鴨川デルタの戦い 7
「やった……!」
紬は浄化が成功したことを確信し、みるみる縮んでいく岡丸の黒い影を見上げる。
「そ、そんな……。ありえません……。わたくしの九尾がこんなにあっけなく、たった二人の陰陽師に敗れるなど……」
捨道は呆然と呟き、自分の顔に爪を立てて呻き声を上げた。
やがて、黄色い炎が黒い霧を焼き尽くして跡形もなく消えると、そこには地面に横たわる若い妖狐の姿だけが残る。
「岡丸!」
紬はそちらに駆け寄り、元通りになったもふもふの体をそっと抱き寄せた。
「……ん? ツムギ……? おいら……。何して……。もしかして、約束、破った……?」
岡丸は薄目を開けて弱弱しく言う。紬は実体のない彼の頭を指でなぞりながら、泣き笑いの表情を浮かべて小さく首を振った。
「ううん。約束は破ってないよ……。心配しないで……。もう岡丸を独りにはしないから……」
「やれやれ……。間一髪だったな……。危うく三途の川が見えるかと思ったぞ……」
喬は疲弊しきった顔で膝をつき、大きな安堵の吐息を漏らした。が、その時である。
「紬っ! あの野郎が逃げるぞ!」
千綾の叫び声に紬がハッとして振り返ると、鴨川デルタの基部に向かって走り去る捨道の後ろ姿がその目に飛び込んできた。
「あっ! 待てっ!」
紬は咄嗟に立ち上がろうとしたが、気が抜けた拍子に呪いのダメージが戻ってきたのか、一歩も踏み出すことができずにへたり込んでしまう。
「誰か! その人を止めてください!」
紬は必死に声を張り上げた。
しかし、彼女の目に映る一般人はみんな倒れていて誰も反応しない。
万策尽きたか……と紬は悔し紛れに歯を食いしばる。
だが、幸い、運は彼女たちに味方していた。
「うおおおおおっりゃあああああっ!!」
なんと、次の瞬間、いきなり松林の向こうから一人の偉丈夫が飛び出してきたかと思うと、勢いそのままに真正面から捨道に強烈な正拳突きを叩き込んだのである。
捨道は反応する間もなく数メートル後方に吹っ飛び、背中から地面に落ちてピクリとも動かなくなった。
「ふ、不動部長……」
辛うじて確認できた救世主の姿に、紬はホッと胸をなでおろす。そして、そのまま体の重さに身を任せ、糸が切れるように安らかな眠りへと落ちていったのだった。
***
「おっ。気がついたかい」
目を開けた紬は、まず最初に、京都本部の面々がそろって自分の顔をのぞき込んでいることに気がついた。背中には柔らかい草の感触。川の向こうに鴨川デルタが見えていることから判断するに、どうやら私は、いつの間にか東側の土手に寝かされていたようだ。
「み、みなさん……! お、岡丸は……!?」
紬は我に返って、がばっと体を起こし、慌てて周囲を見回す。と、大森先輩がそっと口元に手を当ててきて、同時に土手の上方を指さしながら囁いた。
「妖狐の子なら、まだ狐坂くんの膝の上で寝てるよ。それより、紬ちゃんの体調はなんともない? 大丈夫?」
大森先輩の指の先に目を向けた紬は、木の下であぐらをかいている喬と、その足の間で丸まっている岡丸の姿を認めてひとまず安堵のため息を漏らした。落ち着いた紬は自分の手足を軽く動かし、異常がないことを確かめて頷く。
「はい。呪いはすっかり解けたみたいです……。あ。そういえば、私以外に呪いを受けていた人たちは助かったんですか?」
紬はさきほど、岡丸の呪いにたくさんの人が巻き込まれていたことを思い出して尋ねた。すると、今度は御器谷先輩がくたびれた表情で首を縦に振る。
「賀茂さんが九尾を早々に浄化してくださったお陰で、犠牲者は一人も出さずに済みました。念のため、こちらの事情を知る救急隊員をお呼びして対応に当たっていただきましたが、健康被害もそこまで深刻ではなかったようです。表向きは一時的な大気汚染が原因ということにして騒ぎを治めましたから、市民の皆さんは安心して送り火見物に戻っていきましたよ」
「よかった……」
紬はホッとして、対岸の土手や橋の上にひしめいている人々を眺めた。続いて、スキンヘッドを申し訳なさそうに撫でながら話しかけてきたのは土御門先輩である。
「いやあ、本当に紬ちゃんがいち早く駆けつけてくれて助かったよ! ぼくたちはみんな嘘の依頼に騙されて、遠いところに誘い出されちゃってたからね。これだけの見物客が集まったところに九尾を解き放たれていたら、もっと大ごとになっていたと思うよ」
「嘘の依頼……。やっぱりそうだったんですね。それで、蘆屋捨道は――」
そう聞きかけた紬の言葉を引き取り、不動部長が言った。
「あいつはあの後、すぐ知り合いの警察官に捕まえてもらったよ。警察の方にも、こういう特殊な事件の処理には慣れている人がいるからね。罪状は向こうで適当に考えてくれるはずさ」
「じゃあ、もう安心ですね。よかった……」
全ての問題が解決したことを確認した紬は、ようやく愁眉を開いて肩の力を抜く。と、折しも、見物客の方から大きな歓声が聞こえた。どうやら、ちょうど大文字の点火がはじまったらしい。




