4 新米師匠と新米弟子
吸って、吐いて、吸って、吸って、吸って……。
師匠に渡された呪符を腹に貼りつけ、木々が映りこむ泉に浸かって深呼吸。胎にゆらめく鬼血を増幅するのだ。
とろみのある、捉えどころのない鬼血を掬いだし、体外に出す。真っ黒な靄。空気に零さないように、慎重に薙刀の形にまとめていく。鬼器は人の本質を映した形をとるそうだ。
「【壬】! よし!!」
「十分十二秒。まだまだだな」
岸辺の木陰で涼む師匠が、ストップウォッチから目をあげる。湧き水より冷たいと思う。
「さっきより十三秒早いですー! 師匠、褒めないと子供は伸びないんですからね!!」
「あー、はいはい。成長速度は早いぞ、よかったな。次、強度」
全く心がこもっていない褒め言葉だ。ぷんすかしながら、師匠の方に向かって薙刀を構える。
「【式・火巳】。行け」
師匠の短い呪と共に、紙片が小さな赤い蛇に変身する。向かってくるその蛇に狙いを定めて、ちょん、と刃を触れさせる。
小さな蛇は、ぱり、ぱり、と凍てつき、砕けた。薙刀も砕けた。
「あーっ! またやり直しかあ……」
「昨日は最弱のそれすら滅せなかったんだ、いいんじゃないか。そろそろ上がるぞ、日が沈む」
「もうちょっとだけ」
夏休みの間に、一人でも日常的に鍛錬できる程度の力はつけたかった。まだ呪符という補助がないと、体外に出すことすらできないのだ。
師匠は、粘る私の頭をぽんぽんと宥めるように撫でた。
「駄目だ。気づいていないだけで相当疲れているだろう。やる気だけがあっても、何もかもがうまくいくわけではない。それに危険だ。お前は弱いから、妖魔には良い餌だろう。……夜は練習するなよ? ただでさえ、退魔師の家は妖魔の出やすいところなんだ」
「う、はい……」
実は、夜も寝る前にこっそり鬼血を練っていた。後ろめたくて思わず目を逸らす。眇められた師匠の視線が痛くて、私は濡れた長い髪をぎゅっと絞った。
夏休みであることをいいことに、私は藤宮家の離れに泊まりこんでいる。離れというよりは、親戚や弟子の宿泊施設らしい。夕飯は藤宮家と一緒にとる。
とはいえ、食卓を囲むのは私と師匠と美紀さんとその旦那さんだ。彼らのお弟子さんたちと三人いる息子さんの内の上二人は、全国各地で働いていてお盆の総会以外では滅多に来ないんだとか。
しかし今夜からは美紀さんの末息子の春くんがいる。学校の合宿が終わったらしい。不満げに白米を掻きこんでいた。
「桃ちゃん、修行はどう?」
「ダメダメです……。師匠に見せてもらったときは、ちょちょちょーい、とできると思っていました」
「ははは、そんなに簡単にできたら僕らの働き口が消えてしまうな」
焦りを隠して、正直に答える。和やかに笑う藤宮夫妻に、なんだか癒された。父さんがいる自宅の食事は、最近ちょっとぎこちなかったから。
母さんが作るものより、少しぴりっとしたひき肉を、縦に裂いたアツアツのしんなりの揚げ茄子に絡めて口に運ぶ。麻婆茄子おいしい。白米とエンドレスで食べられる。修行が上手くいっていなくても、おいしいものは美味しいのだ。
「……瀧弥兄、実際どうなんだよ、そいつ」
だんまりを決め込んでいた春くんは、いただきます以降初めて口を開いた。
私はハッとして、噛みかけのピーマンを飲みこんだ。思わず箸をとめて師匠を凝視しする。
「まあ、努力家だよ。座学も実技も」
春くんの言葉遣いに、美紀さんが目を吊り上げてたが、出鼻を挫くように淡々と師匠が評価を下す。
地味に嬉しい。師匠がお世辞を言うとも思えないし。
「ふうん……。ごちそうさま」
面白くなさそうに呟いて、春くんはさっさと自室に戻っていった。
藤宮夫妻は揃って溜息を吐いた。
「まったく、来年は中学生なのに……。桃ちゃん、ごめんなさいねえ。あの子、才能はあるんだけど」
「このまま修行を怠るようなら、それまでの器だろう。ちょっと前までは優秀だったんだが……」
才能。素質。
私には無いものだ。師匠には、それに関してだけは、最低レベルだと。「苦労するぞ」、と最初に言われたのだ。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
