その五
「どこへやった!」
声を荒らげる男を冷めた目で見上げたメルファは、嘲ってやろうとしたが、頬に走った鋭い痛みに顔をしかめた。目の前の男に、平手で打たれたのだ。
金を基調とした趣味の悪い部屋には、太った男とメルファしかいなかった。
そう、彼こそがメルファを捜していた男だ。
イーシスたちがいた屋敷を出てすぐに、アークと一緒に守警団員に捕まったのだ。その後すぐにメル
ファだけ男の元へと連れて行かれた。アークと引き離されたのは心残りだったが、護衛神官であるアークに無礼を働く者などいないだろう。
「仲間を解放しないなら返すもんかっ」
印章を持っているメルファは強気だった。
男は印章を手に入れようと、メルファの体を隅から隅まで調べたのだが、見つけ出せなかったのだ。
憎々しくメルファを睨みつける男。だがそれも一瞬のことで、怒りに染まっていた目が、しだいに弱々しくなる。
「……困ったぞ、困ったぞ」
でっぷりとした体を揺らしながら、うろうろと室内を動き回る男の顔は青ざめていた。まるでこの世の不幸をすべて背負ったかのような姿だ。
「あたしを殺したら、永久に戻ってこないよ。残念だったね、悪巧みが失敗して!」
「お前……っ」
男が驚愕したように目を見開いた。
「一体どこまで知っておる! まさか、それを狙ってわざと──……」
「あたしにはわかるよ。あんたとルオンの神官どもが繋がってるなんてね。けど、あんたたちの企みなんか成功しない。絶対に」
「ええい、なんと生意気な! 牢に放り込んでおけっ」
苛立たしそうに舌打ちした男は、そばにいた従僕にそう命じた。
乱暴にメルファの腕をとった従僕は、地下牢へとメルファを連れて行った。
(また、地下か。ほんと、コイツらって地下が好きなんだから)
湿った地下は、どこか不気味だった。生臭く、澱んだ空気が鼻を突く。
「大人しくしていろ」
「いたっ」
鉄格子の牢へと放り投げられたメルファは、思い切り石の床へと体を打ち付けた。
しかし、メルファが文句を言おうにも、従僕の姿はすでになかった。鉄格子に手を伸ばしたメルファは、鍵がしっかりかけられていることを確認して舌打ちした。
鍵は見たこともない形をしていた。これを針金で開けるのは難しいだろう。
松明のあかりが、うっすらとこの牢を照らしてくれてはいるが、イーシスたちの地下牢に比べるとかなり暗い。
「ああ、もうっ、最悪!」
ここを見て、イーシスたちの地下牢がどんなに恵まれていたかわかった。あそこはここまで不衛生ではなかった。少なくとも、人は住める環境であった。
じめじめとしているせいかカビ臭いし、肌に張りつくような気持ち悪さがある。しかも石の床はごつごつしていて、ところどころ尖っていた。
「メル、ファ……?」
弱々しい声に、ハッとしたメルファは目を眇めた。暗闇の中で、うっすらと浮かび上がる少女の姿に瞠目する。てっきり自分しかいないと思っていたのだ。
「うそっ、なんでアイリィがここにいるのさ!」
アイリィと呼ばれた少女は、冷たい床に横たわっていた。その上には、毛布がのっていた。が、毛布と呼ぶにはあまりにも汚い。いつ洗ったのかわからないほど、つんとした匂いがした。
「メ、ルファ……ふ、ぅっ」
ぽろぽろと涙を流す少女の呼吸はどこか荒い。そっと頬に触れたメルファは、熱があることに気づいて動揺した。
「いつから……? いつから具合悪いの?」
「わか……ない。ずっと、ここにいるの」
