうか」
背を向け、静かに踵を返す。
しかしその足取りは迷いがなかった。王都の下層。かつて旧王朝時代に使われていた議会の地下倉庫──通称「灰の路地」。そこには既に地図からも削除された領域があり、異端研究や失われた魔導の痕跡が眠るとされていた。
今夜の“気配”は、まさにそこから流れていた。
地上に戻ると、空には薄雲が広がっていた。星は見えない。風は生暖かく、季節を誤解しているような不快さがある。まるでこの王都の空気そのものが、少しずつ“別の理”に侵され始めているようだった。
エレボスはそっと仮面を外し、夜の街を見渡した。遠くに、灯りの消えた聖堂の尖塔が見える。その傍を黒衣の影がひとつ、すっと横切っていった。
「──あれは、“傍観者”か。それとも、“同調者”か」
闇は広がっている。
だが、道もまた、そこにしか存在しない。
エレボスは静かに呟いた。
「もう一段、深く潜る必要があるな……」
王都の灯火は、すべてを照らしはしない。
だが、仮面の騎士が歩む道の先には、確かに“核心”が存在している。
その輪郭が、今、ほんの僅かに──だが、確実に浮かび上がりつつあった。