だけど、鬼衛軍を諦めるつもりは全くない。私は空の茶碗にキチンと手を合わせた。
夜は夜で、座学がある。離れの座敷で、師匠と向かい合うように正座した。
昨夜までは属性同士の関係や性質について教わっていた。例えば火は盛え、金を溶かし、水に消され、極まればマグマのように液性を帯びる、とか。
今夜は何を教えてくれるんだろう。墨を磨っているけど。
「まずは昨日の確認から入るが、妖魔について。いつどこで現れて、何故倒さねばならないか」
「妖魔は黄昏時から夜にかけて現れることが多くて。倒す理由は、人を憑り殺すから。憑り殺すことを繰り返すことで力を増し、疫病を流行らせたりするから」
「出現しやすい場所は?」
「えっと、神社とか、お寺とか、退魔師がわざと結界を緩くしているところ。それから山とか海とか、境界線」
「そうだな。あとは弱い妖魔がいるところに引き寄せられやすい。各個撃破が望ましいな。うん、よく覚えていると思うぞ」
師匠の褒め方はぎこちない。視線がよろよろと私の視界の左右を往復する。
やっぱり、私の進度は遅れているからだろうか。もっと頑張らなきゃ。
「今日は妖魔の見分け方と式符――呪符の一種の作成だな。といっても、妖魔の見分け方は簡単で、体の一部に属性の色が出る。その多くは眼球だ。外見は鬼の形をしているもの多いが、最近は悪魔型なんていうのもでてきた」
そうなんだー。ノートを広げてメモを取る。
目の色が属性の色ってことは、初めて見た妖魔は赤い目だったから火属性だったのかな。
「師匠、妖魔はなんで人間を襲うんですか?」
社会の教科書に載っている通り、人間は彼らにとって玩具なんだろうか。鉛筆を動かすのを止め、尋ねてみる。
「さあ? 腹でも空いているんだろ?」
「雑すぎませんか」
じとっと見つめるがお構いなし。師匠はおもむろに和紙を出して、筆をさらさらと滑らせはじめた。
「最新の研究でも分かってないしなあ……。一応、間で存在するための鬼血を人間から吸収する説が有力なんだよ。共食いするから、俺は違うんじゃないかとは思っているけど。真偽は確かめようもないがな。っと、ま、こんなもんか。水子の式符な。書け」
ぐにゃぐにゃっとのたうつ文字――もはや前衛芸術――を必死で真似る。うおおおお、墨が跳ねた! なんだこの駄筆! でも師匠と同じ筆だしなあ……。
ちらっと師匠を見てこっそり溜息を吐き。ワガママ・ブラシちゃんをくるりと持ち直す。……ぜってえワガママ・ブラシをねじ伏せる。
師匠に一瞥され添削され捨てられを数十回繰り返し、ようやく多少は形になったらしい。
いい加減手首が痛くなってきたころ、師匠は一通り見聞して、私の書いた呪符に鬼血を後詰めした。ぼうと黒い鼠が現れ、しばらくすると消えてしまった。
なんだか、無性に嬉しかった。心臓がくすぐられるような、もどかしいような喜びが湧くのだ。
それからは、ほぼ立て続けに黒い鼠が現れた。師匠はちらりと壁掛け時計を見上げた。つられて私も時計を見ると、短針は既に十を過ぎていた。
「よし、今夜はこの辺で終わりだ。鬼器が補助なしで作れるようになったら、鬼血込めて呪符を作れるようにするぞ。さっさと子供は寝ろ。じゃないと、そのなけなしの鬼血が育たないぞ。下手したら妖魔と同等だ」
「そうなんですか!? 寝ます、おやすみなさい」
そんなの初めて知った。ただでさえ後発というか、訓練を始めたのが遅いのだ。私としては、ちょっとでも力を増やしておきたい。
私はナスが大嫌いです。唯一食えるのが麻婆茄子……。
あと、身長や記憶と違い、鬼血は増えません。訓練あるのみです。まあ、訓練でもあんまり増えませんがね。ちなみに、桃ちゃんが世間知らずなのは仕様ですので生暖かく見守りください。
◇
別になくてもいいかなーと変更したけれど、知りたい人もいるかな、と思って設定説明を一応書いておく。
「まずは昨日の確認から入るが、十干とその色は?」
「丙が赤、丁が紫、戊が黄、己が緑、庚が白、辛が紅、壬が黒、癸が驪黄、甲が青、乙が縹!」
十干は各属性の音に兄か妹を付けるだけなので覚えるのがとても楽だ。色に関しては、兄の色をまず覚えて、妹、が付く方には、その属性に勝つ属性の色と混ぜればいい。