今と未来のすべてを
発端は、私の不用意な発言だった。
夫婦そろって王宮の昼食会に呼ばれ、無事に終えて外交武官公邸に戻ってきた私とオルセードは、書斎のソファでお茶を飲みながら休憩していた。
「シオン、疲れただろう」
隣にいるオルセードは過保護なくらい、私を心配している。私は軽く首を振った。
「そうでもない。意外と時間が短かったし」
怪我が元で一時的に記憶を失ったオルセードが、私のことを忘れてしまった事件が解決してから、およそ一週間。オルセードはいまだに、私を忘れた自分にショックを受けて落ち込んで、浮上しきっていない。
私を見つめる彼の瞳に、いつまでも申し訳なさが満ちているのは、こちらも辛いものがある。それで、ちょっと彼の考えを他へ向けようとして、こんな風に言ったのだ。
「記憶を失っていたのが私の方だったら、話はもっと簡単だったかも」
「……どういうことだ?」
戸惑うオルセード。
私は続けた。
「オルセードと出会う前まで、私の記憶が戻ったとして、また初めてオルセードに会ったみたいになるわけでしょう」
「……君に初めて会った時のことは、忘れられない」
オルセードの表情が、柔らかく緩む。セーラー服JKと包帯男の出会いを思い出しているのだろう。
彼の反応がよかったので、私はさらに続けてしまった。
「エスティスにはハルウェルもいないし、村での二年間もなかったことになる。きっと私、今よりマシな性格に戻るんじゃないかな」
その瞬間、書斎のランプに照らされたオルセードの表情が厳しく引き締まった。
「シオン」
低い声に少し驚いて、思わず「はい」と答えると、彼は身体ごと私の方に向き直る。
「いくつか、言いたいことがある。まず、『今よりマシ』などと、まるで今の君の性格が悪いような言い方はやめてほしい。俺は、今の君を、身も心も愛している」
何かヤバいことを言ったらしい、と悟り、私は返す言葉に迷う。
「あ、うん。例えばの話で」
「もうひとつ」
珍しく、オルセードは語気を強めにかぶせてきた。
「もし君の記憶が消えても、俺の罪が消えるわけではない。俺と君の魂は結びついている」
確かに、そこまではなかったことにならない。ということは……
「ああ、そうか。結局、私がオルセードから離れないように、私に色々と説明しなくちゃいけないのか」
「説明しなくてはならない、というわけではない。俺の命はどうでもいいからだ」
大事な件をサクッと除外して、彼は続ける。
「問題は、何も知らない君が俺の元を離れた場合、俺が死んだ後に誰が君を守るのかということだ」
「…………」
私はひるみながらも、一応、彼自身が用意しているはずの対策を言ってみた。
「確か、オルセード、遺言状を書いておいてくれてた気がするんだけど」
「ああ。それに、今ならディメリア殿がいるから、彼女も君を守ってくれるだろう」
うん。メリーなら、たとえ私がメリーのことを忘れても、私を助けてくれるような気がする。
「じゃあ、何が問題なの?」
「それは」
オルセードの顔が、苦しげにゆがんだ。
絞り出すような声が、告げる。
「俺が、俺だけが、君を守りたいと思っていることだ」
ふっ、と彼の顔が近づき――
こつん、と、額と額が合わさる。
「出会ったばかりの頃なら、まだ……でも、今はだめなんだ。きっと俺は、君に辛いことを知らせないために……そして君と人生をともにするために、全力で嘘をついて君を騙すだろう」
「嘘? あなたが?」
生真面目オルセードが、嘘……?
「今の状況についてさえ、何とでも言える。例えば、俺と君は結婚を反対された恋人同士で、これから新天地へ駆け落ちするところだとか。そうして君に俺の話を信じ込ませて、連れ去って、俺なしでは生きられないように縛りつけて依存させて」
その瞳には、熱を感じるほどの独占欲と同時に、苦悩が溢れていた。
「わかった、わかったから」
少し焦った私は思わず、目の前のオルセードの顔に、両手で包むように触れた。
はっ、と、オルセードの瞳が揺れる。
手をそのままに、私はその瞳に話しかけた。
「私が記憶を失ったら、オルセードはすごく苦しむんだね。ごめんなさい、そういう想像をさせようとして言ったんじゃないの。今以上に罰するつもりなんてなかった」
我に返った彼は、私を労ろうとする。
「謝らないでくれ、君を責めたのではない。確かに、君にとっては忘れた方が楽なことも多いだろうに」
「ううん。私、逆のことを考えてた」
「……逆?」
「そう。私が記憶を失った方が、オルセードは楽だろうと思って」
私は告白する。
「前にも一度、考えたことがあるの。今みたいに心が凍っていなかったら、私はあなたにもっと甘えていただろうし、それに……もっとあなたに優しくしていただろうって。その方が、あなたにとってはいいわけでしょ」
「シオン」
「あ、誤解しないでよ、なかったことにしたいわけじゃないから。もしもこうだったら、っていうだけで」
グダグダと言い訳臭くなってきた。
私は自分に呆れながら、彼の頬から手を放して目をそらす。
「やめよう、この話。もしもの話なんて空しいだけだったね、ごめ」
「シオン」
オルセードの手が伸びて、今度は私が、頬を包まれた。
え、と彼の目を見る。
その目は、いつもの、私を愛おしむ目になっていた。
「気づいているか? 君は少し、自虐的になっている」
「そんなこと……」
「俺を罰することに、心のどこかで罪悪感を持っているのだろう。本来の君は優しい人だから。だから、俺にとってどんな君なら楽かなどと考えてしまうんだ」
大きな手で私の頬を包んだまま、彼はもう一度、私の額に自分の額を合わせる。
「俺に守られて、俺に愛されるだけでいてほしいのに……君の優しさは、君に厳しいんだな。そのことを、忘れないようにしようと思う」
額に、目元に、唇が優しく触れる。
「俺には、もしも、と過去を振り返る資格はないけれど……今と未来のすべてを、君に捧げる」
まるで神様に誓うかのように、唇に厳かなキスが降ってきた。
自然に、目を閉じて、そのキスを受け止める。
──さっきまでの、ひたすら申し訳ない、みたいな雰囲気が消えていた。一応、彼の気分を少し浮上させることができたのかな。
私は大人しく、されるがままになっていたのだけれど……
唇を浮かせた彼は、ささやくように付け加えた。
「言っておくが、君が俺を忘れても俺は君を愛し続けるし、そもそも君が記憶を失うような目には決して遭わせない。……わかった?」
その、低い「わかった?」の響きに、不意に彼が十も年上なのだということを思い出した。だって、彼にしては珍しい尋ね方で、とんでもなく包容力のある甘さを含んだ声だったから。
「わ、わかったから放して」
私は思わず、彼の胸に手を置いて突っ張る。
「そういうのは自分で気をつけるから。普通、そうでしょ。そこまで甘やかそうとしなくていい」
「君は自分に厳しいから、周囲に甘やかされるくらいでちょうどいいと思う。そして、俺は君を甘やかすことにかけては、誰にも負ける気はない」
私が腕を突っ張ったくらいではびくともしない彼は、なぜか負けず嫌い精神を発揮しているのだった。
5日ほど前に『ひざまずく騎士に~』の方の番外編も更新しています。未読の方はぜひ……
今回のお話は『冷たい彼女は~』の内容に触れるため、こちらに投稿しました。