「ほかの子たちは?」
「わたしだけ、ここに連れてこられたの」
ああ、と胸がきゅっと罪悪感に締めつけられるようだった。
なぜメルファより年下の彼女に目をつけたのかはわからなかったが、きっと間違えられて連れてこられたのだろう。メルファは毛布をめくると、ボロボロになった衣服を目に入れて唇を噛んだ。暗くてよく見えないが、赤黒い染みがいたるところにあるはずだ。手当もされず放置されていたせいで傷口が膿み、発熱していたのだ。
「メルファ、助けて……」
「うん、わかった。わかったよ。だから、ね? ちょっと眠ろう」
メルファは優しくアイリィの髪を撫でた。お風呂はおろか、体だって拭かせてもらっていないのだろう。薄暗くても、彼女が発する臭いでわかった。まるで死臭のように腐った臭いは、もう長くはないような予感をさせた。
久しぶりの人肌に安心したのか、ふわりと微笑んだアイリィが目を閉じた。
メルファは、汚れた毛布を隅に放ると、羽織っていた外套をアイリィにかけてやった。涙が出そうになったが、ぐっと堪えた。
多分、ほかの仲間もこんな状態なのかもしれない。いや、すでに何人か命を落として……。
(……ッ。そんなことない。みんな死んでなんかいないっ)
だって自分は助けるためにここに来たのだ。
元はといえばメルファがいけないのに、被害を被ったのは小さな仲間なのだ。まさかここまで酷いことをされているとは知らず、のうのうと主神殿で生活していたことが悔やまれる。
(なんてあたしはちっぽけなの。苦しんでる仲間になにもしてやれないなんて……)
このままアイリィを放っておけば、死んでしまうかもしれない。
今のメルファの切り札は印章だけだ。
見誤ってはいけない。
もし取引に失敗したら、みんな死んでしまうのだから。
だんだんと地下牢の気温が低くなっていくようだった。手をこすったメルファは、アイリィの体を引き寄せようとして、額に浮いている汗に気づいた。苦しげに吐き出される息。顔は真っ赤で、寒さからか震えていた。
「アイリィ!」
メルファが声を掛けるが、アイリィは反応しない。ただ荒く呼吸を繰り返すだけだ。
尋常ではない姿に、メルファは牢を乱暴に揺らした。騒ぎ立てると、その音に気づいた牢番が駆け寄ってきた。
「おとなしくしろ!」
「医者を呼んできて! このままじゃアイリィが死んじゃう」
「はっ、それがどうした。貧民区のガキがくたばろうが、ドゥオーラク様はお心を痛めはしないさ」
「!」
ああ、そうだ。
こんな反応は当たり前なのだ。
貧民区の人間というだけで、人として扱われない。
嘲いながら去っていく牢番に、メルファはみっともなく手を伸ばすが、格子に阻まれて空を切った。力なく掌を握りしめたメルファは、ダンッと硬い床を叩いた。
「ちくしょ──……っ」
「さ、むい……」
カタカタと歯を鳴らしながら呟いたアイリィに駆け寄ったメルファは、その小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「ごめんね……ごめん……全部あたしのせいなのに!」
なのに、何もできない。
救うことも、その痛みを消し去ることも。
メルファはただ抱きしめて、そばにいてやることしかできないのだ。
(あたし、なにやってたんだろ……。女神のまねごとなんかやったってさ、なんにもできないじゃん。だれも救えない……。ホンモノ女神だったらみんなを救えた?)
