未來と華子
未来になんて、何の希望も持てやしない……。
だってさ、未来って、それまで生きていく上でやってきた残酷なことや裏切り、後ろ暗いこととか……。
とにかくそんなたくさんの汚いこと、最低なことがあって初めて存在する、とても罪深いものだから。
そんな汚れた出来事の積み重ねから、いったいなにが生まれるというの?
何を期待しているわけ?
もちろん優しさだとか、思いやりだとか、温もりだとか、いわゆるいい側面があることも十分に理解してはいる。
でもね、それならさ、なんでみんな最初から優しくしないのかな?
いいことだけをみんなで行えば、押し並べてハッピーになれるはずなのに……なんでやらないの?
どうして裏切るわけ?
嘘をついて騙すの?
それでいて、懲りずにまた優しくしたりするの?
騙すために優しくするのかしら?
優しくするために騙すなんて、あり得ないしね。
だからさ、みんなに聞きたいんだけど、いったい未来に何を求めているわけ?
誕生は絶望の始まりであって、未来はその吹き溜まりだ。
生まれるほどに負は紡がれていき、増えることで濃度は高まり連鎖はさらに加速し拡大していく。
それはどうすることで断ち切ることができるかって?
これ以上は言わなくてもわかるでしょ?
えっ、わからないの?
なら、教えてあげる。
私は知っている。
そう、未来を見ることのできる私には。
その確かなことが。
◆■◆
カーテンから漏れる光の束に起こされた。
朝。
朝が来てしまったようだ。
また嫌な一日が始まる。
アラームは鳴っていないので、まだ起きる時間ではない。
それ以上に起きたくもないけど。
眠りの余韻がまだ残っているので、寝返りをうち、窓とは反対のほうに体を向けて浅い意識の中うつうつと考える。
とりとめのないことを。
また、夢を見た。
いつもの嫌なヤツを。
いつものとはいっても、内容は違う。
けど、目覚め後の気分の悪さは変わりないので、結局は同じこと。
嫌な夢。
とは言うのは失礼なのかな?
夢の世界にもそこに住む生物がいて、生活をしているのだろうから。
でも、その暮らしの断片を見て気分が沈むような内容なのだから、夢の中の生活も、あまりいいものではないのかもしれないな。
夢の中もろくでもない。
こっちと一緒。
なら、死後の世界はどうなのかな……ふと頭によぎったけれど、そっちもたいしてよくない気がする。
もちろん理由もなにもないんだけど、たぶん間違いない、と思う。
だってさ、天国なんて選ばれた人しか行くことができないんでしょ?
善行?
功徳?
だいたいにして、きれいな人間なんていやしないわ。
そんなふるいにかけている時点でもう最低じゃない。
もしかしたら、誰でもウェルカムな地獄の方がまだましなのかもしれないな。
時間が経って朝が強まるにつれて部屋の明るさが増していき、それが鬱陶しくなりはじめた。
右手で目のあたりを隠して、瞼越しに感じる光をさえぎる。
『ああ暗い。闇……なにも見えないことってもしかしたら凄く幸せなんじゃないかな?』
見えるから、聞こえるから、いらないものばかりが目につき、不快な声が入ってくる。
そして、気分を害される。
盲人の見る夢ってどんなもの?
色形はあるわけ?
耳の聞こえない人の見る夢ってどんな世界なんだろう?
そこにはうるさい言葉や耳障りな雑音は存在するのかな?
ふたたびまどろみ始め、眠りの世界に落ちつつある。
また、気分の悪くなる夢を見るかもしれないけれど、それでも起きているよりはましだろう。
だって、夢を見て最悪な気分になったとしても、けっして傷つけられることはないから。
でも、現実では、ほんの些細なことですら鋭いトゲとなって私を傷つけようとする。
どっちがいいのかは、説明するまでもないよね?
そして間もなく、意識はエレベーターが下降するようにスーっと落ちていき、再び眠りにつきそうになったその時……突然ドアが勢いよく開かれて騒がしい音が耳の中に飛び込み、強引に私をリアルの世界へと引き戻した。
『ちっ……うるさい現実がやってきた』
妹の未來だろう。
家族の他の者はドアを開けるときは必ずノックをするし、だいたいにして朝っぱらからこんな大きな音を立てるような無神経な生き物は、我が家にはコイツをおいてほかにいないのだ。
毎朝、何が楽しいのか知らないが、天候に関係なく決まってジョギングしている健康馬鹿だ。
いや、馬鹿な健康というほうがピンとくるかもしれないな。
そう、健康以前に馬鹿!
