第十七話 ビショップ家の人々
キリーン視点を含みます。
教会の皆を救出してから三日――
キリーン・ビショップは教会の裏で悩んでいた。
「キリーン、お前には二つの道がある。
縛られず、しかし力のない、
一人の女として生きるか。
権力はあるが、自由のない、
アブラハムの長となるか。
どちらを選んでも構わない。
どうするかはお前が決めるんだ」
今朝キリーンはそう伝えられた。
アブラハムとの交渉を終えた、
ナイジェルさんの言葉だ。
「明日の朝までに答えを聞かせてくれ」
ナイジェルさんはそれだけを伝えると、
ぐったりと椅子にもたれかかる。
全身に巻かれた包帯は漏れ出る血に汚れている。
待機している姉たちが素早くその交換に入る。
治療が終わるとすぐ寝入ったようだ。
キリーンはそれから半日何も考えられずにいた。
選べと言われても分からなかった。
知ってはいた。
自分がアブラハムの指導者の娘であることも。
両親が既にこの世にいないことも。
三年くらい前に教えられた。
ナイジェルさんはそのことを告げながら、
まるで昨日のことのように悔しそうにしていた。
共にいたトビー兄さんは真剣な目で言った。
「いいか、このことは絶対に誰にも話すな。
これからも男のふりを続けるんだ。
アブラハムに隙を見せてはならない。
だがもし知られても気にしなくていい。
すぐに俺かナイジェルに言え。
そうすれば後のことは全て俺が始末する」
念を押す兄さんは優しげに微笑む。
ただ目だけがぎらぎらと憎悪を迸らせていた。
何をどう処理するというのだろうか。
身体が震えた。
二人の激情に共感できなかった。
キリーンは両親の死に何の感情も抱いていない。
親がいないこと自体は寂しいことだったが、
周りには同じような境遇の子供が幾らでもいた。
家族は並みの子供よりも多かった。
教会にいれば、
何人もの姉と兄が甘えさせてくれ、
何人もの弟と妹の面倒を見ないといけなかった。
キリーンは自分が恵まれていると感じていた。
自分の血筋のことなんてどうでもよかった。
だが、二人は違ったようだった。
ナイジェルさんは情報屋として、
トビー兄さんは迷宮探索者として、
二人は危険の中に身を置き続けた。
たまに二人だけで話す機会を設けては、
怒りを含んだ低い声音で密談を続けた。
キリーンには、
二人が過去に縛られた亡者に見えた。
疎外感はあったけれど、
あんなものと同じにはなりたくもなかった。
結局、兄さんは死んだ。
ナイジェルさんも死にかけた。
彼の傷ついた姿を思うと今でも身体が震える。
確かに両親を殺した人たちは破滅しただろう。
それでも己の命を削るような復讐に、
意味があるとは到底思えなかった。
力が欲しくないと言えば嘘になる。
スワルガは命の軽い世界だ。
力と安全は誰もが欲しがるものだった。
キリーンも例外ではない。
でも兄のようにはなりたくなかった。
両親のようにもなりたくない。
今のままでよかった。
今のままがよかった。
キリーンは悩む。
その時だった。
「こんなところでどうしたんですか?」
振り返ると茶色の髪の少女が立っていた。
「ハルカこそ、どうしたんだ?」
その手にはカップが二つあった。
「ちょっと一息つきたくて。あ、どうぞ」
受け取って口をつける。お茶だ。
ハルカはキリーンの座る鋼材に腰を下ろす。
「教会、もう直りそうですね。
こんなに早く進むとは思いませんでした」
ハルカは笑う。
「そりゃスワルガ中の卒業生が、
手伝ってくれてるんだからな。
三日もあれば住めるくらいにはなるよ」
キリーンは答えた。
ハルカはキリーンの顔を覗き込むと、
心配そうに言う。
「何か、あったんですか?」
キリーンはどう答えていいか迷った。
だがすぐに答えは出る。
自分で考えて駄目なら聞いてみよう。
「ちょっと悩んでいることがあって」
キリーンは説明した。
自分がアブラハムの前当主の娘であること。
兄とナイジェルがしてきたこと。
次代の長にならないかと誘われていること。
長の座にそこまで魅力を感じていないこと。
そして兄たちのようにはなりたくないこと。
今のまま暮らしていきたいこと。
もろもろを整理できないまま語る。
「どうしたらいいのかな」
キリーンは呟く。
聞き終えたハルカは少し考え言った。
「あなたがどうしたいか、
だと思います。
教会に残ったとしても、
アブラハムに入ったとしても、
色々なものが変わっていきます。
今までと同じではいられないでしょう」
静かな声音だった。
「ですが、全ては難しくとも、
手の届く範囲のもの一つなら、
手放さずにいられるかもしれない。
私はそう思います」
そしてハルカは微笑んだ。
「私も両親がいないんです。
母は、私が生まれてすぐに。
父は、ここだけの秘密ですけど、
おそらくあなたの父親と同じように、
暗殺されたのだと思います。
気付けば私は一人でした。
そして周囲にいたのは、
父を殺した者の仲間ばかりでした。
私には何もありませんでした。
生前の父のこと、あまり好きではなかったのに、
もう一度会いたくてたまりませんでした。
そして世界が怖くて、何もできなくなりました。
そんな時、私を救ってくれたのが兄さんでした。
兄さんはずっと私を守ってくれました。
兄さんに守られながら、
私はたくさんのものを手に入れました。
家族、技術、知識、それに力も。
失うものがたくさんできました。
でも、今でも思います。
私は孤独にはもう耐えられない。
何を失ってもかまわないけれど、
一人にだけはなりたくない、そう思います。
でも、これは私がそうであるというだけです。
あなたは何を望みますか?
