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『ブラック企業で死にかけた経理係長、ギャル服店に拾われる』 ─拾ったのは、強気なギャル店長  作者: 月白ふゆ


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第24話 選ばれた日常

朝、店のシャッターの前に立った時、遼人は一瞬だけ立ち止まった。


昨日、何かが変わった。


言葉にしないまま、でも確かに変わった。


変わったのに、今日も世界はいつも通り動いている。通勤の足音、車の音、遠くの信号機の音。風がガラスに当たり、少し冷たい。辺りの空気は昨日と同じ顔をして、何も知らないふりをしている。


それが妙に甘い。


甘い、という言葉は遼人の中で珍しかった。甘さは、怠けや隙に繋がるものだと思ってきた。ブラック企業で染みついた感覚では、甘いものはすぐ奪われる。甘いものを守るには、固くしなければならない。


でも今の甘さは違う。隙じゃない。救いだ。


遼人はポケットの中の鍵束に触れた。


合鍵ではない。家の鍵でもない。


開店鍵だ。


昨日の夜、蘭奈が「続ける? うちで」と言った後、締め作業を終えて店の鍵を確認した時、蘭奈は何も言わずに鍵束を遼人の手に置いた。置いて、短く言った。


「明日、先に開けろ」


命令の形。いつも通りの短さ。けれどそれは、単なる業務指示ではない。店長が“店の鍵”を預けるという行為は、店の中心を渡す行為に近い。遼人が今までやってきたことを認めるだけじゃなく、明日の最初の呼吸を遼人に委ねる行為だ。


遼人は、その鍵束を受け取ったとき、胸の奥が少しだけ熱くなった。熱くなったのに、笑えなかった。軽くしてしまうのが怖かったからだ。軽くしなければ壊れない、という考え方をようやく手放し始めたところだった。


遼人は鍵を回し、シャッターを上げた。


金属音が店内に響き、ガラス越しの光が店に入る。照明を点ける。スピーカーを入れる。いつものプレイリストが流れ、Edge Girlsが“店”になる。


いつも通り。


そのいつも通りが、昨日までより少しだけ甘い。


バックヤードの空調が回る音が、今日は柔らかく聞こえた。段ボールの匂いが、少しだけ生活の匂いに近い。遼人は自分の手が迷わずに動くことに、静かな安心を覚えた。


数分後、陽那が入ってくる。


「おはよ」


いつもの明るさ。けれど目が、遼人の手元――鍵束の置き場所に一瞬だけ向かう。向かって、すぐ戻る。その戻し方が、陽那の“理解”だった。


陽那は何も言わない。


弄らない。


弄らないのに、口元が少しだけ笑っている。笑いは悪意じゃない。納得の笑いだ。賭けをしていた人間が、結果を見た時の笑い。


遼人が「おはようございます」と返すと、陽那は肩をすくめて言った。


「今日、早いじゃん」


「開店、任されました」


遼人は事実だけ言う。言いながら、胸の奥がまた少し熱くなる。任されました、という言葉の中に、選ばれた感覚が混じる。遼人はその混じりを否定しないようにした。


陽那は「へぇ」とだけ言って、レジを開ける。釣銭を確認し、いつもの工程で準備を整える。軽い手つき。でも今日は、遼人の顔を見る回数が少し少ない。見ないようにしているのではない。見守る位置に下がっただけだ。


店の扉が鳴り、蘭奈が入ってくる。


足音はいつも通り速い。強気な店長の圧もいつも通り。胸を張り、突き出すほどに攻めたトップスもいつも通り――いや、今日は少しだけ、さらに分かりやすい。鎧の形は同じでも、意図が変わっている。