無駄に元気でやかましく、疲れ知らずにエネルギーを振りまいては、周囲を自分のペースへと無理矢理巻き込む。
正直、姉妹という宿命がなければ一番敬遠しているタイプナンバーワン。なのに、あろうことか、そんなのが一番身近にいる。
本当にやるせなくなる。
『あ~もう……まだ眠りたいのに』
そんな現実から逃れるように、布団の中に潜り込む。
少しでも痛みを伴うリアルの外気に蝕まれないように、深く、そして身を小さくして。
が、しかし、そんな抵抗も空しく、うるさい現実がドカドカと遠慮なく入り込んできて、私の優しい世界をかき乱す。
無理やりに布団をはがされ、トドメを刺された。
「おい! 華子! いつまで寝てんだよ! 朝だぞ!」
『このガキ……』
こいつは妹であるということを全く意に介さない。
どころか、私のことを完全に舐めきっている。
ただ、姉とは言っても双子なので、そこはそれほど目くじら立てるようなことでないのも分かっている。
世間的に見ても、双子で姉だ兄だと立場の違いを強調しているのもあまり見たことないし。
ただ、そういう線引きの問題ではなく、コイツのガサツさがとにかく気に入らないので、何かにつけて腹が立つのだ。
今回もそう。
睡眠という何人たりとも侵すことが許されない神域に土足で入り込んできて、相手の気持ちや状態に構うことなく引っ掻き回す。
その自分本位、デリカシーのなさが許せない。
頭にきてはいるが、朝っぱらから大声出せるほどの元気などはない。
スロースターターの低血圧なので、寝起きは特に調子が出ず、未來への文句にも力が込められない。
結局、迫力ゼロの念仏のような呟きがようやく絞り出ただけだ。
「うるさいんだよお前は朝っぱらから。大体にしてまだ目覚まし鳴ってないんだから起こすなよ」
寝た状態のまま、未來の顔も見ずに言う。
が、たぶん、いつものようふてぶてしい顔でもしているのだろう。
単純な人間なので、すぐにわかる。
なんといっても馬鹿なんだから、何事にもパターンが乏しいのだ。
「目覚まし鳴ったっていつも起きないから、あたしが代わりに起こしてやってんだろうが! ほら、さっさと布団から出ろっての」
本当に大きなお世話。
頼んでもいないことを勝手にやるなよ。
はがされた布団を引き戻し、未練たらしくまた眠りにつこうとするが、未來が部屋に入って来てからというもの、バタバタガチャガチャと騒音がどんどん激しくなっていき、意識は嫌でも目覚めへと向かっていく。
『本当にうるさいやつ!』
イライラもピークに達したその時、トドメの一撃が……。
「おっと」
あまり気にもとめない様子の未來の声がした後「ドン!」と、重い物体が地面に落ちた音がした。
それを聞いた瞬間私の眠気は一気にすっ飛び、勢いよく布団をはね飛ばしてベッドから起きあがった。
私がこんなにキビキビとした行動をとったのは、いつ以来だかちょっと思い出せない。
それくらいに、衝撃が走ったのだ。
それというのも音の発生源が、間違いなく私がいま読んでいる最中の本だということがわかったから。
パパから買ってもらったばかりの私の宝物である旧約聖書。
借りるにはページ数が多いので返却のことを考えるとじっくり読めないし、買うには貰っているお小遣い的にちょっとつらい。
そう思っていた先日のこと。
パパと何とはなしに聖書の話をしていたとき、私が興味を持っていることを感じ取ってくれたのか、決して多くはないはずのお小遣いから捻出して、私のためにプレゼントしてくれたのだった。
そんな大事な本なのに……。
床に落ちた聖書は、無残にもページが開いた状態のまま床に突っ伏していた。
間違いなく、ページは折れているだろう。
これで折れも破れもない状態だとしたら、それこそまさに奇跡である。
『最悪……なんて最悪な朝なんだろう』
久しぶりに頭に血がぐんぐんと上っていく。
血管の中を勢いよく駆け巡る、温かい血潮の躍動を感じ取ることができるほどに。
そんな、ヒートした血流の作用のためか突然体にエンジンがかかり、どんよりとしているのが常の寝起きの身体にしては珍しく、腹の底から声が出た。