女神レウリアーナを心の中で思い描く。
目映い光に包まれた美しい女神を想像するだけで、不思議と活力が沸いてくるようだった。
(なんだろ、変な感じ。女神を身近に感じるなんてさ……)
仮初めの女神としての体験が、メルファを女神レウリアーナに近づけたのだろうか。
じんと痺れるような温かさに包まれたメルファは、閉じていた目をゆっくりと開けた。
その眼差しに、先ほどまでの悲愴さはない。空色の目は、薄暗闇の中でも金星のごとく輝いていた。
(大丈夫。やれる。だってあたしにはまだ切り札があるから)
アイリィに謝ってから体を離したメルファは、もう一度格子に近づいた。ぼさぼさの髪を手串で整え、埃やらで汚れた衣服をさっと払って綺麗にした。
メルファはバルティンに教えられたことを思い出しながら、背筋をぴんと伸ばした。
「──この屋敷の主を呼んできなさい」
毅然と言い放つメルファに応える声はない。
けれど激昂することなく、もう一度メルファは繰り返した。
「この屋敷の主を呼んできなさい」
やはり応じる気配のない牢番にめげることなくメルファは何度も同じ言葉を繰り返した。
そうして十五回が過ぎたところで、ようやく先ほどの牢番が苛立たしげに現れた。メルファを見下ろす目つきは冷ややかだ。
けれどメルファは怯まなかった。
(怒っちゃ駄目だ。思い出せ、バルティンに教わったこと。あたしは、魅せなきゃいけない。盗人のメルファじゃなくて、女神レウリアーナのように演じるんだ)
自分に言い聞かせるように胸中で呟くと、牢番をしっかり見返して口を開いた。
「この屋敷の主を呼んできなさい。さもないと、彼は宝物を永久に失うことになります」
「なんだっ、いきなり貴族の女みてぇな口の利き方しやがって」
はんっと馬鹿にしたように嗤った牢番だったが、メルファの落ち着いた物腰と口調に、しだいに落ち着かなそうに視線をさまよわせた。
「主人の機嫌をそこねたくないのなら、早急に連れてくることです。けれど、わたくしの言葉を無視したのなら、あなたは職を失うでしょうね。──いいえ、気性の荒い方のようだから、職だけではすまないかも」
「お、脅そうったって……」
言い返す語気は弱い。
もう一押しだと感じたメルファは、慈愛深く微笑んだ。ほんの少し引きつってしまったのはご愛敬。
彼は年端もいかないメルファの麗しい微笑に、ぼけっと大口を開けて見惚れていた。
「もし話をつけてくださるのなら、あなたのことを言ってさしあげてもいいのよ。一生牢番など退屈でしょう? 出世したいのなら、わたくしが手を貸してあげてもいいわ」
「そんな権限などお前にあるものかっ。汚らしいドブネズミが! だ、騙されないぞ」
ハッとわれに返ったらしい牢番が激しく首を振る。だが、その中には確かに逡巡があった。メルファはそれを見逃さなかった。
「ならば、一生牢番でいるといいでしょう」
メルファは興を失ったようにアイリィの元へ戻ろうとした。
もう少し絡んでくると思っていた様子の牢番は、動揺したように口をパクパクと動かした。
「ちょ、ちょっと待て!」
メルファがゆっくりと振り向くと、わずかに期待を秘めた目でメルファを見つめる牢番と視線があった。
「ほ、本当に旦那様にオレのことよく言ってくれるのか?」
「ええ、あなたの熱心な仕事ぶりを報告してあげるわ。きっとあなたの主人は喜ぶでしょうね。有能な部下をもって」
「そ、そうか……」
にやりと崩れそうになった頬を必死に引き締めながら、彼は重々しく頷いた。
「しょ、しょうがねぇから有能なオレ様が旦那様を連れてこよう」
「ご恩に感謝いたします」
軽く顎を下げたメルファは、主神殿で習った正式なお辞儀をした。たとえ見た目は綺麗と言い難くとも、その身にまとう気品と優雅さは一朝一夕で身につくものではない典雅さがあった。
流れるような美しい動作に、牢番は思わず敬礼していた。そのあと、なにをやっているのだと己を責めるように口の端を曲げると、逃げるように去っていった。
残されたメルファは思わず、その場に崩れ落ちそうになった。