蘭奈は遼人を一瞥して、すぐ視線を逸らさない。


逸らさず、短く言った。


「おはよ」


「おはようございます」


遼人も逸らさずに返す。


そして遼人は、蘭奈の胸元を見た。


逃げるように一瞬見て逸らすのではなく、しっかりと見る。見る時間は短い。でも“見た”という事実が残る見方。視線を落として、戻す。蘭奈の目に戻す。


蘭奈の目が一瞬だけ揺れる。


揺れて、すぐ胸を張る。突き出すほどに。自分の強さを見せつける動き。けれど揺れは消えない。揺れが残ったまま、蘭奈は店長の声で言う。


「準備、いつも通り。昼の納品、遼人が受けろ」


命令の形で、任せる。任せることで、頼る。頼ることを、今日の蘭奈は隠さない。


遼人は頷いた。


「分かりました」


午前中の店は、昨日までと同じように回る。


客が来て、試着して、迷って、買って帰る。レジが鳴り、ハンガーが揺れ、袋の音がする。売り場の照明が服を照らし、鏡が光を返す。


何も変わっていないように見える。


けれど、二人の動きが少し変わっている。


遼人が売り場からバックヤードに入るタイミングで、蘭奈が何も言わずに目で追う。追っていることを隠さない。追うのは監視ではなく、確認だ。体調の確認、呼吸の確認。遼人の顔色、水分、肩の硬さ。蘭奈はいつの間にかそれを覚えてしまった。


遼人も同じだ。


蘭奈が棚を直しながら、ほんの一瞬だけ動きが雑になる時がある。焦りが混じる時。あるいは眠りが浅かった時。遼人はそれを見て、短く言う。


「水、飲んでください」


蘭奈は反射で「うるさい」と言いかけて、止める。止めて、代わりに鼻で息を吐く。


「……分かった」


短い承諾。承諾したことに自分で驚いているのが、目の動きで分かる。承諾するという行為は、蘭奈にとって“守られる側”に足を置く行為だからだ。


昼前、遼人はバックヤードの壁に貼ったチェックリストを見た。


仕組み化した運用。休憩の工程。食事の工程。遼人が作ったルールは、遼人が守るためのものだった。けれど今は、蘭奈もそのルールを“店のルール”として受け入れている。


そして今日は、そこに一行増えていた。


「昼食:必ず二人で交代。片方だけ飛ばさない」


文字は蘭奈の字だった。力が強い字。短く、乱暴に見える字。でも内容は、逃げないための字だった。無理をしないための字だった。遼人が無理をすると蘭奈が怖くなる。蘭奈が無理をすると店が崩れる。だから二人で、ルールにする。ルールにすると、言い訳ができない。


遼人はその一行を見て、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


温かさに浸ると危ない、という反射が出そうになる。けれど遼人は今日は反射を否定しない。反射が出るのは過去の影響だ。影響は消えない。でも今は、過去の影響に従わない。


昼の納品が来た。


配送員が段ボールを運び込み、「いつもありがとうございます」と言う。遼人が「こちらこそ」と返し、伝票にサインをする。蘭奈が横で数を確認する。配送員は二人を見て、以前より少しだけ柔らかい笑いを浮かべた。言わない。言わないけれど、空気が変わったことを分かっている。


遼人は段ボールをバックヤードへ運び、仕分けを始める。仕分けの途中で、蘭奈が入ってきた。


「昼」


短い。命令の形。けれどその命令の奥には、「食べろ」という意思がある。「無理するな」という意思がある。「守る」という意思がある。


遼人は手を止めた。


「はい。今行きます」


二人の昼休憩は、以前より具体的になった。


一緒に食べるわけではない。同じ空間にいるわけでもない。ただ、同じ時間帯に交代で食べる。片方が食べている間に、もう片方が売り場を見る。時間をずらして、でも“お互いの食事が確実に発生する”ようにする。工程化だ。


蘭奈がバックヤードの椅子に座り、コンビニの袋を開ける。遼人はレジに立ちながら、時計を見る。十五分。蘭奈が食べる時間。十五分経ったら交代。工程の通り。


蘭奈は食べながら、何度か入口側を見た。遼人が見える。遼人は客対応をしながらも、時々バックヤードの方へ視線を投げる。視線を投げるのは、監視ではない。確認だ。蘭奈が食べているか、無理していないか。蘭奈が“店長として”ではなく“ひとりの人間として”ちゃんと口に物を入れているか。