「未來!」
怒りのまなざしを向けた。
それも相当にきつめの。
しかし、未來はというと、そこから何も感じ取ることなく、平然と、それもさっぱりとした表情で一言。
「ん? どした? いきなり大きな声出して。やっと目覚めたようだな」
謝るどころか、ましてことの重要さにすらまったく気がつかない様子で、けろっとしたものである。
「目が覚めたじゃないだろ! 本だよ本! これはパパから買ってもらったばかりなんだぞ! それをお前! 大体にして、朝からなんでそんなうるさいんだよ! 迷惑なんだよ、この馬鹿!」
床にある聖書を指差しながらわめいた。
ようやく私の剣幕が通じたようだが、未來はつまらなそうに私の本を見やりながら言った。
「そっか。でも、まぁいいじゃん、読めなくなったわけじゃなし」
そう言うと「へへっ」と言わんばかりの顔つきで、両手を頭の後ろに組み、白い歯を見せながら笑っている。
『こいつ……』
事態を理解しないどころか、謝りもせずに笑ってごまかそうとする神経の図太さ。
そしてなによりも、その無駄に健康そうな白い歯が、ちらちらと見えていることに腹が立った。
『殴ってへし折ってやろうか?』
こんなとき、それこそ未來のように、怒りをそのままストレートに暴力へと直結できる単細胞だったら、どんなにスカッとできることか!
と思ったものの、やはり思い直した。
たとえどんなことであれ、こんな奴の一部分にでも憧れを抱くことが気に入らなかったからだ。
やはり、私は私でありたい。
それに私が殴ったところで、無駄に頑丈な未來の体の方がどうなるとも思えない。
下手したら、私の手首のほうが折れるかもしれないし。
『金持ち喧嘩せず、よ』
無理に納得しようと試みつつ、やり場のない怒りをくすぶらせていると、
「ほら、起きたんなら、さっさと着替えて朝ごはんにしようぜ。パパもママもお前が起きるのを待っているんだから」
そこでさらに、私の寝起きの悪さを蒸し返してきた。
自分がしでかした悪事には何の反省もなしに。
そして背中を向けて部屋から出て行こうとしたので、私はそれに剣幕でもってストップをかけた。
「ちょっと待て!」
そういうと未來は振り向いたが、明らかに面倒くさそうな顔をしている。
「なんだよ?」
「なんだよじゃないだろ。やり残しがあるだろうが!」
「はぁ?」
「本だよ本! あんたが落とした本! 拾いなさいよ!」
反省しないどころか、しでかしたことの後始末もせず知らんぷりとは、どこまでもふてぶてしい奴なんだ。
そんな私の怒声に対して面倒くさそうに「わかったわかった」などと言いながら、しゃがみもせず前屈の状態のまま片手を伸ばし、ゴミでも拾うようなしぐさで本を取ろうとした。
「やっぱりちょっと待て! お前は触るな!」
とっさに私は行為の中止を呼びかけた。
「あっ? どっちなんだよ一体?」
この変節には未來も露骨に嫌な顔をしたが、考えてみればこんな奴に大事な本を触らせたくないし、何よりも片手で摘むように持ち上げられてはページが破れる可能性大。
コイツならやりかねない、絶対に。
「私が取るからやっぱりいい。あとな、わかったは一回でいいから」
そう言うと未来は不機嫌そうな顔をして言った。
「へいへい」
カチン!
この減らず口!
「だから一回でいいって言ってるだろ!」
「ほいほい」
そう言い残すとさっさと部屋を出て行ってしまった。
『くそ、覚えていろよ……』
未來を睨みながら、
ギュッと下唇をかみしめた、が間もなく噛む力を緩めた。
唇が痛い。
私は痛いのが苦手なのだ。
何につけ、虚弱なのである。
でも、健康であることもやっぱり嫌い。
なんとなくダルイくらいがちょうどいい。
それはさておいて、本当に最低な朝だ。
未來からストレスを与えられるし、いやな夢も見るしで……。
それだけのことだが、もう疲れを感じた。
なんとなく、肩も重いし。
肩を軽くもみほぐし、首をぐるりと回してから着替えを始めた。
意識が完全に目覚めたことで空腹感も強くなったこともあり、急いでパジャマを脱ぎすててスカートに足を滑り込ませた。