(やるだけのことはやった。あとは直接取引するだけだ)
「めがみ、さま……?」
そのとき、うなされていたアイリィが呟いた。いつから起きていたのか、うっすらと目を開けていた。
「アイリィ!」
「メル、ファ……?」
ふわりと微笑んだアイリィは秘密を打ち明けるように言った。
「いまね、そこに、めがみさまがいたの。きっと、わたしたちのこと、助けてくれるわ」
「そうだね。女神が助けてくれるよ。だから祈ろう」
「うん……」
アイリィは再び眠ってしまった。その顔が少しだけ穏やかなのは気のせいだろうか。
(祈ろうなんて……バッカみたい。女神なんか救ってくれるはずもないのに)
けれどアイリィに真実を告げるのは酷だろう。
女神と見間違えたのがメルファだと知ったら、酷くがっかりするだろうから。
そこへ、複数の足音が聞こえてきた。従僕を伴ったドゥオーラクがやって来たのだろう。
メルファは再び仮面をつけた。
「ほぅ、これは……」
メルファを不躾に見つめるドゥオーラクが唸った。品定めでもするようなじっとりとした目つきに、メルファの肌が粟立ったが、それを気取られないよう微笑むと優雅にお辞儀をした。
ここが薄暗い地下でよかった。口元の傷やドゥオーラクにぶたれた頬の赤みに気づかれずにすんだからだ。もし、明るい部屋の下だったら、いくら取りつくろっても傷跡があるだけで魅力は半減してしまうだろう。
「その礼は……」
ドゥオーラクの息を呑む声が聞こえた。
困惑したように、けれど焦りを滲ませた顔が、少し強ばる。
「まさか、いや、そんなはずはない……」
ぶつぶつと呟くドゥオーラクには、メルファの正式な礼の形が女神レウリアーナと同じものに気づいたようだった。
(もしかして、こいつも神官? 神官じゃなかったら知ってるはずない)
しかし、一度神に身を捧げた神官が、俗世へ帰化したなど聞いたことがない。
ルオンの有力者の名ならば、メルファもそれなりに知っていたが、ドゥオーラクの名はまったく知らなかった。守警団と神官に強い繋がりを持っているならば、ルオンでそれなりの地位に就いていてもおかしくはない。
なのに、メルファが知らないとなると故意に隠されていたか、流れ着いてまだ日の浅い者であるかのどちらかだ。
後者は却下だろう。
男が所有するこの屋敷は、立派なものだった。外観はほかの貴族の屋敷に劣るが、これだけしっかりした造りならば、建築時に噂は広がるはず。メルファが主神殿で閉じこもっていた間に、家が建ったとはとうてい思えない。
買い取ったにしても、よそ者の男にルオンの者が手渡すだろうか。
とすれば、自ずと答えは前者となる。
神官と繋がり裏で暗躍しているのならば、その存在が秘されていても納得できる。
「ど、どこでそれを覚えた」
わずかに畏敬を覗かせながらドゥオーラクが吠えるように叫んだ。
「もちろん、主神殿です」
「馬鹿な! 貴様は貧民区で育った盗人の罪人だろう。そんなのは戯言だ」
「わたくしは女神レウリアーナの代わりとして、教育を受けていました」
「代わり……? そんなの聞いてないぞ」
ドゥオーラクの顔色が見る間に青ざめていく。悪夢を見ているかのように、その顔色は冴えない。
「大神官イーシスとあなた方の間でどのような問題が起ころうと、わたくしが関与すべき事柄ではありません」
メルファがそう宣言すると、明らかに安堵したようにドゥオーラクの顔が緩んだ。
「ただ、わたくしの大切な家族を脅かすというのならば、話は別です」
「か、家族ですと?」
素っ頓狂な声を上げたドゥオーラクは、冷や汗を掻いた。
「そこにいる娘アイリィと、ほかに囚われている貧民区の子供たちです。直ちに解放し、安全が確認できたのなら、わたくしはあなたに盗んだ物をお返ししましょう」
盗んだ物を返すのは当然のことなのに、メルファの女神発言に動揺を隠せないドゥオーラクはその場に平伏していた。
従僕たちが驚いた顔をする中、主神殿の神官と同じ礼をするドゥオーラクを見て、メルファは彼が神官であった確信を深めたのだった。