キリーンの絶対に失いたくないものは何ですか」
キリーンは考え込む。
ハルカは微笑む。
「答えは決まっていると思います。
キリーンの大切なものが何かくらい、
隣から見ていればすぐに分かりますから」
キリーンは考える。
でも分からない。
「ちょっと考えてみる」
「それじゃ私はまたお手伝いしてきますね」
ハルカは戻っていく。
その背中を目で追いかけて、
キリーンはため息をつく。
考えるのは苦手だった。
これ以上、ここに座っていても、
何も思い浮かびそうにない。
立ち上がると、教会に向かう。
廊下でナイジェルさんの部屋の前を通る。
ナイジェルさんはまだ寝ているみたいだ。
ふと部屋の中に足を向ける。
ナイジェルさんの寝顔を見つめた。
随分と、おっさんになったなあと思う。
昔はもっときれいな肌をしていたはずだ。
だがその身体は昔のままの、
傷だらけの戦士の身体だ。
いつも側にいてくれた。
いつも守ってくれていた。
でもシモン派が滅んだ今、
彼が彼女の側にいる理由はなくなっている。
ナイジェルさんはこれからどうするんだろう?
ハルカの言葉が浮かぶ。
「失えないものか……」
答えが見つかった、
ような気がした。
ここで待っていて、
ナイジェルさんが起きたら、
これからの予定を訊いてみよう。
ベッドの脇に座り込んだまま、
キリーンは目を閉じた。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
遙花を救出してから五日が過ぎた。
アリスに簡単な報告を送った後、
僕らは休養をとる。
すぐに帰ってもよかった。
だが遙花の調子が悪そうだったので、
しばらく時間をとることにしたのだ。
それに幾つか調べておきたいこともあった。
遙花は二日ほどで元気になった。
その後はまた教会に泊り込み始めた。
再建の手伝いをしているらしい。
遙花に友達ができたのはいいことだと思う。
だがそろそろ春休みも終盤に差し掛かっている。
僕は遙花の様子を窺うため教会に向かった。
裏通りを歩き抜け二十分ほどでたどり着く。
教会は完全に元通りになっていた。
庭では子供たちが走り回っている。
フレアはその場で立ち止まる。
僕は扉を開け、中に入る。
礼拝堂の奥にナイジェルが立っていた。
「ラッカードか。久しぶりだな」
「遙花が世話になっている」
僕は頭を下げる。
「世話してもらっているのはこっちさ」
ナイジェルは笑う。
奥の部屋に案内される。
小さなテーブルと椅子は無事だったようだ。
向かい合って座るとナイジェルが頭を下げた。
「この間は本当に助かった。
そして嬢ちゃんを危険に晒して済まなかった」
僕は頷く。
その点に情状酌量の余地はないだろう。
キリーンを脱出させる余裕はあったのだから。
だが非を認めたものを、
それ以上追求する必要はない。
「報酬はどうする?」
「僕は子供たちを救出しあんたも遙花を守った。
帳尻はそれなりに合っている」
「守りきれなかったぞ?」
「ではその分、貸し一つだ。
いつか返してもらおう」
ナイジェルは頷く。
僕は尋ねる。
「アブラハムとの交渉はどうなった?」
ナイジェルの説明を僕は聞く。
結局彼はアブラハムに戻ることになったようだ。
落ちぶれた古巣を見捨てきれなかったのだ。
キリーンを長として自分は後見人となるらしい。
確かにナイジェルなら、スワルガでも顔が広い。
そしてキリーンは英雄トビーの妹だ。
失墜しきったアブラハムの株を復活させるのに、
これ以上の選択はないだろう。
ふと疑問が湧いた。
「教会の管理はどうするんだ?」
ナイジェルは答える。
「俺の代わりはもう決まっている」
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
ナイジェルと共に部屋を出ると、
次代の教会の管理者が掃除をしていた。
彼女の名はレイミア・エルドリッジ。
黄衣派の中にいたトビーの協力者だ。
彼女は数日前から教会で、
起居するようになっていたらしい。
「お久しぶりです」
女は僕を見るとにこやかに微笑んだ。
僕は僅かに顔をひきつらせて答えた。
「先日は世話になったな」
「随分、迷惑をかけられました」
女は苦笑した。
僕は女を見つめる。
その体型に少し違和感があった。
ゆるやかな余裕のある服装。
お腹が心持ち脹らんでいるように見えた。
「子供がいるのか?」
「はい」
女は頷く。
「トビーの子供です」
そういうことか。
トビーがなぜ黄衣派の裏切り者を信頼できたか。
その理由がやっと分かった。
「そんな顔をしないでください」
女は少し顔を曇らせる。
「あの人が死んで、
こうして残されたことは悲しいです。
ですが、あの人は、
父と母を見殺しにした自分を責めていました。
その責任を取ることにしか、生きる意味を、
見つけられなかったのだと思います。
そのために命を捨てることは、
あの人の望みだったでしょう」
女は自分のお腹を撫でる。
「色々ありましたが、
あなたには感謝しています。
トビーの願ったことを、
最終的に叶えたのはあなたですから」
穏やかな表情だった。
だから僕に言えることは何もなかった。