休憩が終わり、交代する。


遼人がバックヤードへ入ると、蘭奈は立ち上がりながら短く言った。


「全部食えた?」


遼人は一瞬だけ言葉に詰まる。詰まって、素直に答えた。


「はい。……ありがとうございます」


蘭奈は「礼いらない」と言いかけて、言わない。代わりに、目を逸らして言う。


「当たり前だろ」


当たり前。


その言葉は、選ばれた日常の形だ。特別にしない。特別にしないことで続ける。告白もない。触れもしない。代わりに、当たり前が増える。


午後、蘭奈の攻めはさらに露骨になった。


客の前ではいつも通りの強気。けれど、遼人が近くに来るタイミングで、胸を張る角度がわずかに変わる。見せつけるように強調される。鏡の前に立った時、胸のラインが光を拾う。蘭奈はそれを計算しているのに、計算していると認めない顔をしている。


遼人は、逸らさずに見た。


見て、すぐ目に戻す。


見て、戻す。


その動作が、昨日の夜と同じ“選ぶ”の行動だった。触れない。触れないけれど、視線は逃げない。逃げないことで、蘭奈の弱さも強さも“見ている”と伝える。


蘭奈の喉が一瞬だけ動く。動いて、何も言わない。何も言わないまま、棚の服を直す。直しながら胸を張る。突き出すほどに。鎧であり、合図でもある。


陽那はその光景を、売り場の端で見ていた。


以前なら、確信犯の弄りが飛んだはずだった。「店長、今日も強いじゃん」とか、「見ていいって言ったもんね」とか、茶化しで空気を動かす。


でも陽那は今日は言わない。


一歩引いている。


引いているのに、笑っている。笑いは諦めでも、負けでもない。陽那の賭けは“どっちでも崩れない”だった。崩れないと言った通り、陽那は崩れていない。むしろ、誰かを選ぶ場面を見届ける側になっている。


陽那はレジで客を捌きながら、二人のやり取りを視界の端で拾っている。拾って、心の中でだけ頷く。言わない。言わないことが、今の陽那の優しさだ。


夕方、客足が落ちる。締め作業が近づく。陽那が先に上がる日だった。今日の陽那は、いつもより淡々と帰る準備をした。


「お疲れ」


「お疲れさまでした」


蘭奈は短く「お疲れ」と返し、遼人も「お疲れさまでした」と返す。陽那は一度だけ遼人の方を見た。遼人の表情は落ち着いている。落ち着いている中に、昨日までとは違う“決まっている感じ”がある。陽那はそれを見て、口元だけで笑う。


「じゃ、また明日」


弄りはない。ただの挨拶。それが、陽那が一歩引いた証拠だった。


扉の鈴が鳴り、陽那が消える。


店内の音が落ちる。


締め作業が始まる。工程の通りに進む。チェックリストの通りに進む。仕組みが回る。仕組みが回ることが、日常だ。


そして閉店後、シャッターを下ろし、鍵をかけたあと――蘭奈は店の前で立ち止まった。


いつもなら、すぐ歩き出す。すぐ歩き出して、駅までの短い道で何でもない話をして終わる。今日は、立ち止まった。立ち止まって、遼人を見た。逸らさない。


言葉は短い。


「明日も」


それだけ。続きの言葉はない。明日も、開けろ。明日も、来い。明日も、ここにいろ。明日も、無理するな。明日も、帰り待つ。明日も、日常を続ける。全部が詰まっている。


遼人は、その意味を全部分かった。


分かったまま、軽くしない。冗談にしない。感情で膨らませもしない。ちょうどいい大きさで受け止める。


「はい」


遼人の返事は短い。


短いのに、確かだった。


二人はそのまま歩き出す。駅までの道。街灯の下。人通りは少ない。隣を歩く距離は、昨日までと同じようで、少し違う。


選ばれた日常が、ただ進む。


告白はない。


触れもしない。


でも、鍵が預けられ、帰りが待たれ、休憩がルールになり、視線が逃げなくなった。


その全部が、言葉より確かな合意になっていた。

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